一章、夢の痕
二、
時に、風術師というものは風を詠むとも言われる。雪瀬は正確には風術師ではなかったが、兄などと同様、風や空気、空色を詠むすべには長けていた。このときの感覚というのは何とも表現しがたいのだが、言葉にされずとも肌が感じるのである。虫の報せとでもいうべきか、何かが起こる前というのは空気が妙にざわめく。
さて、本日も思うところあり――。
雪瀬は障子戸を開け、ついと空を仰いだ。雲行きが怪しい。空全体を灰色の雲が立ち込め、地を圧迫しているかのようだった。まるで雨の降る前兆のような。冷たい風が木の葉を揺らしている。
「雪瀬。いるか?」
白鷺が文をくわえてやってきたのは、雪瀬が首を傾げながら障子を閉めようとしているそのときだった。結び文が手の中に落とされる。見れば、宛名は雪瀬へ。文末にはよく知った名が綺麗な字で添えられていた。
*
「むしむし。むしむし」
音読してみてから、桜は小首を傾げる。
「虫?」
ぺたんと畳の上に座った桜の周りを囲うようにして、数多の絵草子が乱雑に散らばっている。どれも表紙にひとや動物の絵が描かれており、中を開くと、これまたたくさんの挿絵で彩られていた。一見すると紙芝居のようであるが、少し違う。絵に短い文章が添えられているのだ。――幼子が字や言葉を覚えるときに読まされる草紙である。
「むー……し、」
桜はううんと唸って、草紙に顔を近づけた。
「し、む、」
ううんと顔をしかめて、もう一度唸る。
草紙には川とそこで洗濯をする老婆の絵が載っていた。虫がいる様子はない。となると、この字は虫とは読まないのだろうか。それとも絵のどこかに虫が隠れているのか。草紙に額がついてしまうくらい顔を近づけて、もはや間違い探しでもするみたいにじぃっと挿絵を見つめてみていると、
「“む”と“し”の間に何かない?」
頭上から呆れまじりの声が降った。
きょとんとして顔を上げれば、ほら、と指で“む”と“し”の間がを指し示される。ほんとだ。確かに、ひとがかがんで腰をさすっているような、変な形をした字がある。
「はい、なんて読むんでしょうか?」
「えと、えぇと、」
「時間制限あり。あと三つ数えるまでに。ひとーつ、ふたーつ、」
「えっ、……待っ、――あ、“れ”!」
「惜しい。近いけど違う」
「“わ”!」
「あと一押し」
「んと……、“か”?」
「あたり。よくできました」
雪瀬は桜の頭をぽんと撫ぜる。草紙を掲げ、桜は「むかし、むかし」と続けて文字を読んでみた。
「昔、昔」
「そう。昔話が始まるときの定型句」
「てーけー?」
「お決まりの文句ってこと」
畳の上にごみ山さながら無造作に積まれた草紙へ一瞥をやって、雪瀬は「すごいな」と苦笑する。足元の草紙を重ねて文机に置くと、桜の読んでいる草紙を脇からのぞきこんだ。
「おべんきょー?」
「うん。あのね、雪瀬、よく読んでるから」
「あー本?」
「ホン。私も同じのよみたい」
「ふぅん、物好きだねぇ」
彼は淡白に相槌を打って、桜の手から草紙を取るとぱらぱらとめくる。伏せがちの深茶の眸が文字を追う、その横顔を桜は眺めた。
「懐かしいなぁ。桜これどこから持ってきたの?」
「どこ……。暁に言ったら持ってきてくれた」
「暁か。じゃあたぶん俺も昔使ったやつだ」
黄ばんだ草紙を雪瀬は指で紙を懐かしむように撫ぜた。草紙を閉じ、こちらに本を返す。受け取ったそれを桜がまた開いてみていると、雪瀬はだらんと文机に背を預けて細く息をついた。
「……だいじょうぶ?」
腰を浮かせ、桜は雪瀬が肩にかけた羽織の袖を引く。もっとさりげない聞き方をしたかったのだが、尋ねる声にはどうしても不安めいた響きが混じった。
けれど、それも仕方がない。つい数日前まで雪瀬は微熱を出して寝込んでいたので、病み上がりともなれば心配になってしまうに決まっている。近頃お腹の傷も治ってきたみたいであったし、瀬々木も頻繁に訪れなくなったのでもう大丈夫なのかな、と思っていたのに。
――いや。思い返せば、花を持っていったとき少しだるそうにしていた気もする。ほんの些細な変化ではあれど、どうしてあのとき気づかなかったんだろう。ちゃんと見ていればわかったはずなのに、と桜は自分の役立たなさ加減を歯がゆく思った。
「あのさ。別に不治の病にかかったわけじゃないんだから」
首を振って、心配なのだ、ということを主張するように雪瀬をじっと見やれば、あちらは少し困った風に苦笑した。
「ゆきの心配性がうつったのかなぁ……」
前髪を梳かれ、額に軽く手があてがわれる。いつもひんやりとしている手のひらはほんの少しだけ熱っぽかった。桜は睫毛を伏せる。
「元気ないね」
「……雪瀬のほうが」
げんきない、と俯いて呟くと、桜は少し考えてから自分の肩にかけていた羽織を脱いだ。それを雪瀬に押し付ける。意図を理解してくれなかったのか、受け取ってくれないので羽織で彼の身体をくるむようにしてぽすぽすと軽く叩いた。
「……貸してくれるの?」
「あげる」
「――じゃあお心遣いアリガタク」
雪瀬は羽織を肩にかけ直すと、こちらを手招きした。すすすと近づけば、隣に座るように畳を叩かれる。雪瀬の隣にちょこんと座る。ほどなく腕が回され、羽織で身体が包まれた。あったかい。二人羽織みたいだ。
「いろはうた、自分で習いたいって言ったの?」
「うん」
「文字が知りたい?」
「言葉、知りたい」
そうしたら、今よりたくさん話ができる。桜が答えると、そうと雪瀬はいつものようにそっけなくうなずいて、何か考え込みでもするように他方へ視線をやった。雪瀬が何かをためらうそぶりを見せるのは珍しい。その横顔を仰いで、袖端――は近くになかったので衿のあたりを引っ張ってみると、雪瀬はああとよそにやっていた視線をこちらに戻した。
「あのさ桜。……ひとつ、頼みごとがあるんだけども。聞く気ある?」
「ある」
「……即答だね」
「うん」
うなずいてしまってから、雪瀬の苦笑混じりの表情を見て即答はだめだったのか、と桜は後悔する。もしかしたら軽い気持ちで請け負ったように思われてしまったかもしれない。
でも、だって、雪瀬の『頼みごと』なんてとても珍しかったのだ。もしかしたら初めてなんじゃないだろうか。そう考えたら胸が少し高揚するとともに変に緊張してしまい、肩に力が入った。正座をし直して姿勢を正すと、雪瀬はなんだかおかしそうな顔をし、懐を探る。ほどなく小さな拳大のものが取り出された。
長い紐の通されたそれは、一見すると鈴のように見える。けれど、振っても音は鳴らない。木でできているらしい表面にはつるりとした光沢があり、葉っぱの絵が彫られていた。雪瀬はそれを桜の首へとかけ、ぴっと指を立てる。
「簡単なお使いです」
「おつかい?」
「毬街の柚(ゆず)というひとのところに行って、呪符をもらってきてください。この鈴は関所を通るときの通行手形。衛兵さんに見せると、門を開けてもらえる」
「符……?」
「風を出すやつ。この前ので切れちゃったから」
この前の、とはおそらく空蝉のときのことだろう。
かけられた紐をたぐり寄せ、桜は物珍しそうに木鈴を手で包み込んだ。これで門が開くんだ、と鈴をにぎにぎしながら考える。なんだか魔法の鈴みたいだ。
呪符、毬街、とひとつひとつ覚えこむように指を手折って、三本目のところで桜は指を止めた。
「雪瀬。……柚、だれ?」
「老獪でしたたかな風術師」
「ろーかい」
言葉の意味はいまいちよくわからなかったけれど、なんだか怖そうな雰囲気だ。
「大丈夫だから。別に取って喰うわけでもなし」
どうやら思ったことがそのまま表情に出ていたらしい。雪瀬はこちらをなだめるような言葉をかける。だが、こういうときの“大丈夫”はあまり信用ならない。
「まー嫌ならいいんだけども」
だめだ、嫌じゃない! 桜は慌ててぶんぶんと首を振る。
「や、じゃない。行く」
だってこれは雪瀬に初めてされた『頼みごと』なのだ。
たのみごと、という言葉で胸がほっこり温かくなる。頼られる、そのことが少し誇らしくて。うれしくてうれしくて。ちゃんとやり遂げたい。それで雪瀬に褒めてもらうのだ。――不純といえば不純、素直といえば素直すぎることを考えて、桜は鈴を握り締めた。うん、ともう一度うなずく。行く、と。
「じゃあお願い致します」
雪瀬は桜の首にかかった木鈴をこんと叩き、微笑した。
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