一章、夢の痕



 七、


 看板にはただ「うらなひ」とだけある。
 よくもまぁこうも汚く書けたものだと首をひねりたくなるようなその筆致。長く雨風にさらしたせいでくすんだ飴色に転じた台に安い瓦灯が置かれ、椅子にはちょこんと少女が腰掛ける。少女は広げた紙に何がしかを書いているようだったが、ふと前に立った人影に気付いて手を止めると、ふんわりと夏の小さな花のごとく可愛らしく微笑む。紅の刷かれていない花色の唇が開いた。

「いらっしゃいませ、お客さま。この毬街の占い屋へ」




「吉、ですね」

 水気を含んだ風とともに玲瓏と、少女の胸元にかけられた鈴が鳴る。それを合図に黒い布の上に透明な石が散らされた。できあがったその形を見て取ると、少女が静かな声音で告げる。ぱっと顔を輝かせ、男は膝を打った。

「真か!」
「ええ確かに」

 まだ年若いその少女は、けれど歳に似つかぬ落ち着いた笑みをたたえて顎を引く。――この娘、近頃裏で名の知られ始めた占術師なのだという。肩書きが肩書きだから、どのような婆さまだろうかと物の試しに来てみれば、椅子に座っていたのはほとんど子供といってもいいような年頃の娘だった。これは期待できないと、仲間への土産話半分冷やかし半分に占いを頼んでみたのだが、しかし歳に似合わぬ落ち着きようや、物静かな話し方、何よりも彼女が身にまとうた空気にはどこか浮世離れした不思議なものがある。一口に言えば、男は少女に惹きつけられた。

「転職は東に吉あり、待ち人来たりと出ております」

 少女は石をひとつひとつ指差しながら読み上げていく。ほぅ、と男はあごの無精ひげを撫ぜた。

「それからあなた、今定職についておりませんね? そしてそれをお悩みになっている」
「……何故わかった?」
「そう石に出ております。配置が悪い。ゆめゆめ浅慮で仕えるあるじを選びませぬよう」
「ほう」

 定職についていないことも、それを悩みにしていることも本当だ。そこまで見抜けた“占術師”にはいまだ会ったことがない。あいわかった、と男はにやりと笑う。

「しかし嬢ちゃん、若いのにたいしたもんだなぁ。いったい何者だ?」
「ふふ、ただのしがない占術師にございます」

 台に腕をついてじっと見上げてみた男へ、少女はやんわりと笑って返す。歳のわりにひとの扱いが慣れているな、と思った。やはり並みの者じゃない。

「あーお代……」

 頬の古傷をかき、男は袂を探る。その手を優しくとどめ、少女はゆると首を振った。

「修行中ゆえ、お代はいりませぬ。――ただ」
「ただ?」
「中央のお話、また聞かせてくださいます? なにぶん毬街を出たことがありませぬゆえ、黒衣の占術師さまのお話などは特に興味深く聞かせていただきました」

 少し不安そうな顔になって何をねだるのかと思えば、出てきた言葉はあまりにもあどけなく、無邪気なものだった。男は故郷に置いてきた娘を思い出し、懐かしげに目を細める。

「あぁもちろん。実は俺は黒衣の占術師のもとで仕えていた兵なんだ。聞きたいことがあれば何でも聞いてくれ。あ、あいつが必ず連れている女官の話などは知っているか?」

 男は軽く身を乗り出し、機嫌よく“世間話”を始めた。



 お気をつけくださいませ、と男を見送る。角を曲がる際にいま一度名残惜しげに振り返って手を振ってきた男へにっこり笑い返し、男が完全に視界から消えるに至って少女はほうと物憂げに嘆息した。

「まったく本当に愚かな生きものなのですから。男というものは」

 そこに先ほどまでの可愛らしい人好きする笑顔はない。ただやけに厭世じみた呟きが淡白に放たれただけ。

「まぁおかげで有益な情報を得られたからいいんですけども」

 呟きながら少女は“うらなひ”と書かれた札を伏せ、散らばった小石を袋の中にしまっていく。きゅっと袋の紐をしめると、黒布をたたみ、少女は席を立った。
 台に軽く手をつけ、身体を傾けた弾みに、さらりと長い濃茶の髪が肩から滑り落ちる。その色にしばし目をとめて、少女は不意に口元に自嘲を滲ませた。

「橘一門はみな嘘吐き、ですか。……言い得て妙な」

 瓦灯が吹き消され、あたりはもとの薄闇に沈んだ。







 雨の中をあてどもなく彷徨い歩いてどれほど時間が経ったろうか。
 いくつも角を曲がり、またいくつも小さな橋を渡ったけれど、歩けども歩けども似たような納屋が立ち並んでいるばかり。
 いつしか涙はすっかり枯れ果ててしまっていた。桜は扇を抱いてとぼとぼと道を歩く。腕の中の白鷺は最初のうちこそ呼びかけに応えてくれることもあったが、今は時折弱々しい吐息をこぼすだけでぐったりと桜の腕に身を横たえている。
 
 どうしよう。このまま扇が目を覚まさなかったら。二度と葛ヶ原に帰ることができなかったら。押し寄せる不安にまた視界が滲みかけ、桜はふるふると首を振った。
 胸にかかった木鈴をたぐりよせ、ぎゅっと握り締める。

「きよせー……」

 目を伏せて冷え切った手の甲に唇を寄せると、今にも消え入りそうなか細い声でかの少年の名を呼んでみた。無論、こんなところで呼んでみたところで葛ヶ原にいる彼に声が届くわけないことくらいわかっている。でも、それでも口にせずにはいられなかった。不安で不安で、心が押し潰されそうだった。雪瀬、怖いよ。たすけて。

 ふわりと優しい風が頬を撫ぜたのはそのときだった。まるで桜の呼びかけに応えてくれたかのような抜群の頃合だ。桜はしょんぼり足元へ落としていた視線を上げてあたりを見回す。――誰もいない。ただ、足元の水たまりにざわざわと波紋だけが広がっていく。誰もいないのに気配はある、何とも不思議な感覚だった。

 この際霊でもあやかしでもいいから出てきて欲しい。うう、と桜は歯がゆい気持ちになりながら雨色に染まる情景に何とかひとの輪郭を見出せないものかと目を凝らした。と、煙雨に霞む視界に鮮やかな朱色の傘が花咲く。桜は心臓を跳ね上がらせた。ひと、だ。たぶん女のひと、だと思うが、傘の影になっていて顔はよく見えない。どう声をかけたらいいのか、と桜は鼠に罠をはる鼠捕りのような心持ちですぐそばを通り過ぎるひとを目で追った。琥珀を深めたかのような色、桜が何度も何度も脳裏に思い描いた少年と同じ色をした髪がさらりと眼前を流れた。

「――……雪、」

 半ば衝動的に手を伸ばして、その袖端をはっしとつかむ。雪瀬だ。雪瀬が来てくれたのだ。うーと泣きながらぎゅうううと袖を握り締めてしまってから、傘のぬしが振り返るにいたって桜は我に返った。――違う。女のひと。それも自分とさして歳も変わらないような女の子だ。

「……何か?」

 呆けた表情になってしまった桜を見やって、濃茶の双眸が不思議そうに瞬く。
 そうだ、何か言わなきゃ。とっさに雪瀬と間違えて袖をつかんじゃったけど、どうせ誰かに道を聞かなきゃいけなかったのだからちょうどよかったのだ。

「あの、道、……」

 しかしいったい今のこの状況をどう説明したらよいのか。道を聞けばいいだけであるのに言葉は喉奥を空回るばかりで、桜は道、道、と同じ言葉を繰り返してから困り果てて眉根を寄せる。ただこのひとの袖を離しちゃいけないとだけ強く思って、ほとんど泣きそうな顔で袖を握り締めていると、相手はくすりと笑みをこぼした。

「袖。もう少しお貸ししたほうが?」

 柔らかく問われ、桜は慌ててふるふると首を振って手を離した。けれど少女が歩き出そうとすれば、また袖をつかむ。離して、歩き出そうとすれば、またつかむ。そんなことをたぶん三回ほど繰り返したと思う。

「もしかして迷子さんですか?」

 そうだ。そうなのだ。桜はこくこくと首を縦に振る。

「あら、それは大変」

 少女は口元を手で覆ってのんびり呟くと、こちらと目線を合わせるように少し腰を落とした。おもむろに伸ばされた指先が桜の頬に触れる。

「とても冷たい。ずっとこの雨の中歩き回っていらしたの?」
「ん……」
 
 ようやっと多少なりとも声が出た。

「あらまぁ。それは寒かったでしょう」

 少女は驚きとも呆れともつかない息をついて、衿元から取り出した布で桜の濡れた顔をぬぐうようにする。どうしてだろう、いつもならとたんに湧き上がるはずの警戒がまるで起こらず、桜は借りてこられた家猫のようにただ目を細めておとなしくしていた。

「このあたり、道が入り組んでいてわかりにくいでしょう? 長く住んでいる方でもよく道を間違えてしまうのですよ。――よろしければ大通りまで私がご案内しましょうか」

 それは願ってもない申し出だった。
 桜はぱっと少女を仰いで、何度もうなずく。嬉しい気持ちを伝えたかったので、頬にあてがわれた手にすりすりしてみた。と、腕の中の扇が不意に身じろぎをした。うっすら黒眸を開けた扇に「あのね、」と桜は弾んだ声をかける。大通りまで案内してもらえるんだって。だから、もう大丈夫だから。大丈夫だからね。
 そう続けようとするも、白鷺は目をすがめ、じっと少女のほうを凝視する。その黒眸に尋常ならざる気配を感じて桜は思わず口をつぐんだ。

「あお、」
「――……柚?」
「あら、扇?」

 男がその名を呟くのと、少女が口元に手を当てるのは同時だった。