四章、空蝉



 七、


「――月詠さま。参内のお時間です」

 夕宵、まどろみに落ちていた男を御簾の外から女官が控えめに呼んだ。
 男は黒眸をゆるりと開き、箱枕から身を起こす。長い銀紗のごとき髪が男の所作にともなってさらさらと身体に落ちた。
 衣桁から黒羽織をとった女官は男の背後に回って、召し代えの手伝いをする。白磁器のごとき肌の腕には、しかし見る者によっては目を覆いたくなるような焼き痕があった。――咎人の証である。それを隠すように漆黒衣に袖を通した男は同じく黒い帯を締め、長い銀髪を組紐で結った。半蔀から射し込む赤光が男の髪に照り映える。女官である少女は眩しげに目を細めた。

「ひとつお耳に入れておきたいことが」

 男の後ろにつき従って桔梗殿の廊下を歩きつつ、少女はひそやかに切り出す。

「何だ?」
「人形屋空蝉ですが、住居からはすでにいなくなっておりました」
「尻尾を巻いて逃げ出したか?」
「ええ。使いの者をやったところ、都にある店も畳まれていたようです」
「ほぅ。して、どこへ行った?」
「――あるツテからの話では、葛ヶ原に現れたと」
「橘か」

 黒衣の占術師と、周りからは畏怖をもって呼びならわされる男はくつくつと忍び笑いを漏らし、「何かと騒がしいな、あの地は」と呟いた。遠い空の果てへと思いを馳せるように男は目を細める。

「しかし懐かしいことだ。あの地はあれからいかほど変わっただろうか」
「さぁ……」
「お前は気にならないか、藍?」

 普段はほとんど使われることのない名で呼ばれ、藍はびくりと顔を上げる。それから小さく首を振った。

「……昔のことはあまり」
「つまらぬ嘘をつく」
「嘘ではありません」
「――まぁどちらとて構わないがな」

 男は軽く肩をすくめるような挙措をし、宮中に咲き乱れる薔薇(そうび)の前で足を止めた。くすんだ赤色のその花は夕光を受けて、血のように真っ赤に染まっている。

「藍。葛ヶ原へ我らがただちに制裁を加えられぬのは何故だと思う?」
「――他の豪族が派兵をしぶっている、と聞きましたが」
「そうだ。派兵をしぶっている。東の果ての大蛇に槍を向ければ、切り込んだ者はまず無事で済まぬからな。加えて、葛ヶ原は三方を山、残る一方を海に囲まれている要塞。そうそう落ちまい」

 準備にはおそらく時間がかかろう、と男は続ける。

「それまであちらに切り札を与えぬこと、これが肝要だ」
「けれど空蝉はおそらくはすでに葛ヶ原にたどりついております」
「だとしても、方法はいくらでもある」

 月詠は薄く嗤い、薔薇の首をひとつ手折った。はらはらと赤い花弁が足元に散る。棘が刺さったか、白くたおやかなる男の指を鮮血がつぅと伝った。藍は目を細める。くらくらと血に酔いそうになる。気持ち悪い。
 月詠は軽く指を舐めると、藍の黒髪に指を絡め、あらわになった耳朶に口を寄せた。

「俺はしばらく留守にする。あの気狂い帝を頼んだぞ」

 ぞっとするような深みを帯びた声に思わず身体が強張る。藍は目を伏せ、御意と震えそうになる身体を必死に抑えながら答えた。







 鵺(ぬえ)、と。男は桜をそう呼んだ。組み敷いた桜の耳朶へ唇を寄せ、ぬえ、ぬえ、ぬえ、ぬえ、とうわ言のように繰り返す。男の口付けを受け、愛撫を受けながら、桜はただ茫洋と男の声を聞いていた。ぬえ。ぬえ。ぬえ。ぬえ。いったいそれは誰のことなのだろう。わたしの名前なのだろうか。ぼんやりと考えながら、桜はその晩も男と肌を重ねた。



「――あの野郎っ!」

 背後でばさばさと激しい羽音がして、桜はびくりと肩を震わせた。あたりを見回してみるが、ひとの影は見当たらない。けれどその間も声のぬしの罵詈雑言はやむことがなく続けられている。

「畜生、あの人形屋、俺のあるじを衆前で辱めやがって…! くそ、あいつもあいつだ。あんな生臭坊主、刀でぶったぎってやればいいものを、あぁくそ、絶対わざとだってのに」

 ひとしきり人影を探し回ってから桜が顔を上げれば、苛立ちを盛大にまき散らしながら上空を一直線で通過していく白鷺が見えた。あちらのほうはどうやら桜に気づいていないらしい。

「あおぎ」

 夕空の中に白い肢体が消え入ってしまう前に桜がおずおずと声をかけると、扇ははたと動きを止めた。

「おう、桜」

 気軽な調子で答え、旋回して桜のほうに戻ってくる。……よかった、扇だ。桜はなんだか泣きそうな表情になって息をつく。よかった。ここはあそこじゃないんだ。葛ヶ原なんだ。

「……何か、あったの?」
「いや、言うほどのことではないんだが……。――ん? お前こそ顔色悪くないか?」

 顔を覗き込むようにされて、桜は慌ててぶんぶんと首を振る。
 自分の今の気持ちをどう言葉にしたらよいのかわからなかったし、また長老会の最初のほうを立ち聞きしていた、というのも言いづらい。たぶんそれは“悪いこと”で“しちゃいけないこと”だからだ。

「本当か?」
「……ん、へいき」
「なら、……まぁいいが。――お?」

 疑り深そうにこちらを見ていた扇がふと何かに気づいた様子で視線を上げる。つられてそちらを見やれば、ちょうどひとりの青年が庭端を横切っているところだった。上等な雰囲気の羽織をかけ、脇には風呂敷包みを抱えている。あれはよそへ出かけるひとの身なりだ、と桜は直感的に思った。雪瀬もいつも大切な用事があって外に出かけるときは黒い高そうな羽織を着ていくのだ。

「扇さま。桜さま」

 青年がふとこちらの視線に気づいて足を止め、柔らかな微笑をこぼす。

「よぅ、暁。長老会はもう終わったのか」
「はい、先ほど」
「処分も?」
「ええ。颯音さまの温情により罪は問わぬと」
「そうか、それはよかった。八代がたの護衛だったとはいえ、お前ほどの衛兵を失うのはもったいない」
「それこそ、もったいないお言葉です」
 
 青年は控えめな挙措で目を伏せる。空よりも深い青色の眸が優しく細められた。綺麗なその眸の色には少し見覚えがある。長身痩躯のその体つき、際立った点はないのだけど優雅で洗練された物腰。桜はこのひとと会ったことがあったろうか。

「あ、か、つき?」

 自分の記憶をたどるように、扇が先ほど口にした名前を繰り返す。あかつき、あかつき、とその音を舌の上で転がしてみていると、何度も名を呼ばれた当の本人はおかしそうに微笑んだ。

「噂には聞いておりましたが、こちらに身をお寄せになったんですね」
「うん。……あ、」

 こくんとうなずいてから、桜はこの青年がいつの折か八代が護衛として連れていた戦人形であったことに気づいた。と同時に、自分が彼に何をしたかも思い出して、胸がきゅうと萎縮した。記憶が正しければ、桜は八代を庇って飛び出たこの青年の身体に銃弾を打ち込んでしまったのである。いたたまれなさで胸がいっぱいになり、桜は顔を俯かせた。目を瞑り、帯締めに挿していた銃身を握り締める。

「私、何かしてしまったでしょうか」

 こちらの突然の変化がいまいちつかめぬ様子で、暁は不思議そうに目を瞬かせる。いや、とこちらへ一瞥をやり、扇が嘆息した。

「お前が八代をかばったとき、銃弾を当ててしまったことを言ってるんだろ」
「あぁ」

 青年がぽんと手を打つ。

「そうですよね、忘れていました」
「忘れないでおけよ」
「護衛というのは生傷が絶えないのですよ。いちいち覚えていたらきりがありません。――だからね、桜さま。どうかお気になさらずに。貴方は貴方の意思を、私は私の仕事を全うしたまでのこと」

 暁は桜と目線をあわせるようにかがんで、軽くこちらの頬に手を添えた。どうか顔を上げてください、と優しく促される。桜はおずおずと青年をうかがった。青年の表情は真摯そのもので、嘘を言っている風ではない。少しほっとして桜がうなずくと、暁はよかったと静かに微笑んだ。とてもやさしそうなひとだな、というのが桜の暁に対する第一印象になった。



「それにしても。どこかに用事でもあるのか?」

 暁の手元にある風呂敷へと視線を落としつつ扇が問う。

「ええ、毬街のほうに使いがありまして。桜さまと扇さまは何かご用事でも?」
「……なにも」
「右に同じく、だ」
「……お暇なんですね」
「うるさい」

 かくして暁曰く暇人ふたりは暁に連れ添って道を歩き始める。とりとめもない会話の中で暁は毬街にはおいしい甘味どころがある、と話した。それなら今朝がた雪瀬と行ってきたと扇が返し、葛水は特に絶品だったと舌鼓を打つ。くずみず?と聞きなれない言葉に桜が反応を示せば、今度食わせてやろうと扇が言った。くずみず、くずみず、と“今度”の日のために桜はその言葉をしっかり覚えておく。
 それから団子はあんこがいいかみたらしがいいかについて、真面目な顔で語り始めたふたりの声へ桜はのんびりと耳を傾けた。自分が何かを話す以上に、桜はひとの話を聞くのが好きだった。ひとの話には自分の知らないことや聞いたこともなかった言葉がたくさん眠っているから。胸がどきどきするし、楽しいのだ。

「――では、私はここで」

 ちょうど道の分かれ目に差し掛かったところで、暁は足を止めた。頭を下げ、高台へ続く細道のほうへと足を向ける。あれ、と桜は目を瞬かせる。その道は毬街の関所とは反対の方角だ。

「あかつき、道、」
「いいんだよ桜」

 暁に道が間違っていることを教えてやろうとすれば、その前に扇が首を振る。

「だって、」
「いいんだ。あれで合ってるんだ。今日は風結の命日なのだから」

 高台へとのぼっていく青年の背中を眩しそうに眺めつつ扇は言った。

「メイニチ?」

 首を傾け、そ、と扇へ問うような視線を向ければ、白鷺は首をすくめるようなそぶりをして桜の肩に留まった。

「お前は本当に聞きたがりだな」
「ききたがり。……ごめん」
「別にいいが。風結は雪瀬たちの母親でな、」

 とりあえず褒められたのではないだろうことを悟って桜が謝ると、扇はいつもどおりそっけなく首を振って口を開いた。

「暁たち戦人形の生みの親だ。俺も会ったことはないが、しらら視だったらしい」
「雪瀬じゃ、なかったんだ」

 扇を使役するように、暁たち戦人形も雪瀬が造ったのだとなんとなく思っていたので桜は意外そうに呟く。

「あいつは人形を造れないからな。あの能力だってもとは俺のだ。生粋のしらら視に比べりゃ劣る」
「『俺の』?」
「……あぁ。あいつ、眸が濃茶だろう? 紫じゃないだろう? 空蝉のように」

 問われている意味がわからず、桜は眉をひそめた。確かに雪瀬の眸は飴色を深めたかのような、茶色をしている。間違っても紫ではない。けれど、だからなんだというんだろうか。

「そうか。お前は知らないのか」

 扇はぽつりと呟くと、それきり言葉を閉ざしてしまった。桜にはますます意味がわからない。微苦笑を眸に宿して、白鷺は振り切るように高台へと遠のいていく青年を仰いだ。

「――八代を亡くしたときな、暁はそりゃあひどい消沈ぶりだった」

 きょとんとした桜に、扇は独り言のように続ける。

「風結が母親なら、暁にとって八代は父親同然だった。唯一無二の大切な。それを家族同然と思っていた、よりにもよって颯音に目の前で奪われることは、奴にとって耐え難い悲しみだったんだろうな」
「めのまえで……」
「仕方ないとはいえ、なんともやるせない話だ」
 
 扇はひそりと嘆息するが、実のところその声は途中からほとんど消え落ちてしまって聞こえていなかった。代わりに別の言葉が桜の意識を支配する。

“よりにもよって目の前で”
“目の前で大切なひとを”

 ぎゅう、と己の左腕を握り締めた。紡がれる言葉がひとつの記憶を呼び起こす。ふ、と視界が暗くなった。

“目の前で”
“大切なひとを”

 指先がかじかみ、震えを帯びる。暑さからとはおそらく違う理由で、くらくらと眩暈がしてきた。桜はその場にかがみこんでしまうと、朦朧とする意識を繋ぎとめるように銃身を握りこんで細い息をつく。

「お、おい、桜? 大丈夫か?」

 苦しげに肩を上下させていれば、扇が若干慌てた様子でこちらのかたわらに舞い降り、顔色をうかがってきた。

「顔、真っ青だぞ。なぁ」
「……み……」
「ん?」
「……よ、み……」

 つくよみ、と声にならない声で呟き、桜はいやいやと怯えるように何度もかぶりを振る。思い出したくない。思い出したくなかった。あの黒衣の男を。目の前で、桜の何よりも大切な人を奪ったあのひとを。