四章、空蝉
八、
ひとつ、宵の鐘楼が鳴る。
暮れ六つ。宵初めだ。
「この家にはひとが少ないねぇ」
青年は夏羽織を衣桁にかけると、微苦笑まじりに部屋を見回した。
ぱちん、と剪定はさみの音が鳴る。薫衣は先ほど奇天烈な形になった菖蒲を直しながら、「数年前に家族と一緒に使用人も出て行ったからな」と乾いた口調で返す。ううむと眉根を寄せて、菖蒲を挿す場所を考える。茶道も香道も歌も、およそ芸と名のつくたいていのものは好かない薫衣だったが、華道だけは別だった。
花を生けるのはいい。花を生けると、いのちに触れる心地がするからだ。あるいは、自然というものを捻じ曲げて“うつくし”と評すひとの原初を見る心地がするからだ。でなければ、やれ枯山水だ、やれ回遊式庭園だと、ごてごてと庭を飾る連中がのさばるものか。嘲笑混じりに薫衣は花を持つ。
「お前さ、昼に桜に会っただろ」
「あぁあれね。道に迷ってたから教えてあげたんだよ」
「おや、当主さまときたら今日はずいぶんと親切なこと」
「これは心外。俺は終日ひとに優しく、己に厳しくを心がけておりますけれど」
颯音は自分で出した座布団に腰掛けて、にっこり笑う。嘘つけ、と薫衣はすかさず返した。
「嘘ではないよ」
「なら、珍しく気が向いたかのどっちかだ」
「そうだね、まぁ気が向いたのは確かだけど。老帝の寵愛めでたき人形ってどんなものかなぁと思って」
「どうだった?」
「肩透かしでした」
あっさり返して、颯音は苦笑する。
「確かに緋色の眸は珍しいけど、ただそれだけ。幼いし、いろいろと足りてなさそうだったし、あれ本当に“夜伽”だったの? 帝ってもしかして倒錯的なご趣味だったのかな」
「……なぁ仮にも女の私に同意を求めないでくれない?」
「おや、失礼」
「可愛かったじゃないか」
「薫ちゃんは小さくてちょこちょこ動くものが好きだからね」
「うるさいなぁ」
薫衣はむっとなって口を閉ざす。実際、言い得て妙で、昼に薫衣を訪ねてきた少女は女の艶かしさよりはむしろ小動物的な可愛さを感じる子供だった。大きな緋色の眸といい、眸を縁取る長い睫毛、しみひとつない透き通るような白い肌、濡れ羽色の髪、どれをとっても繊細で綺麗な少女であることには変わりなかったけれど、それはもったりと花ひらいた大輪ではなく、まだ咲くのを待っているかたくなな蕾である。菖蒲の花を手に持ち替えながら薫衣は考えた。
「そういえばさ。妹さんは元気?」
「んー? ああ」
不意に尋ねられ、薫衣は思考を切り替える。どうしてここでその質問をしてくるのだろうか、この男は。小さく息をつくと、薫衣は平静を装って花を生ける作業を再開した。
「さぁねぇ。あれ以来、ろくに文をやり取りしたこともない」
「薫ちゃん、筆不精なんだもの」
「此衣(このえ)に限っては違うよ。あいつは昔から私が嫌いなんだ。今に至っては、――確実に恨んでる」
鋏を入れれば、しなやかな翠の茎が切り落とされる。畳に転がった茎を紙の上に置いていると、おもむろに伸びた手が軽く頭を撫ぜた。
「そう自虐的になるもんじゃないよ」
たしなめるように囁かれる。薫衣は口を引き結び、軽く首を振った。さらさらと毛先の短い髪が肩を滑る。――この髪だって、昔は長かった。母親に言われるがまま、この髪を結って華奢な簪を挿したり、花をあしらったぴらぴらした着物を着たこともあった。今は着ないし、もうみんな桜にあげてしまったけれど。
――髪を切ったのは、単に長い髪が邪魔になったからだ。
母上や、妹がそうするように、長い髪を綺麗に結ったり、可愛らしい着物を身につけることで男に媚を売るのにうんざりしていたからだ。母や妹は『素適な殿方に気に入られる女になるよう』と述べた。薫衣は何を馬鹿なことを、と一笑したものだ。気に入られるように? そんな生き方まっぴらごめんだ。
父親が病死したのを期に入婿をとろうとした母に反対し、薫衣は女の身で半ば力ずくで当主の座についた。母と妹はこんな娘には付き合っていられぬと家を出た。
結果、残ったのが使用人よりは馬の数のほうが多い屋敷で、目の前にいるのが腹黒さで有名の当主さまだったことを思うと、自分の運のなさを呪ってしまいたいところだが、しかしそれとてまたさだめというものだ。後悔はしていない。
「空蝉の件、平気なのか?」
薫衣は剪定鋏を置いて、剣山に菖蒲を挿す。脇に置かれた菖蒲を手にとって無為に比べるようにしていた青年はゆるりと鷹揚に笑った。
「俺は月詠が逃げ出さないかのほうが心配だけどね」
「おやまぁ、当主さまは自信家であらせられること」
「お褒めに預かり光栄」
「黒衣の占術師殿の馬に蹴られて死んじまえ」
「そのときは薫ちゃん、手厚く弔って頂戴ね?」
くすくすと微笑って、彼は菖蒲を生けられた花の隣に挿した。
深い目の覚めるような紫、鋭い剣の切っ先のような葉、凛然とした、どこかひとを寄せ付けない立ち姿。菖蒲は直線に生けるのがいい、とほんの短い間師事した師が言っていた。杜若は優しく華やかに、菖蒲は高めにまとめるのがよい。孤高としたその立ち姿がよくはえるから。
「薫ちゃん。菖蒲は何とたとえるか、知っている?」
「たとえる? 歌か何か?」
「いーえ、史書です。“三代、橘翁曰く、菖蒲は軒先にかけよ。翌朝蜘蛛の巣が張れば、よき便りが届く”」
雫を宿した紫の花弁を青年が撫ぜやれば、その指先にはらはらと雫が降りかかる。細くて綺麗な指をしたひとだな、と何とはなしに思った。薫衣のような節くれ立ち、棒術の稽古のせいでまめだらけになった指とは大違いだ。
雫で濡れた指がついと薫衣の顎を捕らえる。
「――ゆえ、気が向いたら余った菖蒲を軒先へかけてくださいね? 五條の君」
耳朶を撫ぜる艶然とした声音に引かれ、そ、と顔を上げる。ほんの寸秒考え込んでから、「嫌だ」と薫衣ははっきり告げた。
「迷信は好かない。神頼みも」
願い事くらい私は私の力で叶えてみせるもの、とそう言えば、男は微笑って、薫ちゃんらしいね、と髪を梳いた。
*
橘宗家に戻ってくる頃には、赤く染まった茜空も淡い夜の色を帯び始めていた。緑葉の匂いと、涼風より生まれる葉擦れの音、冷めやらぬ熱気が未だ肌をまとわりつくものの、その空気だけはどこかすがすがしい。
「あの野郎とまた顔を合わせたくない」
屋敷の前までたどりつくと、扇は忌々しげに呟き、橘宗家に入ろうとはせずに、いずこかへ飛んでいってしまう。もう平気か、と頭上からためらいがちにかけられた言葉に桜はこくんとうなずいて返した。さよか、と淡白にうなずいて扇が身を翻す。不器用で優しい白鷺が夕空の彼方に消えていくのを桜は見送った。
長い塀にそって歩き、表門のほうに回る。
どこからともなく調子はずれな鼻歌が聞こえてきた。橘の衛兵だろうか。あんまり鼻歌を歌いそうなひと、いなかった気がするけれど。考えつつ視線を上げれば、すぐに高い塀に登って足をぶらぶらさせながら空へと唄っている男を見つけた。その下では銀髪の少女が「空蝉様、危ないですから」とそわそわした様子で彼を気遣っている。彼女の横では濃茶の髪の少年が男と少女のやり取りにまるで無関係な風に塀に背を預け、抱えた鞘についた紐飾りなどを暇そうにいじっていた。
なんだかひどく場違いな光景を見てしまったような気がする。あるいはちぐはぐな組み合わせとでも言うべきか。
「あら、桜―!」
声をかける機会を逸して桜がぽかんとその場に立ち竦んでいると、こちらに気づいた沙羅が顔を上げた。
「久しぶりー! 会いたかったわー、私の娘っ」
「ひゃ」
勢いよくがばりと桜に抱きつき、沙羅は首に腕を回してくる。少女を支えきれず、危うく後ろへ倒れこみそうになり、桜はじたばたともがいた。
「よー。桜、十年ぶりか」
のんびりと頭上から声がかかり、桜は沙羅の頭越しに視線をやる。男は片手を上げてみせると、調子はずれな鼻歌をやめて、すたんと塀から降りてきた。墨色の衣、それに剃髪した頭、口元に薄く載せる独特の笑み方、――忘れるわけがない。
「う、つせみ?」
「んあ? 何だ何だ? その間抜け面はよ」
きょとんとしたまま、頼りなげにその名を口に出せば、空蝉は眸に愉快げな光を宿して桜の頬をぐににと引っ張る。遊んでいるだけなのかもしれないが、痛い。すごく痛い。涙目になって抗議じみた視線を空蝉にやれば、あちらはおかしそうに笑って手を離した。
「実はちょいとした理由でよ、今日から橘に世話になることになった。よろしく頼むぜ。ちなみにあれ、俺の護衛な」
そう言って空蝉は雪瀬のほうを指し示す。護衛? 雪瀬が?
何がどうなってそうなったんだろうと不思議に思い、桜は視線で雪瀬に問おうとしたが、それは案の定一方的になかったことされた。仕方なく桜はひとり考え込み、それからつと顔を上げる。もしかして。
「“沙羅は情事のあと、空蝉様への申し訳なさと一夜で揺らいでしまった恋心との間の葛藤に耐えかね、さしもの人目を忍ぶかのごとく裏戸から立ち去っていったのでした”のつづき?」
「は?」
「何です、それは」
ひと月前の雪瀬の言葉を思い出し、桜が尋ねると、空蝉はいぶかしげに、沙羅は激昂しそうな勢いで雪瀬を振り仰いだ。
「えぇとあれはー…」
三人の視線を一挙に受け、雪瀬はさすがにたじろいだ様子で言葉を濁す。桜の腕をとって、「お前ね、だからあれは冗談だって、」こそこそと耳打ちしてくる。
「なななな、なんて卑猥な……!」
そのとき、沙羅が耐えかねたとばかりに震える拳を振り上げた。
「そもそも“一夜で揺らいだ恋心”とはどういうことですか!? 答えなさい、橘雪瀬っ」
「――ああもうその話おしまいっ」
尋常ではない様子の沙羅に詰め寄られ、雪瀬は桜を引っ張って逃げ帰るように家の内に引っ込んだ。
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