一章、夢の痕
八、
「――軽度の麻痺を起こす薬のようですね」
白鷺の首元に手をあてがい、頭を上向かせると、柚葉は取り出した薬草を噛ませる。薬草を噛み砕き、扇は疲れた様子で目を閉じた。
「解毒剤を与えましたし。今夜中には回復されると思いますよ」
少女はたらい桶で手を洗うと、心配そうに白鷺を見守っていた桜に優しく告げた。よかった、と桜は引っかかりがちの息をつく。もう大丈夫なんだ。よかった。安堵が胸いっぱいに広がり、桜はじわっと眦に滲んだ涙を手の甲でごしごしぬぐった。
そんなこちらの様子をなんだか微笑ましそうに眺め、柚葉はたらい桶の水を外に流す。庵の扉を閉め、炭を火起こしにかけた。少しして赤く色づき始めたそれを火鉢に入れて上に鉄瓶を置くと、桜に近くに座るよう促す。
「そこで温まっていてくださいませ。今新しい着物をお出ししますね」
乾いた手ぬぐいを桜に渡し、少女は押入れのほうへと舞い戻る。
「あの、」
「――あ、桜さまは何色がお好きですか?」
「……好きな色。しろ?」
「ふふ、それじゃあ嫁入り衣装か死装束になってしまいますね」
少女は苦笑し、どの色がお似合いになるかしら、と押入れの中の着物を一枚一枚確かめている。てきぱきとした少女に少し置いてきぼりにされてしまいながらも、桜は一応渡された手ぬぐいで雨に濡れた髪をふいた。しかし、こんな風に見ず知らずのひとの家に上がりこんで手ぬぐいで髪を拭いているという状況がいまいち謎だ。そもそも、扇と少女はいったいどんな知り合いだというのか。
ううんと難しい顔になって考え込み、桜は少女のほうへ問いたげな視線を上げる。こちらの視線を受けて少女は目を瞬かせた。それからあぁと手を打つ。
「もしかしなくても私のこと、兄さまから聞いておりません?」
「にーさま?」
聞き慣れぬ単語が出て、桜は眉をひそめる。にいさまって誰のことだろう。
「そうか、そこから説明しなければならないと……」
少女は独語めいた呟きを漏らし、微苦笑を漏らした。
「――まだ名乗っておりませんでしたよね。私は橘宗家第三子、橘柚葉(たちばな ゆずは)と申します。ゆえありまして葛ヶ原ではなくこちらのほうで暮らしております。そのためご挨拶が遅れてしまったことお詫びいたしますね。どうか以後お見知りおきを」
「ゆずは?」
「ええ。とどのつまりが橘颯音と雪瀬の妹、なんですけども」
いもうと、と桜は繰り返す。そうなんだいもうとなのか、とぼんやりと考え、その“いもうと”が妹という概念と頭の中で寸秒遅れで結びつくと、ぺたんと後ろに尻餅をついた。
「いもうと?」
「ええ」
「いもうと、」
「ええ。驚かせたならごめんなさい。すべて何も言わない兄の責任ですが」
……本当だ。とても本当だ、と桜はうなずく。おつかいの話をしたとき、雪瀬は柚葉を老獪でしたたかな風術師、としか言わなかった。でもたぶん老獪よりもしたたかよりも、妹のほうが大切な説明だ。
思えば雪瀬はいつもこうなのだ。家族のこと、自分のこと、何も話してくれない。どうしてなんだろう。桜はそんなに信用がないのだろうか……。
「桜さまのお話は扇や暁からうかがっておりましたよ」
「おはなし?」
「噂に違わぬお可愛らしい方で」
桜はぱちくりと目を瞬かせる。
柚葉は花が綻ぶようにふわりと微笑って、「着物何にしましょうね」と押入れに視線を戻した。
ぱちぱちと、割れた箇所を反古紙で丁寧に張り合わせられた火鉢の中で炭がはぜる。火鉢が熱を帯びるにつれ、ゆうるりと身体が温まってきた。桜は襦袢の衿をたぐり寄せ、息をつく。濡れてしまった桜の小袖は衣桁のほうにかけられて乾かされていた。
小さいけれど、綺麗な庵だと思う。家はそのひとの性格を現すものだといつか雪瀬が言っていたことがあるけれど、本当かもしれない。
土間のかまどは磨き抜かれ、そのそばに鍋や釜などの簡素な調理器具が整然と並べられている。文机には大量の本が積まれ、その端っこにひっそりと菊の花が一輪生けられていた。桜は火鉢から離れ、綻んだ花に顔を近づける。淡い芳香がした。いいにおい。桜はそっと表情を綻ばせる。
「うん、やはり桜さまには深紅が似合うと思うのですよ」
ほとと手を打ち、柚葉が着物を抱えて戻ってくる。
目の前に広げられた着物は深い赤色。今しがた見た花と同じ文様が散らされていた。
――そこに妙な既視感を覚え、桜は目をすがめる。そういえば、赤い着物はよく宮中で着ていた。老帝さまも、黒衣のあのひとも、赤がお好きだったから。
「――桜さま?」
柚葉に顔をのぞき込まれ、桜ははっと我に返った。小さく首を振って、着物を手に取る。深い赤の色は品がよく、生地は滑らかで手触りがよい。ずいぶん上質なものであるようだった。
一緒に新しい糊のはった襦袢を渡される。本当は違う色のものがよかったけれど、せっかく選んでもらったのに我侭を言ってしまっては悪い気がする。赤いのは好きではないけど、少し我慢すればいい話だ。
桜はしゅるりと紐を解いて襦袢を脱ぐと新しいほうの袖に腕を通した。まだ乾ききっていない髪がはらはらと肩から滑り、胸元に落ちる。糊がはっているせいで腕を通しにくい袖に苦心をしていると、――つ、と肩にひんやりとした指先が触れた。桜は目を瞬かせて手を止める。
「これ。なんと読むのです?」
肩に刻まれた焼印を少女のたおやかな指がなぞるようにした。ひんやりとした指先が肌にうっすら残る赤い痕をたどる。肌のあわ立つような感覚に桜は小さく肩を震わせた。
「知ら、……」
声は途中で潰れ消えてしまい、桜は弱々しく首を振った。指先がただ肩に触れているだけであるのに、まるで頭のてっぺんから爪先までが金縛りにあったかのように動かなくなる。指の先が白くなるまでぎゅっと衿を握り締め、桜は目を瞑った。
「――これはとんだ、ご無礼を」
不意に指が離される。とたん、身体を縛っていた緊張が解け、桜はゆるゆると顔を上げた。
「ごめんなさい。嫌な思いをさせてしまったのなら」
柚葉は頭を下げ、桜の肩から落ちかかっていた袖を引き寄せた。
「じゃ、お召しかえをしましょうか」
にっこり笑って少女は着物を取った。
柚葉に少し手伝ってもらいながら着物を襦袢に重ね、帯を締める。着替えが終わると、ついでですから、と呼び止められて髪を櫛で梳かれた。抗う間もなく慣れた手つきで髪を結い上げられ、後ろで一本にくくられた髪には紅の飾り紐が結ばれる。身じろぎすれば、紐の先端についた二連の硝子玉がしゃんと澄んだ音を打ち鳴らした。
おしまいに、と柚葉は貝殻に入っていた紅をとって、それを水に溶く。顎をとられ、唇に紅を浸した指を押し当てられた。薬指がすっと唇をなぞる。伏せがちだった睫毛を上げれば、「とってもお可愛らしいですよ」と柚葉が微笑んだ。
「帰ったら兄さまに褒めてもらいましょうね」
「う……」
兄さま、という単語を出されたせいで胸が変にそわそわしてきて桜は顔をしかめた。雪瀬に褒めてもらうのは嬉しいが、着物を褒めてもらうのは何か違う。それに絶対、高価そうな着物や飾り紐と自分というのはそぐわない気がしたのだ。柚葉と違って桜はただの夜伽であるわけだし。宮中でも綺麗な着物は着せてもらったけれど、それは桜に似合うからではなく、汚い着物でやんごとない身分のひとの前にでるのはイケナイことだったからだ。そう考えていると、胸がさらにもやもやっとしてきて、どうしてこんなに後ろ暗い気分になるんだろうと桜は不思議に思った。
「さて、符が二十枚でしたか」
柚葉は桜の渡した文にざっと目を通すとそう呟き、引き出しから透明な硝子の鈴のようなものを取り出した。大きさは人の拳くらい、色の無いその表面には判読しがたい文字らしきものがびっしりと書き込まれている。
「あぁこれは」
奇妙な鈴につい吸い寄せられるように凝視してしまった桜に気づいて、柚葉は手の中の鈴に視線を落とした。
「製造道具です」
「……せいぞう?」
「ええ。今からこれで符を作りますから、どうかとくとご覧くださいませ」
少女は前置きし、硝子鈴を左手に持った。文机の引き出しから取り出した白い和紙を右手に掲げ、つと鈴を振る。凛と澄んだ音が響き、少女はどこか聞き覚えのある呪詞を唱えた。
生まれた風が鈴の音に乗る。鈴の音は静かな余韻を残し、波打つように大きくなったり小さくなったりを繰り返す。まるで音が風を絡め取っているような、そんな感覚。寸秒して、風は和紙に吸い込まれ、消える。音も絶えた。
「これで終わりです。簡単でしょう?」
柚葉は鈴を下ろして、符を桜のほうに差し出す。
「桜さま、試してみます?」
「え、」
「私の言葉をその通りに繰り返してくださいね」
桜に符を握らせると、柚葉がなじみの呪を口にする。言葉ともつかない言葉、音ともつかない音。奇妙な発音だ。桜はその通りの音を舌の上に載せようとするが、なかなかうまくいかない。何度か繰り返していると、唐突にぶるりと和紙が脈動した。
驚いて思わず符を取り落としてしまう。瞬間、それは空に融けいり、ふわと生み出された風が柚葉の髪を流して消えた。――風。今、風が生まれたのだろうか。
「と、こういうわけです」
目を瞬かせて風を軌跡を追っていると、柚葉がくすくすと笑って告げる。
「兄さまは風術の能力を持っておりませんゆえ、今の桜さまと同じ方法で風を操っていたのですよ」
「そう、なんだ」
すごい。今自分の手から風が生まれ出たなんて。桜はからの手のひらを握り締めてみる。まだ風の残滓が手の中に残っているかのようだった。――これが風術師というものなんだ。
「さて、と。残り十九枚。のんびり作っていきましょうか。桜さま、今熱いお茶を入れて参りますよ」
立ち上がる柚葉の背を追い、桜はその袖端をつかんだ。きょとんとした少女へ小さく首を振ってみせる。
「お茶、入れる。私」
だって桜は柚葉に符を作ってもらうよう頼みに来た側なのだ。服を貸してもらい、髪を結ってもらっただけでは飽き足らず、お茶まで入れてもらってはなんだか申し訳ない。少女が手に持った茶器を受け取ると、とてとてと鉄瓶のほうへ戻る。お湯を急須に注いでいれば、柚葉は微笑んで湯飲みを畳に並べた。
「今日中、……帰れる?」
符をあと十九枚ともなれば、日が暮れるまでに全部終わるかわからない。少し不安そうに尋ねると、大丈夫ですよ、と柚葉が言った。
「帰りは私がお送りしますし、それにね。早く戻ってもどうせ兄は家におりません」
「いない?」
「たぶん、ですが」
笑みに苦いものを混じらせ、柚葉は文机に生けられていた菊の花へと視線をやった。翳りを帯びた琥珀の眸が何かを憐れみでもするかのように細められる。
「今日はね、あのひとにとって特別な日なのです。とても、とても」
「特別な?」
「そう。とてもね」
静けさをもって呟かれた言葉から何を読み取ればよかったのだろう。桜は小首をかしげ、不意に痛んだ胸のあたりを押さえた。
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