四章、空蝉
九、
男から連絡が入ったのは、その晩のことだった。
庭の橘の樹の枝に結ばれた文をとって、雪瀬はすばやくそれに視線を走らせる。文には簡素な言葉で用件が走り書かれたあと、毬街の貧民窟にある店の名前が記されていた。
雪瀬は読み終わった文へ蜜蝋をかかげ、その端に火をつけると皿に投げ込む。ちりちりと燃えゆく文を眺め、ひっそり息をこぼした。褥にはちょこんと少女が丸まって眠っている。以前よりは頻度は減ってきたのだが、それでもやっぱり桜は何かことあるごとに雪瀬の部屋にやってくるのだ。近頃はすっかり雪瀬も慣れてきて、少女の気配を感じると布団に入れてあげるようになってしまった。
文が燃えきったのを確認すると、雪瀬は明かりを吹き消し、薄い羽織を身体にかけて褥に横たわる。と、微かな嗚咽を聞きつけてうっすら眸を開いた。見れば、目を閉じたまま少女がくすんくすんと涙をこぼしている。何か悪い夢でも見ているんだろうか。眠りながら泣くなんてすごく器用だなぁ、と変なことに感心して、雪瀬は少女の濡れた頬を手の甲でぬぐいやった。
*
毬街の中でも下層地帯にあたる貧民窟。
黒鳥居が目印の灰闇窟、と呼ばれる無法地帯のすぐそばに、その賭博場はあった。入り口に立つ頭の半分へこんだ男へ割符を見せて、ついでにはした金を握らせてやれば、彼は恭しくこうべを垂れて扉を開いた。
ぎしぎしと軋みをあげて扉が開け放たれる。足を一歩踏み入れると、煎じ煙草の臭いが鼻についた。真昼でも薄暗い室内は白い煙が充満し、その中を男たちがぎゅうぎゅうづめになって座っている。
「壷っ」
男の掛け声がかかり、その場に集まった者たちが丁半へ金をかけていく。
勝負、と男がござの中央に置かれた壷を開いた。ふたつのさいころに記された目は、六と一。足して、七。奇数だから、半だ。歓声と落胆の声が入り混じり、かけ金の取引がなされる。
「失礼」
かけ金をごっそりとられていって機嫌を損ねた様子で煙管をくゆらせていた男の隣に、雪瀬はすっと腰を下ろした。男はにび色の眸をすがめてこちらを見やる。中肉中背、三十代後半、そして額には咎人の証である焼印。――事前に教えられていた特徴と一致している。
「おい、餓鬼。ずいぶんと身なりがいいな」
男は欠けた歯を見せてくつくつと嗤う。そーう?、と雪瀬は間延びした答え方をして微笑んだ。
「遊びに来たのか?」
「イエ、見るだけですが」
「ふん、いいとこのお坊ちゃんが来る場所じゃねぇぜ。ここは」
「忠告ありがとう。――なんか負けが込んでるみたいだね?」
「ああ。今日はついてねぇ。次で財布がからだ」
煙管を口端に引っ掛け、男は肩をすくめる。ふぅん、とうなずき、雪瀬はござのほうへと一瞥をやった。
「勝たせてあげよっか」
「は?」
「勝たせてあげる。その代わり財布がいっぱいになったら、俺の質問に答えてくれる?」
「んなこと、信じられるわけねぇだろう」
「なら、財布がいっぱいになってから信じればいいよ。どうする、乗る? 乗らない?」
「……本当にいっぱいになったらな」
「商談成立」
にやりと笑って、雪瀬は中央に置かれた壷へと視線を投げやった。
「壷!」と先と同じ掛け声がかかる。男の袖を引き、「じゃあまずは半ね」と雪瀬は言った。
「ぶったまげたぜ。まさか本当に勝つなんてよ!」
ぱんぱんに膨らんだ財布へ頬をすり寄せ、男は興奮気味に上ずった声を上げる。財布を大事そうにふところにしまいながら、男はちぇと心なし残念そうに呟いた。
「もっとやれば奴らの金ぜんぶまきあげられたのに」
「やだよ。財布いっぱいが約束でしょうが」
雪瀬はぴしゃりと言って、水茶屋の娘が持ってきたみたらし団子を口に入れた。対面に座る男は久しぶりのごちそうだ、と運ばれてきた蕎麦を見やって、喜々として箸を割っている。
「だが、しっかしあんな当たるなんてお前何者だ? どんな手使った?」
「それは内緒、なのです」
小さく笑い、雪瀬は足元にうずくまる白鷺の頭を軽く撫ぜる。男はいぶかしげに目を瞬かせ、しかしそれもすぐにどうでもよくなってしまったのかずるずると蕎麦をすすり始めた。
仕掛けは簡単。壷の中に顔をつっこんだ扇が逐一さいの目を雪瀬に教えていたのだ。無論、周りの者に扇は見えていないので、男ひとりに勝ち越しをさせられる。だが、下手に種を明かしてその鳥を俺にくれなどと迫られても困るのでここは口を閉ざしておくことにする。
よっぽど空腹だったのか、瞬く間に男は蕎麦を平らげ、箸を置いた。
「それで? 質問がどうのこうの言ってたっけな?」
口元を袖でぬぐいつつ、男はこちらを仰ぐ。のんびりとお茶をすすっていた雪瀬は湯飲みを縁台に置いてうなずくと、軽く身を乗り出した。
「簡単なことだよ。あなた、昔、関所の通行手形の偽造をやっていたんだとか?」
「な、」
とたん、男の目の色が変わる。
「なんでそれ、」
「情報源は秘密」
「――っくそ、やっていたが、だからなんだってんだ。四年前に捕まって牢獄に入れられてら!」
額に押された焼印を指で示し、男はいらいらと明かした。刑期だってもう終えている、と。
「別にあなたの身の上をどうこう言うつもりじゃないよ。俺が訊きたいのは、四年前の、あなたが捕まる直前に通行手形を作ってやった男のこと」
「ああ? 捕まる直前だぁ?」
「そう。確か捕まった毬街の奉行所で言っているよね。“はかられた、あの銀髪の野郎にはかられた”って」
男がはっとした様子でにび色の眸を見開く。どうやら心当たりがあったらしい。雪瀬は男の衿元をつかみ寄せ、「それ、どんな奴?」と鋭い口調で問うた。
「名前、なんて名乗った? 黎ってそういう風に名乗らなかった?」
「わ、わからねぇよ。四年前だぜ、覚えているわけがあるか!」
「じゃあ思い出して」
「っ無茶苦茶な」
男は舌打ちし、雪瀬の手を払って立ち上がろうとする。と、そこで何がしかを思い当たったのか、はたと動きを止めた。
「名前は覚えてねぇが。そういや、確かあいつ……」
「なに?」
「腕に焼印があった気がする。腕から肩にかけて、肌を焼き潰したような痕が。すげぇ気味が悪くって」
「――それだ」
足元にいた扇がぱっと顔を上げる。奴だ、黎だ、と。
雪瀬はとりすがるように男の腕を取った。
「なぁ、他にはなんかない? なんか言ってなかった? どこに行くとか、何をするとか」
「知らねぇよ、ただ俺は奴に都へ入る通行手形を渡しただけだ。そのあとすぐに中央の兵に捕まったからあいつが密告したに違いないと思っただけで。そんなことなんざわかるわきゃねぇ。……ただ」
「ただ?」
「なんだったっけか。確かヨドリを見つけたとかなんとか呟いていたような気もするが」
「ヨドリ? 鳥?」
「都に愛しい娘でもいたんじゃねぇか。――話は終わりだ」
男は告げて、財布から出した銅貨二枚を机に置いてきびすを返す。
暖簾をくぐっていく男へ毎度、と店主が声をかける。雪瀬はすとんと縁台に座り込み、「都」と呟いた。
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