一章、夢の痕



 三、


 名は魂の楔。あやかしの名を知ることはあるじとなること、その名を呼ぶことはすなわち支配を意味する。

「あーおぎ」

 雪瀬は白い折鶴を宙へと投げる。ほどなく微かな風切音が耳元で鳴り、眼前を横切った半透明の鷺が口をあけて折鶴を飲み込んだ。瞬く間におぼろげだった身体が輪郭を持ち、ふんわりとした質感を伴って白い翼が空を薙ぐ。身体を得て、白鷺は文机に降り立った。

「おはよう扇。――ところで今ひま?」
「……お前に用がないならな」

 たいそうな召喚のあと、さながらお茶汲み坊主でも呼んだかの調子で問いかければ、扇は少し複雑そうな間を開けてぼそりと返した。あまり快く“お願い事”に応じてはくれなそうな雰囲気だ。しかし、そういうものは得てして無視をするのが雪瀬なのである。

「あのさ。もしも暇だったら桜にくっついて柚のとこまで行ってくれない?」
「柚? 今日の文の件か」
「そうそう」
「だからってなんで俺が」
「まぁ俺がついていってもいいんだけど。なんか寝てないとゆきが怒るからさ」

 苦笑気味に肩をすくめると、扇は「大丈夫なのか」と心なしか声を硬くした。

「ん。心配いらない。でも桜は心配だから。毬街を往復するだけだし、一緒に行ってあげてよ」
「……まぁ構わないことには構わないが」
「ありがと。さっすが扇」

 礼を言うのと一緒に軽くおだててみる。この存外素直な白鷺はふんとそっぽを向きながらも照れ隠しのようにかちかちと嘴を鳴らした。雪瀬は思わず笑みを漏らす。

「何だよ?」
「別にー?」
「ったくそのにへら顔が好かん。あと、ぽんぽんと心にもないこと言うな」
「失敬な。心にあることを少し誇張して言ってるだけだよ」
「同じだろ」

 容赦なくつっこまれ、雪瀬は面白くなさそうな表情をして口を閉ざす。いいではないか。それこそ嘘を言っているわけでもなし。

「――しかし、お前があの子を外に出すとは思わなかった。どういう心境の変化だ?」

 おや、と雪瀬は目を瞬かせる。おつかいを頼んだくらいで驚かれるとは、自分もたいがい心配性というか過保護に見られているらしい。

「どうというわけでもないけど。ただ桜、最近いろいろがんばってるから」
「手助けしてやろうと?」
「そんなところ」

 雪瀬は頬杖をつき、ぺらりと黒草紙をめくる。
 障子戸から吹き込んだ風が頬を撫ぜ、ひとひら、曼珠沙華の花弁を草紙の上に落とした。小袖に重ねた羽織をかけ直し、雪瀬は赤い花弁を指でつまみ上げる。それを眼前にかかげてすがめ見た。

「時間は何びとにも等しく流れるとは、然りだね」

 目を伏せて、ひとつの光景を脳裏に思い描く。
 春のとても冷えた朝のこと。壁に背を持たせて、まるで死人のように目を閉じ入っていた少女。

「拾い上げたときは、本当に人形みたいだったのに。不思議。ひとって変わるもんなんだなぁ」

 ほんの一年にも満たない時間だ。そんな短い時の中で、少女は見ているこっちが驚くくらいにその在り様を変えた。初めて会ったときはろくに言葉も喋らなかった少女が、今は本が読みたくて字を覚えているのだという。――時間という存在をこうも尊く思えのは初めてだった。

「それに比べて俺の時間は止まってるな」

 雪瀬は自嘲し、手元の草紙に視線を落とした。

「雪瀬?」

 扇が先ほどまでとはまた異なる、こちらを心配するような視線を向けてくる。そこにあるのは純粋な心配で、他意はないのだろうけれど。胸中を探られるのは、いささかよろしくなかった。

「何でもないよ。――あ、アレのことよろしく」

 雪瀬は適当にはぐらかすと、小ずるく桜の話を持ち出して早々に白鷺を追い払ってしまう。扇は不服そうに嘴を鳴らしてから、しかし諦めたらしい。しぶしぶ外に出て行った。

「そういえば、雪瀬。“奴”の居所、わかったぞ」
「ほんとに? どこ?」
「毬街の邸宅に戻ってきていた。……なぁこんなの探し当ててどうするんだ?」

 扇はいぶかしげな様子で尋ねる。答えかねて、さぁて、と雪瀬は視線を逃した。

「それは彼女が来てみないとわからない」
「来るか?」
「来るよ。必ず」
「……お前もお人よしというか何というか」

 ほどほどにしておけよ、と釘を刺し、扇は白い羽を広げた。曇り空へと吸い込まれていくその姿を見送り、雪瀬は水差しに生けられた赤い花を手に取る。

 曼珠沙華。別名を死人花。 
 彼岸花の名で親しまれるこの花は、透一の言ったとおり、普通は生きている人間、まして病床にある人間に渡すものではない。死を呼ぶ、死に囚われる、というから。

 いや、と雪瀬はそこで考え直し、微苦笑を落とした。
 ――確かに自分にこそふさわしい。







 きゅっと帯を締めると、桜は銃を帯締めに挿す。
 首には雪瀬にもらった木鈴がかけられており、歩くたびにぷらぷら揺れて鈍い音を立てた。
 
「――桜」

 濡れ縁に出て下駄を履いていると、空から白鷺が舞い降りてくるのが見えた。あたりを旋回したあと、桜の肩に止まる。

「毬街までの道わからんだろ。案内する」

 あのとき鈴と一緒に地図と、それから柚というひとに渡す文は雪瀬から受け取っていた。とはいえ、地図一枚きりではやはり心もとない部分があったので、桜は扇の申し出にほっと胸を撫で下ろす。地図は前にも一度頼りにして迷ってしまったことがあったのだ。確か、“薫ちゃん”を尋ねに行ったときのことだ。

「行くぞ」

 とのんびり考えているうちに白鷺が飛んでいってしまったので、桜は慌てて下駄を履き、白鷺を追いかける。

「あおぎ」

 ぴょんと飛び跳ねながら桜は頭上を飛ぶ扇を仰いだ。

「扇は柚、知ってるの?」
「……あぁそれはまぁな」
「柚、どんなひと?」
「――雪瀬は何と説明していた?」
「ろーかいでしたたかな風術師、って」
「そうだな。まぁおおかたそんなところだ」

 そんなところ、と言われても。それでは桜にはよくわからない。
 むっと眉根を寄せると、扇は苦笑してこちらのほうへ降りてきた。

「あいつはな、橘一門のひとりなんだが、わけあって毬街のほうでひとり占い屋をやってるんだ」
「“うらない”?」
「ああ。お前も占ってもらうといい。当たるかどうかは疑わしいが」

 一興かもしれんぞ、と言って扇は再び空に舞い上がった。



 一刻ほど葛ヶ原を歩いていると、前方に関所の大門が見えてくる。
 桜の身長の数倍はあるそれはかなりの威圧感があった。門を守っている屈強な大男の存在もあいまって、どことなく気分が萎縮してしまう。つい桜が足を止めてしまうと、扇がこちらの頭に止まって「あそこの門番に鈴を見せるんだ」と教えてくれる。
 ……うう、あのひとに声をかけなくちゃいけないのか。
 怖くてつい引き返したくなってしまったが、ここまで来てしまったからにはそういうわけにもいかない。それに雪瀬の“頼みごと”なのだから、というのが背を押した。
 桜は覚悟を決めると、鈴を握って顔を振り上げる。立ち並ぶ衛兵のほうに猛然と突進していったところで、そこに見知った青年を見つけ、あ、と眸を大きくした。

「あかつき」

 彼方のほうへと視線を向けていた青年が眸を瞬かせる。こちらの姿を認めると、仕事中の硬い表情にふうわりといつもの柔らかな微笑みを宿した。

「桜さま。――おや、お出かけですか?」
「……うん。雪瀬に頼まれて、毬街」
「毬街ですか。それはいい」

 素適なところですよ、と暁は言い、桜の差し出した鈴を手にとって確認した。
 どうやら問題はなかったらしい。後ろに控える衛兵たちに門を開けるように指示を送る。返された鈴を受け取り、あのね、と桜はためらいがちに青年の袖端を引いた。

「この前の、だいじょうぶ?」

 旅籠で大量に血を流して倒れていた青年の姿を思い起こし、おずおずと暁の顔をのぞきこむと、暁は少し驚いた顔をしてから首を振った。

「ご心配ありがとうございます。けれどこの通り、先日から仕事に戻れるようになりましたので」
「そ、っか」
「――雪瀬さまのほうのご加減は?」
「きよせ、」

 桜はとたんしゅんと顔を俯かせる。雪瀬は今日も朝から褥に臥せっているのかな。

「何か……?」
「いや、大丈夫だ。こいつが心配性なだけで」

 眉をひそめた暁に、すかさず扇が言い添えた。暁はにわかに強張らせた表情を和らげ、苦笑する。

「桜さまは雪瀬さまが大好きですからねぇ」
「ああ、不思議と懐いているからなぁ」

 うう、何故そんな小亀か子猫にやるような視線でこちらを見るのか。頭上でしみじみと交わされる会話に置いてきぼりをくらいながら、桜は軋みを上げながら開かれゆく門のほうへと目をやった。暁が言葉を止めて、こちらへと向き直る。

「それでは桜さま。おつかい、頑張ってくださいね?」

 励ますように軽く背を押され、桜はうんとうなずき、門を出た。
 毬街に、柚。ひとりでのおつかいは初めてだったけれど、扇もいるのだから怖がることはないと自分に言い聞かせる。そのときは油断していたのだ。――甘かった、と身をもって知るのは少しあとのことである。
 
 木の葉を雨雫がぽつりぽつりと叩き始める。厚い雲の垂れ込めた空を仰ぐとあっという間に雨脚が強くなった。