一章、夢の痕



 四、


 微かな雨音に気づいて、雪瀬は囲碁台から顔を上げた。
 片手に持っていた草紙を畳に置き、座ったまま少しだけ身体を伸ばして障子戸をわずか開く。細い隙間から外をうかがいやれば、やはりにわか雨が降り始めていた。
 花の香を含んだ甘やかな春雨と違い、秋の雨は色が無く、ただしんと降る。身が研ぎ澄まされるような、どこか懐古の念を呼び起こすような、そんな降り方をする雨だ。――そう、懐古の情を呼び起こす。
 雫を宿して濡れた色に染まる庭木を眺めつつ、

「あー……傘……」

 ぽろりとそんな単語が口をついて出る。
 確か出て行くときに、桜は傘を持っていなかったような気がした。扇を追いかけていく彼女の姿をちらりと見かけただけなので、定かではないけれど。……ああ、行かせる前にちゃんと確認しておけばよかった、と少し後悔してから、それは過保護すぎか、と雪瀬は苦笑する。傘くらい、自分で買うのを思いつくはずである。

「……あや?」

 不意に空気がざわつく気配を感じ取って、雪瀬は空へと向けていた視線を近くに戻す。
 微風が部屋に流れ込み、手にしていた草紙をはためかす。雪瀬は草紙を閉じ、風の吹いてくる方角を探した。木々がざわめき、庭に出来た水たまりに波紋がさざめく。
 『優れた風術師は風をまとう』。そんな言葉が脳裏をよぎった。まるでそこにあるものすべてが風術師の来訪を告げているかのようだ。まもなく現れた予想通りの人影に雪瀬は微笑をほころばせた。

「お帰りー、天才風術師」

 濡れ縁からひょいと顔を出してそう投げかければ、颯音(さおと)は足を止めて微苦笑をこぼす。

「好きだね、その呼称」

 そうつまらそうに言うこともないのに。いいではないか、天才風術師。

 兄はどうやら自室に戻る途中だったらしい。
 橘の屋敷はむやみやたらに広いため、表門から入ると部屋にたどり着くまでにいろんな棟をぐるぐると回ることになる。

「どこ行ってたの?」
「測量の下見とかね。いろいろ」

 上着にかかった雨雫を払っている颯音を部屋の中から見やって問えば、畳んだ傘を軒に立てかけながら颯音が答えた。

「測量?」

 そんなものをやっていたとは初耳だ。

「父さんのときの地図がさ、古すぎるんだよ。先代から使っているからもう何年だろ、五十年前くらいのもの? もうすぐ長雨の季節なるじゃない。でもあれじゃあどこの川が氾濫の危険があって、どこの堤を直せばいいのか、全然わからない。だからいろいろ回ってみたりそこの人に話を聞いてみたりしてるの」
「当主みずからよくやるねぇ」

 最近よく出かけると思ったらそんなことをしていたのか。こんな降りしきる雨の中をよくもまぁ、と感心するよりむしろ呆れて雪瀬はほとと息をつく。

「あ、颯音兄。なーなー碁の相手して」

 濡れ縁に腰掛けた兄の袖を引き、雪瀬は期待いっぱいの視線を投げかける。疲れてるんだけどなぁと呟き、颯音は黒石と白石の布かれた盤面を見やった。

「ひとり碁?」
「うん、暇だったから」
「相手、してあげてもいいけど。ただし雪瀬、白側ね」
「えー白、もう負けが込んでるじゃん」
「そう。だからひっくり返してごらん」
 
 颯音は微笑って、碁台の角を叩くと、碁笥を引き寄せた。黒石を持ってもう準備万端といったご様子。雪瀬はしぶしぶ白石を握る。

「おやつ賭けようよ。俺勝ったら、颯音兄の栗まん一個で」
「どうぞ? じゃあ俺が勝ったら、明日と明後日のぶんの雪瀬のおやつをもらうよ」
「ずるい。全然平等じゃない」
「おやおや。負けなかったらいい話じゃないの。――それとも自信ない?」
「そんな、まさか。ぜーったい勝つ」

 挑発をされると、激昂はしないが特に意味もなく不敵に笑って返してしまうのが雪瀬である。まったく自信などないのに、何故そう偉ぶったそぶりをしてしまうのか不思議に思うこともしばしばだ。ともしたら、そうしてあとに引けなくさせて、自らを追い立てているのかもしれない。
 盤面に並ぶ黒と白を眺め、雪瀬は黙考する。
 それからぱちりと白石をさした。
 そう来るか、と颯音は腕を組む。

「……栗まん、半分にしない?」
「おや。兄上さま曰く、負けなかったらいい話、でしょう?」
「ごもっとも」

 ううん、と碁石を手の中で弄びながら颯音は盤面を眺める。これは少し時間がかかりそうだと、雪瀬は正座を崩すと障子戸に背を預けた。軒から滴り落ちる雨雫を目で追う。ひとつ、ふたつ、みっつ。

「あのさぁ颯音兄」
「はいな、なぁに?」
「最近一日中暇だから、いろんなこと考えるんだけどね」
「ふぅん?」
「空蝉のこととか。月詠のこととかさ」
「……何が言いたいの」
「――俺に隠し事とかしてない?」

 ふと兄が顔を上げた。雪瀬も軒から視線を戻す。

「隠し事?」
「そう。今回の空蝉の件、思えばいろいろと不自然な点が多い」
「――不自然、というと?」

 眸が冷たく眇められたかというと、今までとはがらりと声の調子が変わる。目の前にいるのは、すでに兄であって兄でない。この葛ヶ原を治めるあるじ、橘の当主である。けれどそれで物怖じするようなたまでもなしと雪瀬は膝を抱えなおして続ける。

「いろいろ思い返していて不思議になったんだ。どうして月詠は俺たちのもとへ来れたんだろうって」

 もともと、空蝉を毬街の旅籠に移すという処置は長老会で内密に決定されたことで、葛ヶ原でもごくごく一部の者しか知らない。橘宗家、分家、五條、蕪木といった橘一門四家と、長老会格が十数名、当事者である空蝉と沙羅と桜、護衛についていた衛兵たちくらいだ。にもかかわらず、月詠は颯音たちの張っていた毬街の空蝉の邸宅でも、また葛ヶ原でもなく、真っ先に翠楼へと現れた。
 偶然とは考えにくい。おそらく、葛ヶ原側で月詠に通じ、空蝉の居場所を教えた者がいるのだ。

「つまり、内通。しかも身内の」

 ぱちりと、白石で盤面を切り込む。
 どうだとばかりに兄を仰げば、颯音は一時思案げにしてから、口を開く気になったのか、「さすがだね」と薄く笑みを載せた。

「俺もまったく同じことを同じ経緯で考えて同じ結論にたどりついた」
「アタリはもうついてるの?」
「それがね、実はまったく。……せめて見当がついてから雪瀬たちには話そうと思っていたんだけどねぇ」

 物憂げに颯音は独語めいた呟きを漏らした。そんな兄の横顔を眺め、雪瀬は少し考え込む。

「なぁそれ、頼まれようか?」
「やってくれる?」
「今暇だし。颯音兄は自由に動けたほうがいいでしょ」

 もしも俺を信用できてたらの話だけど、と雪瀬は注意深く付け加える。内通しているのが身内、ということは当然雪瀬も該当者になってしまう。もちろん雪瀬は月詠側と通じたりなどしていないからこう申し出たのだが、颯音のほうに疑われていたら元も子もない。

「何を今さら。信頼していますよ。それはもう」

 小さく笑って颯音は言った。

「雪瀬は善良だから。それに、嘘吐きだけど正直。この葛ヶ原では実に稀有」
「それ、褒めてるの」
「おや。この上ない賛辞を送ったつもりなんだけど」

 全然賛辞に聞こえない。第一、嘘吐きだけど正直ってなんだ。矛盾している。

「そう疑わしげな顔しない。――実はね、これから少し葛ヶ原を留守しようかなって思ってるんだ」
「るす? どこか行くの?」
「ちょっと百川のほうにね。雪瀬。その間、葛ヶ原のこと頼んで平気?」
「ん」

 葛ヶ原を頼まれる。
 そのときは何ということはなく軽く答えてしまったのだが。あとあとになって、――本当にずっとあとになって、その言葉が重くのしかかる日が来るとはこのときの自分は想像だにしなかった。
 信じたよ、と雨音に融けいるような囁きに、雪瀬は軽く笑って顎を引いた。