終章、光
四、
花が舞っている。
白い、清らかな花が蒼穹の下を舞い狂っている。
吹き付ける花吹雪が視界を覆い、彼は顔の前に腕を差し出して眸をすがめた。
――雪瀬。
柔らかな声が彼の名を呼ぶ。懐かしいような、それでいてひどくくるおしくなるような、その声。ああ、そこにいるんだろうか。まだ、手は届くのだろうか。確かめたくて、闇雲に花霞へと手を差し伸ばす。けれど、声のぬしに触れることは叶わず、ただ、幾枚かの花びらと風の残滓だけが手の中を滑り抜け、そして消えた。
ふと目を開くと、光が燦々と降る陽だまりの中にいた。
見慣れた天井をぼんやり眺め、ああこれが黄泉の国だとしたらあまりにも庶民派だし、もしかしなくても生きてたんだ俺、と考えた。それにしても体の節々が痛い。雪瀬は熱っぽい息をつくと、天井から視線だけを動かし、かたわらに丸まるようにしてうずくまっている少女を見やる。
「ずっとお前、診ていたみたいだぞ」
枕元からこちらの顔を覗き込み、白鷺が言った。
「気分はどうだ?」
「んー……、うん」
「瀬々木を呼んでこようか」
「いや。なんか喉渇いた。水、持ってくるように誰かに頼んで」
「――わかった」
白鷺はこうべを垂れて、すいと部屋を引き返す。障子戸を通り抜けざま、よかった、と扇の呟く声が聴こえた。間に合ってよかった、と。独り言のようで全然独り言になっていない。雪瀬は苦笑を漏らし、白鷺を見送る。
扇がいなくなってしまうと、大きく息を吐いて、枕に顔を横たえた。
庭の樹々が畳に淡い影を作り、その合間を午後のゆるやかな陽射しが射す。夏色の風がゆっくり吹き抜けて、色づき始めた楓の葉が少女の黒髪にふうわり落ちた。
おもむろに手を伸ばして楓の葉を取り去り、それから彼女の頬にかかった黒髪をそっと耳にかけた。
「ほーら桜サン、起きないと風邪ひきますよ」
眠るなら、とりあえず自分の部屋に戻って欲しい。雪瀬はどうやら桜を部屋に運ぶことはできなそうだったので、起きてと彼女の肩を軽く揺らす。だが、よっぽど疲れていたのか、てんで反応は返ってこない。それでもしばらく続けていると、
「……ん」
身じろぎして桜はゆるりと緋色の眸を開いた。寝起きで焦点のあっていない眸をひとつ瞬かせ、こちらの姿を認める。ほどなくその緋色が頼りなく揺れたから、また泣き出すのかな、と思った。記憶にある桜は泣き顔が本当に多い。たわいもないことで、どうだっていいようなことで、すぐに泣く。感情が昂ぶると泣く以外、何もできないみたいに。
だからまたいつもみたいに泣き出すんだろうな、と思っていたのだけど。けれど桜は初めて見せる柔らかい表情で、ひどく安堵したように、――微笑った。
雪瀬は眩しげに目を細める。そのとき胸をついたのはいったいどんな感情だったのか。ただ、そんな綺麗な微笑い方にうまく応えられる自信がなかったから、雪瀬は桜の頭を抱き寄せると、そ、と彼女の額に自分の額を合わせて目を瞑った。じかに伝わる体温がひどくかけがえのないもののように思えて、ついしあわせだと、錯覚する。錯覚をしたまま、今は目を閉じる。この夢が少しでも長く続くよう。
はらり、はらり、色づき始めた緑葉が陽光にきらめきながら、眠る子供たちの上に降る。――それはとある夏の日。夏の終わりの日。時移ろい、空移ろい、遠く虫の声を聞きながら風に揺れる木漏れ日は、優しく温かく、それでいて脆く儚い、光の色をしていた。
一譚、光【完】
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From Karasameyadori with love.
連載期間/2005.8.4〜10.31
2006.8.12 原稿改訂
2007.6.8〜8.5 原稿改訂
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