一章、夢の痕
六、
毬街の大通りは突然の雨のせいで、ひとの通りもまばらだった。
道端で店じまいをしているしゃぼん玉屋やら稲荷寿司の立ち売りなどに目を向けながら、桜は手ぬぐいで濡れた髪をふく。それから身体を振って水を払っていた扇を抱え上げると、丁寧に羽を拭き始めた。
「お客さん、大変だったでしょう」
店の奥の暖簾から出てきた店主らしき男が声をかける。湯気の立ち上る茶を桜の前に置いた。毬街の臙井地区に入ったふたりは当然傘を買うなんてことは微塵たりとも思いつかず、原始的に街を駆け抜けた末、雨宿りを兼ねて通りに面した茶店に駆け込んだのである。
しかし出された湯飲みはひとつきり。桜のぶんだけだ。気分を害した様子で嘴をかちかち鳴らした扇に気づき、桜はいったん引っ込もうとした店主の袖を勇気を出して引いてみた。
「何か?」
「あの、……扇のぶん」
白鷺を振り返ってもごもごと呟く。
店主はいぶかしげに白鷺を見やってから、こちらの言いたいことを理解してくれたらしい。ちょいとお待ちを、とすぐに人好きのする笑みを浮かべて奥に引っ込んだ。
「ったく気の利かない店主だな」
「ん、」
舌打ちをする扇に何とも返答しかねて桜は肯定とも否定ともつかない声を出した。
確かに桜にとって扇は扇だけども。他のひとから見たら、ただの白鷺にしか見えないのだろう。常識的なことはよく知らないけれど、猫にお茶を出すひとはいないように、白鷺にお茶を出してくれるひとは少ないかもしれない。
――考えてみれば、扇というのもまた不思議な存在である。普通の鳥は話しかけても喋らないし、桜の言葉もあんまり理解してくれないようだった。扇はどうして他の鳥と違うのだろう。桜は白鷺の羽を拭きながら、しげしげとその顔を眺める。
「……な、なんだ?」
「扇は生まれたときから今みたいだったの?」
「今みたい、とな」
「喋れた?」
「いや、もちろん赤子の時分は喋れなかったが」
「あかご。雛鳥のとき?」
「雛?」
桜の言葉を繰り返し、「おいおい」と扇は呆れた様子でこちらを仰ぐ。
「俺はこんな為りだが、もとは人間だぞ」
「……そ、うなの?」
「無論。そうに決まっている」
そうか、そうだったんだ。扇は何か鳥の中でも変種のあやかしなのかと思っていた。
「まさかお前、本当に喋る白鷺と思っていたのか」
「うん?」
「……そうだよな。お前に常識を求めた俺が悪かった」
こそりと嘆息し、扇は少し傷ついた様子でうなだれる。羽を拭き終えた桜の手から抜け出ると、扇は窓枠に乗って外の雨を眺めやった。
「――俺はな。ひとであった頃、それなりに名の知れた人形師だったんだよ」
「にんぎょうし?」
「空蝉と同じだ。しらら視で、中央に仕えていた。もうずいぶんと昔の話だが」
汚い金だった、と扇は呟く。
「お前のような人形を数多売り払って俺は金を手に入れていたんだ」
もしかしたら扇自身の話を聞いたのは初めてだったかもしれない。桜は外を眺める白鷺の背中を見やって、うんと相槌を打つ。
話によると、扇の造る人形は空蝉ほどではないものの、それなりの評判を得ていたらしい。特に戦人形においては、その屈強さ、従順さ、男の生み出す人形の右に出る者はいなかったのだという。
やがて没落しかけた貴族の名を買い、姓を得た男はしかし自分の造った人形のひとりに刺されてあっけなく死んだ。――それまで虐げ、踏みにじったツケだろうな、と扇は自嘲する。彼はまさに命のついえるその間際、飼っていた白鷺に手を伸ばしたのだという。ほとんど無意識に。ただ助けを乞うように。その羽根に触れた瞬間、男は果て、そして意識のみが白鷺に憑依した。
白鷺は憎しみを込めて人形の目をえぐり、血に染まった翼で空へと逃げた。それから数日、空を飛び続けたのだという。翼千切れんばかりに飛び続けて、しまいには力尽きて地に堕ちた。そのときはすでに白鷺は餓死しかけていたし、片翼は折れて使い物にならなくなっていた。このまま自分は死ぬのだろうと思った、と扇は言う。死を覚悟した、と。そうして桜の樹の下でぐったり横たわって死期を待っていたとき、『彼』が現れたのだった。
「それが雪瀬?」
「――いや」
けれど予想外にも扇は首を振り、違う、と言った。
「俺を拾ったのは橘凪(たちばな なぎ)」
「たちばな?」
雪瀬と同じ姓だ。でも凪という名を名乗るひとにはまだ会ったことがない。たまたま顔を合わせることがなかっただけだろうか。それとも、“柚”のようにどこか別の場所にいるとか。あ、それで扇は雪瀬に預けられているのかな、と桜が考えていると、扇は苦笑してまた首を振った。
「凪はな、もう死んでるんだ」
すっと降り続いていた雨音が途絶えたような気がした。桜は眸をゆっくりと瞬かせる。
「五年も前のことだ。めぐりめぐって俺は雪瀬の手に渡った。――どうだ、たいして面白くない話だったろう」
扇が笑って呟くから、どう答えたらよいのかますますわからなくなってしまう。桜は手ぬぐいを抱きしめてふるっとかぶりを振る。
「あお、」
「――おまちどうさまー」
ことん、と白鷺の前に湯飲みが置かれた。
ふん、と扇は店主へ挑発じみた一瞥を送ってから、湯飲みに嘴を突っ込んだ。それを見取って桜もお茶に口をつける。……面白い話じゃないけど、別に嫌だったわけじゃないよって言いたかったのにな。時機を逸してしまった。
「お客さん、おひとりで?」
桜の対面に座った店主が気安いかんじで尋ねてくる。他に客はいないので暇なのかもしれない。
扇とふたり、と桜は訂正した。けれど店主のほうはそれはさらりと受け流し、「どこから来たの?」と問いを重ねる。
「……東のほう」
葛ヶ原、という言葉がとっさに浮かばなかったのだ。
「ふぅん、でもお嬢さんまだ小さいよね。お父さんやお母さんは一緒じゃないの?」
「おとう……、」
空蝉は死んでしまったし、沙羅はあれきり会ってない。桜は目を伏せた。
「お兄さんやお姉さんも?」
「……ん」
「ふぅん。そっかー」
店主は何やら思案深げにうなずき、足を組み直す。
なんだか、妙だ。どうしてこのひとは初対面の桜に根掘り葉掘りとあまり関係のないようなことまで訊いてくるのだろう。世間話、というものなのかもしれないけれど。このひとはこちらの素性を探るような、嫌な雰囲気があるのだ。
得体の知れない気味の悪さのようなものを感じて、桜は早くお茶を飲み終えてこの茶店を出てしまおうと思った。とはいえ、猫舌の桜にお茶は熱すぎる。仕方なくちびちびと舌をつけていると、店主が軽く身を乗り出してこちらをうかがった。
「ねぇ、お嬢さんいくつ?」
「じゅうと、……みっつ?」
「ふぅん、そう。少し幼いけど、まぁこの顔なら売れるかな」
――うれる?
何か場違いな言葉が混じった気がして、聞き違いかな、と桜は小首をかしげる。
「桜!」
だが刹那、それまで沈黙を守っていた白鷺が突如怒鳴りつけるような声を上げた。
驚いて顔を上げれば、手に持っていた湯飲みを足で蹴飛ばされる。はずみ、湯飲みが床に落下し、乾いた音を立てて砕け散った。
「これ妙なクスリが入ってるぞ。身体がふにゃふにゃと、」
言っているそばから扇は平衡感覚を失った様子でぽてりと机に倒れこむ。何が起こったのかわからず、桜はとにかく扇を抱え上げて店主を仰いだ。
「何だ、ばれちゃったのか」
ちぇっと男は軽く舌打ちし、呟く。
「お嬢さん綺麗だから、高値で売れるなぁって思ったのに」
「人身売買か」
「ご名答。人間から人形まで何でも扱ってるよ」
「っの下種が!」
白鷺は桜の腕の中でばたばたともがく。うるさい鳥だなぁ、と男は肩をすくめ、腰から短刀を抜いた。
「でも、喋る鳥って珍しいよね。ねぇお嬢さん、それを俺に譲ってくれない? そしたらあんたは逃がしてあげるよ」
桜はあとずさり、ぶんぶんと首を振る。ぎゅっと扇を抱きしめた。売られるのは嫌だが、扇を取り上げられるのはもっと怖い。
「だめなの? なら、仕方ないな」
男は軽くうなずいて、ためらいもなく手に握った短刀を振る。桜は身をすくめた。――瞬間、腕の中の扇がぱっと羽を広げ、一直線に男に飛び掛かる。短刀を握る手の甲を爪で引っかき、嘴で目をつつこうとする。男が獣じみた悲鳴を上げた。
「あおぎっ、」
目、つついちゃだめ、という制止をこめて桜は扇を呼ぶ。こちらの声が届いたのかわからないが、扇は男から離れ、羽ばたく力をなくした様子で地面に落下する。顔を覆って呻く男の脇をすり抜け、桜は落ちてきた白鷺を受け止めた。店を駆け出ると、あとはひたすら雨の中を走った。
*
幸いにも男はすぐにまくことができた。
立ち並ぶ蔵の分厚い扉に背を預けると、桜は上がった息を整え、ずるずるとその場にしゃがみこむ。何せ桜は中央兵に追われながら都から毬街まで逃げおおせたくらいなのだ。ちょこまかと小さな身体で動き回って追っ手をまくすべはあのときいやがおうもなく学んでしまった。
「あおぎ」
桜は抱えた白鷺に顔を近づけ、名を呼んでみる。反応はない。揺さぶってはまずい気がしたのであおぎ、あおぎ、と声だけで繰り返していれば、白鷺は黒眸をうっすら開き、桜の手に頭をすり寄せた。桜はその首元をそぅと撫ぜる。しかし扇は弱々しい呼気を漏らすだけだ。
変なクスリが、と先ほど扇は言っていた。
よくわからなかったけれど、とりあえず状況をまとめると、あの店主は人身売買か何かをやっているひとで、自分はそれに捕まりそうになっていたのだろう。お茶には薬が混ぜられていて、動けなくなったところを捕まえる算段だったのかもしれない。結局桜のほうは猫舌が幸いしてほとんどお茶を飲んでなかったので無事だったのだが、代わりに扇が動けなくなってしまった。
桜は冷え切った両手を絡ませて、白い息を吹きかけた。水を吸った衣が重く身体にまとわりついて、徐々に身体から熱を奪っていく。
「あおぎ」
抱えた白鷺の身体ももうずいぶんと冷えてしまっている。温めようにもどうにもならず、桜はただぎゅっと扇を抱きしめた。
「あおぎー」
声がだんだん情けないものになってくる。
このまま扇が死んでしまったら、と思うとぞっと背筋が冷たくなった。扇はすでに一度死んだ身であるのだからまた死ぬということはないかもしれないけれど、それだけにもしかしたら消えていなくなってしまうんじゃ、と心配になる。
あおぎ、あおぎ、と呼んでも答えてくれない白鷺に頬を寄せた。濡れそぼった羽が肌に触れる。すごく冷たい。どうにかしなきゃ、と桜は思った。扇を診てくれるひと、お医者さんを探さなくては。
医者、という言葉で真っ先に瀬々木を思い出す。そうだ、確か瀬々木は毬街に住んでいたのだった。
一筋の光明が射して、桜はぱっと顔を上げる。だが、あたりに広がる景色の見慣れなさにすぐに表情を強張らせた。
しまった。逃げるときにめちゃめちゃに道を走ってしまったので、すでに完全に道を見失ってしまっていた。毬街のどのあたりにいるのかがわからず、また葛ヶ原への帰り方も見当がつかない。この街のどこかには瀬々木の家があるはずだが、どこをどうたどればよいのか。雪瀬に連絡を取りたくても、肝心の扇がこの状態なのだ。
不安が胸を塞ぎ、ぽろぽろと涙が頬を伝った。
いやだ、外、怖い。外、いやだ。
忘れていた感情が胸をわきあがり、それが涙となって溢れて落ちる。いっそ手放しに泣いてしまえたらどんなに楽だろう。
でもそれじゃだめだ、と桜は口を引き結ぶ。周りには誰もいないのだから、自分でなんとかしないと。じゃないと扇が死んでしまう。手の甲で涙をごしごしぬぐうと、桜は腰を上げる。おさまりきらない嗚咽に喉を震わせながら、桜は雨の中を歩き出した。
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