一章、夢の痕
一、
赤い花を見つけた。
名前は知らない。燃え盛る炎のような、赤い花を見つけた。
「――雪瀬、」
沓踏石にぽいと下駄を脱ぎ捨てると、桜は濡れ縁に上がりこむ。とことこと軽やかな足取りで濡れ縁を走って、その間も待ちきれないといった様子できよせ、きよせ、と繰り返した。目当ての障子戸の前で足を止め、
「雪瀬っ」
決して大声ではないのだけど、どことなく弾んだ声色でひょこっと障子戸から顔を出す。だが、期待していた返事はすぐには返ってこない。
「雪――、」
桜は表情を心なし翳らせ、いないのかな、と部屋を見回してみる。果たして部屋のあるじはいた。文机に頬杖をついてこっくりこっくりと舟を漕いでいる。手元に置かれた草紙は開かれたままで、吹き抜ける風を受け、あっというまにめくられていく。どうやら居眠り中らしい。返事を返してくれないのは残念だけど、でも、いた。
ふわりと桜はほとんど無いといってよかった表情を緩める。笑みといってはまだぎこちないが、その表情は以前に比べると格段に柔らかい。音を立てないように細心の注意を払って障子戸を閉めると、桜は雪瀬のかたわらにかがみこみ、その顔をのぞきこむようにした。
深い色をした双眸は今は閉じられており、そのせいか、普段とは違って、どこか歳相応の幼さが目に付いた。首元あたりでくくられた柔らかそうな茶色の髪は陽光に透けてうなじに薄い影を落とす。ふと無性にその髪に触りたくなった。あるいはかのひとの大きな手で頭を撫ぜてもらいたくなった。
桜は少し身を乗り出すと、濃茶の髪に手を伸ばそうとする。だが、中途のところでためらい、指を下ろした。代わりに少年の袖端をついと引く。何度か続けてみていると、ううんと声ともつかない声が漏れて、深色の眸がうっすら開いた。
けれど、どうやらそれは爽やかな目覚めとはかけ離れていたらしい。しばらく桜をじぃっと見つめてから、ああなんだ桜か、と失礼なことを呟く。誰だったら、“なんだ”じゃないの。
雪瀬は頬杖をずるずると崩して最後には文机の上にほてとうつ伏せてしまうと、こちらに視線だけを上げ、
「……なーにー。なんか用ー?」
とあくびまじりに問うてきた。
何か用?、と訊かれると少し切り出しにくい。しばし悩んでから、桜は小さく首を振って、手の中に握りこんでいた花を雪瀬の前へ差し出した。
「これ、」
それは大きな赤い花だった。細い花弁は幾重にも重なり、まるで小さな炎のようである。朝露を帯びてゆるりと花開くそれは艶とした美しさがあって、庭で見つけるなり、つい引き寄せられてしまった。
「あかくて、きれいで。……きれいで、あかくて、えと、だから雪瀬にあげる」
自分の気持ちを何とか言葉にしようとするがうまくいかない。桜は雪瀬に比べて決定的に語彙が不足しているのである。困り果てて、半ば強引に雪瀬に花を押し付けた。眼前に掲げられた花を雪瀬は目を細めて眺め、ふと微苦笑を漏らす。花を受け取って、文机の上に置いた。
「桜、この花の名前、知ってる?」
「ううん?」
「だろうねぇ。手、出して」
「て?」
予想外の言葉に少し反応が遅れる。花の名前と手とどんな関係があるのか。
桜は促されるまま、おずおずと手のひらを出した。雪瀬は桜の手首をつかむと、机の端に置いてあった水差しをとってそれを傾ける。冷たい水が手のひらを濡らした。何だろう。お礼? ご褒美?
「その花さぁ、毒あるんです」
雪瀬は袖口で桜の手をぬぐいやってから、そう説明した。
「どく?」
「うん、根っこのほう。食べなきゃ死にはしないけど」
そうだったんだ、と桜は改めて文机に置かれた赤い花を見やる。言われてみれば、その鮮烈な色はひとを寄せ付けないような、毒々しさのようなものをかもし出しているようにも見えた。そうか、そんなものをあげてしまうとは。失敗してしまったかもしれない。毒の花をあげるなんて、見方次第では嫌がらせだ。
しょうがない、と桜はしゅんとなりながら考える。本当はあげたかったけれど、綺麗な赤色を雪瀬に見せられたからいいや。持ち帰ることにしよう。
桜が机に無造作に置かれている花をとろうとすると、しかし見計らったようにぱっと花が取り上げられて水差しへと挿された。最初からそこにあったかのごとく水差しに収まった花を見て桜は首を振る。
「いい、」
「捨てるのも可哀想じゃん」
そう言われると返す言葉がなくなってしまう。毒の花なのにな、と思いながら桜は雪瀬を仰いだ。食べちゃだめだからね。
口にはしなかったのだが、雪瀬はこちらが言いたかったことがわかったらしく、誰がやるかとばかりに桜の額を指で弾いた。
「……!?」
痛い。地味に痛い。うう、と呻き、桜は額を押さえる。ひどい。心配したのに。涙目になって見上げると、あちらは楽しそうに目を細めてこちらを眺めていた。
「雪瀬」
「そんな不機嫌そうな顔しなくても」
不機嫌そうな顔などしていない。でも額がじわっとして痛いのだ。桜は眉間に皺を寄せ、額をさする。それから、雪瀬の袖端をぺしっと叩いた。反撃のつもりである。だけども相手はさらにおかしそうに笑っただけであった。
「うん、わかった、もうやらない。――ありがと」
花に視線をやると、最後に軽くそう添えて、雪瀬は憮然となってしまった桜の頭にぽんと手を置いた。髪に指を絡め、撫ぜられる。――現金だとは、自分でも思うのだけども。猫にまたたび、蝶に蜜、優しく撫ぜられているとかたくなだった心はすぐに解けてしまう。
先ほどまでの表情はどこへやら、桜はふわりと微笑を綻ばせた。
「雪瀬。あのね、」
そう、話したいことがたくさんあるんだ。聞いてもらいたいこともたくさんある。
桜は雪瀬の袖を引くと、それらをひとつひとつ、たどたどしいながらもゆっくりと話し始めた。
*
「桜ちゃんもさ、ずいぶん微笑うようになったよねぇ」
庭で水まきを始めた少女の後姿へ視線をやりながら、蕪木透一(かぶらぎ ゆきひと)は感慨深げに呟く。こちらに視線を戻すと、たらい桶をどんと畳の上に置き、はい診せて、と袖まくりしながら言った。雪瀬は上着を開きながら「そうかな」と首を傾ける。
「うん、前はもっと表情とか言葉とかぎこちなかったものー。初めて会ったときなんて本当にお人形さんみたいで」
透一はたらい桶で手を洗うと、薬湯を浸した布を脇腹の傷口へあてがう。いたいいたいしみるしみると騒げば、子供じゃないんだからと呆れた様子で嘆息された。
「でももうほとんどふさがってきたね。今度瀬々木さんに言って抜糸してもらいなよ」
「ん」
「はい、あと薬」
瀬々木のもとで一時期医学を学んでいたことのあるこの少年はてきぱきと診察を終え、煎じた薬草を差し出した。とたん雪瀬が嫌そうな顔をすれば、じとりとした視線を投げかけられる。無言の圧力。雪瀬はしぶしぶそれを湯に溶くと、目を瞑って一息に飲み干した。痺れるような強烈な苦味が舌を襲う。
「にが。苦い。すごく苦い。なぁこれどうにかなんないの?」
「良薬口に苦しと言います。我慢しなきゃあ。――熱はもうない?」
「たぶん」
「たぶん、じゃなくて」
答えながら透一へ湯飲みを返せば、ぱしんと額を叩かれた。
「雪瀬さぁ、これを期にもっと自分のこと大事にしたほうがいいと思うよー?」
「またゆきの心配性が出た。これ以上ないくらい大事にしてるよ」
「嘘。してないよー。だって布団にいてって言ってるのに聞かないし。黒衣の占術師のことだってね、あのとききみは逃げてよかったんだよ?」
透一はほんの少し表情を厳しくして言った。別に恨みやつらみを述べているわけではない。単にこちらの心配を、しているのだとわかる。
「どう考えても無謀だったよ、あれは」
眸を伏せがちに透一は呟く。無謀なんて言われても困る。暁や空蝉を放り出すわけにもいかなかったし、と雪瀬は言ったが、彼のほうはそっと肩をすくめてみせただけだった。――時と場合によっては放り出すべきだったのだと、その仕草が暗に告げていた。
雪瀬は橘颯音の弟だから。こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。生きて、あの兄を支えなければならない。彼が為そうとすることを叶える手助けをしなければならない。してやりたいとも、思ってはいる。
「……でもあの黒衣から逃げるのは嫌だったんだ」
口の中に残る薬の苦さをかみ締め、雪瀬は少し顔をしかめた。熱っぽい息をつき、ああやっぱりだるいな、と褥に身を横たえる。濡らした布が額に置かれた。それを自分で置き直していると、布団を身体の上にかけられる。
「とりあえず今日は休んで。しばらくは安静に」
「んー……」
「もうっ、ほんとにわかってるのー?」
頬を膨らませて透一はむくれた声を上げる。ぶつくさと不満げな小言を連ねながら腰を上げかけ、透一は文机に置かれていた花に目を留めた。
「うわぁ、きれー。曼珠沙華?」
「そう。別名“死人花”」
「……あんまり縁起のいいお花じゃないよね」
曰く、渡された者に死を呼ぶと。
「――なんてこと桜に言わないでね」
そう言い重ねると、透一は目を丸くして、微苦笑を滲ませた。視線を半開きになった障子戸から庭のほうへやる。手桶を置いてかがみこんだ少女は足元の雀を興味深げに眺めていた。
「殺風景じゃなくなったね。この庭」
「雀と猫がいるだけでしょ」
「それでも違うよ。全然違う。ふふーそれにしても、ほんと表情が豊かになったよねぇ桜ちゃん。可愛いなぁ」
にこにこと笑みを綻ばせ、透一はつと意地悪い表情でこちらをうかがった。
「大変だね、雪瀬。これでたくさんのひとに微笑いかけるようになっちゃったらどうしようか」
「……何が」
質問の意図するところを理解しながらも雪瀬はあえて問い返す。わかってるくせにー、と透一はからかうように言って、今度こそ腰を上げた。たらい桶を抱えて、濡れ縁に出る。彼が少女の背中に声をかける。桜は振り返って、緋色の眸をひとつ瞬かせてから、ほんのりと注意深く見なければわからないくらいの微笑を返した。
雪瀬はぼんやりそれを眺め、薄く苦笑を滲ませると、穏やかなその情景ごと目を閉じた。
|