一章、夢の痕



 五、

 結局碁の勝負は雪瀬が負けた。
 あとちょっとだったのに、と未練がましく呟き、雪瀬は盤面に並んだ白石を片付ける。なぁなぁもう一回ー、と兄にせがんでいると、

「――雪瀬さま」

 降りしきる雨の中を駆けてくる青年が見えた。

「お探ししました」

 暁はその場にいた颯音に軽く礼をすると、弾ませた吐息を整え、こちらを向き直る。

「雪瀬さまにお客さまです」
「客?」
「ええ。先ほどいらっしゃったんですが、空せ――」

 そう続けかけた暁の口を雪瀬はおもむろに塞ぐ。

「むぐっ……?」
「ん。わかった」

 目を瞬かせてこちらをうかがってきた青年ににっこり微笑んで返すと、雪瀬は手を離す。みなまで言うな、という意味である。

「颯音兄、勝負はまた今度。――暁、場所どこ?」
「関所の屯所のほうでお待ちいただいております」
「ありがと」

 雪瀬は軽く暁の胸あたりを叩くと、濡れ縁を降りて下駄を履く。颯音が軒に立てかけておいていた番傘を取って開いた。

「これ借りるね。じゃあちょっと出かけて参りマス」

 傘を肩にかけると、雪瀬はちょこんと頭を下げる。颯音は碁笥に蓋をしながら「いってらっしゃい」と涼やかに微笑んで見送った。



「暁。お暇なら、碁の相手しようよ」
「構いませんが。お相手が務まるでしょうか」
「大丈夫。俺は雪瀬ほど強くないから」

 雨の中、足早に関所に向かっていった弟の背を見送ると颯音は苦笑した。いったい何をこそこそと隠しているのやら。しまいかけた碁笥を引き寄せながら、「いったい誰が来たの」と何気ない口調で御しやすい青年のほうを探る。

「それは……」
「雪瀬に遠慮する必要はないよ。――もしや空蝉の奥方さま?」
「ご存知、だったんですか?」
「そろそろね、来ると思ってた。後始末、つけなくちゃなぁって」

 どことなく不穏な気配を孕ませた言葉に、暁が眉をひそめる。この青年は流血沙汰を心底厭うのだ。強いものではないが、どこか責めるような視線を送る青年を見やって颯音は肩をすくめた。

「……ま、今回は俺の出番はなさそうだけどね」
「雪瀬さまが?」
「一番嫌な役を望んで買って出るんだからねぇ。ほんとお人よしというかなんというか」

 独白めいた呟きをこぼすと、石を持ち、どうぞ?と暁を促した。青年が碁盤に石を置く。

「それがあの方の性分でございましょう」
「だとしたら、なんとも難儀な」
「橘一族に一筋縄でいく方はおられませんよ」
「言うようになったね」
「日々鍛えられたたまものです。――雪瀬さま。お元気そうでしたね」
「あぁ、そうだね。熱も引いたみたいだし」
「安心しました」

 ほっと息をつく青年を眺めやって、颯音は淡く微苦笑を漏らす。不思議そうに暁は青い眸を瞬かせた。

「暁。今日が何の日だか覚えている?」
「何か、ありましたか?」
 
 質問の意図をはかりかねた様子で青年は首をかしげた。
 さぁ何があったんだろうねぇ、と言いまぎらわせ、颯音は文机の隅に置かれた曼珠沙華へと視線をやる。赤い花弁を指でつまんで、その表面を撫ぜた。

「颯音さま、」
「――暁の番だよ」

 促せば、暁は何か物言いたげに口を開いてから、目を伏せて石を持った。





「沙羅(さら)」

 屯所についた雪瀬は傘を畳んで衛兵に渡すと、中に入る。畳の上に衛兵に脇を固められながら座っている少女を見つけて声をかけた。だが、反応がない。

「沙羅」

 少女のかたわらにかがみ込んで、もう一度ゆっくりと名を呼べば、俯いていた顔がぎこちなく上げられた。雪瀬は軽く手を振って、衛兵たちに持ち場に戻るように命じる。

「けれど、雪瀬さま、」
「――いいから」

 心配そうな顔でこの場にとどまろうとする衛兵に、雪瀬はさりげなく腰に差した懐刀を示す。普段紙を切るとか、果物の皮を剥くためにしか使っていないが、まぁ緊急時には身を守るくらいできよう。
 だが、橘一族でも風術師ではない雪瀬は存外信用がなかったらしい。大丈夫ですか、平気ですか、と口々に聞かれ、さらにはものすごく後ろ髪を引かれている様子で衛兵たちは何度もこちらを振り返りながら屯所を出て行った。
 ぱたんと扉が閉められる。それを見取って、雪瀬はよいしょと沙羅の前に腰を下ろした。

「いる?」

 机の上に置かれていた急須を取って聞いてみる。やっぱり返事は返ってこない。仕方なく雪瀬は茶を注いだ湯飲みを彼女の前に置き、自分のぶんを入れた。
 傘を差してこなかったのだろうか。沙羅は頭から爪先までびしょ濡れになっていた。ほつれた銀髪が色を失った頬にはりつき、ぱたぱたと毛先から滴り落ちた雫が畳にしみを作っていく。
 雪瀬はお茶に口を付けながら畳と少女とを見比べ、おもむろに自分の上着を脱いだ。軽く表面についた雫を払うように振ってから、少女の肩に羽織をかける。あいにくと屯所の中には手ぬぐいがなかったのだ。
 少女の身体には少し大きめのそれを胸の前でかきあわせるようにする。おそらくこの娘のことだから悪態でもつくか抵抗でもするのだろうと予想していたが、沙羅は微動だにせずされるがままになっていた。その膝元には古びた箱が置かれ、彼女はそれがひどく大事なものであるかのようにぎゅっと箱を抱きしめていた。
 どうにも肩透かしを食らった気分になる。この少女に対する雪瀬の印象がいつも毒舌混じりの皮肉を言っている、というものだったからだろうか。言葉ひとつ発しない彼女は濡れそぼった姿とあいまっていっそう痛々しく映った。

「沙羅。あのさ、」
「――橘雪瀬」

 切り出しかけた雪瀬の言葉を遮って、沙羅はおもむろに俯かせていた顔を上げた。それまで抱きしめていた箱をすっと雪瀬のほうへ差し出す。

「どうぞ」

 血の気のない唇が動いて無感情に言った。蒼白な少女の顔色からは彼女の感情が読み取れない。その意図も見えなかった。雪瀬は沙羅をうかがい、それから箱へと視線を落とす。

「あなたがたが見殺しにした男の首です」

 首?

「空蝉さまのみしるしですよ」

 雪瀬は目を瞬かせた。
 そういえば月詠が斬り捨てた空蝉の首はずっと見つかっていなかったのだという。じゃあ男の首は少女が自分の手で運んだとでもいうのか。それまでは何か大事なものでも入っているのかな程度にしか思っていなかった箱が急に禍々しい空気をかもして雪瀬の前に立ち現れた。

「胴体は焼いてしかるべき場所に埋葬しました」
「――……」
「埋葬屋が驚いていました。だって穴の開いた胴体です。左胸にぽっかりと穴の開いた……っ」

 膝元に重ねた手に爪を立て、少女は喉を震わせた。だん、と力任せに畳を叩きつける。そばにあった湯飲みが転がって、音もなく茶が広がった。

「ねぇあなた約束しましたよね? あの方を守ると、あなたがたは私たちに約束したはずです、違いますか! どうなのです!? 答えなさい橘雪瀬っ」

 がこん、と紐で結ばれた箱が倒される。少女の手が伸び、雪瀬の胸倉をつかみ寄せた。

「答えて橘雪瀬! 約束を守ってくれるんじゃなかったの!」

 力任せに衿を引っ張られ、雪瀬は軽く息をつめる。少女の手元を見やって、濃茶の眸をつぅとすがめた。やり場のない視線をそらす。

「……ごめんね」

 それまで硬質な硝子玉のようだった碧眼にすっと鮮烈な色がよぎる。沙羅は色のない唇を噛んだ。

「嘘、つき。嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐きっ。あなたが、あなたが代わりに死んでしまえばよかったのに……っ」

 胸倉を揺さぶりながら狂ったように紡がれる呪詛の言葉を雪瀬は静かな面持ちで聞いた。碧眼からすっと一筋、涙が伝い落ちる。

「う、そつき、……っく……」

 かすれ始めた声に微かな嗚咽が混じり始めた。少女は慟哭する。雪瀬の衿をきつく握り締めたまま、空蝉さま空蝉さま空蝉さまと泣き叫んだ。
 泣き腫らした碧眼も、震える細い肩も、その声もあまりにも痛ましい。
 雪瀬は目を伏せ、それからそろりと少女の頭に手を回した。濡れそぼった髪を撫ぜやる。沙羅は顔を振り上げ、涙に濡れた眸でこちらをきつく睨み据えた。視線だけで射殺されでもしそうだ。自分の愛した男を見捨てた人間に慰められるというのはこの少女にとってはたまらない屈辱らしい。苦笑し、雪瀬は手を離す。

「――沙羅。一度しか言わないから、よく聞いて」

 部屋に自分たちのほかは誰もいないのを確認すると、雪瀬は少女の銀髪をかきやってあらわになった耳元に唇を寄せた。続きの言葉をひそやかに耳打ちすれば、沙羅は虚をつかれた様子で目を瞬かせる。

「それ……」
「もう言わないよ。一度きりって言ったでしょ」
「でも、本当に? どうして……?」
「さぁ」

 不思議そうに小首を傾げた少女へそっけなく返すと、雪瀬は沙羅の肩に手を添えて自分から離し、乱れてしまった衿元を直した。

「霊というのは長くは現世(うつしよ)にとどまらないけど、」

 そう一応の釘を刺してから、雪瀬は転がってしまった湯飲みを直し、腰を上げる。

「どうか余生はふたりで幸せに」







 傘は、どこかに捨ててきてしまった。
 ぬかるんだ雨の道を少女は走る。銀髪のお下げはほつれ、濡れそぼった着物は身体にはりつき、跳ね返った泥のせいで足はひどく汚れてしまっていたが、そんなことは露ほどにも気にならない。雨の道を少女は走る。教えられた場所、毬街の貧民窟に近い場所にある廃屋にたどりつき、不安と期待の入り混じった表情であたりを見回した。
 ――その表情があまりにもいとけなかったので。濡れ縁に座って少女を待っていた男は薄く笑う。
 笑い声に気づいたのか、少女がこちらを振り返った。空蝉さま、と声はなく、唇だけがそう動く。おそらく微笑おうとしたのだろう。けれど中途でくしゃりと表情が崩れ、碧眼から涙がはらはらと零れ落ちた。少女は手で顔を覆う。頬を濡らす綺麗な涙をぬぐってやりたいと、嗚咽に震えるその肩を抱き寄せてやりたいと思うのだが、それができないのは少しだけ口惜しい。
 短い首をすくめ、男は舌打ちする。しゃあねぁなぁ、とそれから駆け寄る少女を穏やかな心持で待った。