一章、夢の痕



 九、


 そのとき、突然背筋を走ったのは悪寒のたぐいだったろうか。
 くしゅ、と盛大にくしゃみをしてから、雪瀬はさむさむと羽織をたぐりよせる。まだ秋の初めとはいえ、雨の日はことのほか冷える。これから徐々に寒気が強まり、葛ヶ原にもやがて長い冬が訪れるのだろう。

 沙羅と別れた雪瀬は宗家へ戻る道を歩いていた。
 昼から降り出した雨のせいでぬかるんだあぜ道は歩きにくいことこの上ない。道脇を細々と流れている小川から蛙が顔を出した。のそのそと前方を横切っていく蛙を眺め、ゆくゆくの冬眠のためなのか肥えるに肥えているなぁと失礼なことを考える。くしゅんともう一度くしゃみをした。

「一回目―はぁよい噂ー、にっかいめーは悪い噂ぁー、」

 くしゃみに呼応したかのように何やら意味不明の歌詞が調子外れの鼻歌にのって前方から流れくる。いぶかしげな表情になって雪瀬が顔を上げると、水たまりと水たまりの間を跳ねるように歩きながらこちらに向かってくる青年の姿があった。

「さぁーんかいめは相手に惚れられてぇー、四回目にぃ、風邪で死ぬーっとな」

 ぱしゃん、と軽やかに水飛沫が舞う。驚いて蛙が田んぼの中にぼちゃんと飛び込んだ。 青年はすれ違いざまに足を止め、

「頑張れくしゃみ四回。応援してる」

 と激励しているのか知らないがばしばしと肩を叩いた。雪瀬は冷めた視線を青年にやり、はぁーとこれ見よがしに息をつく。

「それはどーも」
「ナニその反応っ」

 真砂(まさご)はとたん片頬を歪め、けっと悪態をつく。

「つっまんねぇの。お前、最近反応の悪さがあの夜伽に似たんじゃね?」
「あいにくとこれは昔からでございます」
「あぁそうですか、そうだろうな。確かに雪の字ってば昔からつまんなかったもんなー! あっはっは、この俺さまの天性の才が羨ましかろう!」
 
 どうだとばかりに青年は胸を張ってみせる。羨ましいというよりは、何故そうも自分に自信があるのか非常に謎だ。こいつの思考回路がどうなっているのか、一度頭をかっさばいて中をのぞいてみたい。
 微妙に不穏当なことを考え、それから雪瀬はいましがた自分が歩いてきた方角へと視線をやった。

「――毬街に用?」
「ああ? いんやー、」

 彼方、煙雨に霞んで見える関所の門を手を掲げて仰ぎ、しかし真砂はあっさり首を振った。

「用あったけど。いいややっぱ」
「何それ」
「ふっふーん、今日は雪の字と一緒に帰ってやるって言ってるんよ」
「いらないいらない。願い下げ」

 雪瀬は手を振って一蹴し、あぜ道を歩き出す。

「ほんっとお前可愛くねぇよなぁ」

 それを真砂が悪態をつきながら追っかけてきた。

「男が男相手に可愛くてどうすんの」
「いいじゃないかね。減るもんじゃなしー」

 いや、減る。確実に何か減る。
 あぁこんな奴と一緒に帰るなんて本当に嫌だなぁと鬱々としてきたが、しかし方向が同じとあれば肩を並べて歩くしかない。この道は一本道なのである。雪瀬は諦めてどうせ半刻くらいだと自分を納得させた。

「秋の長雨ですねぇ」

 番傘から滴り落ちる雫を目を細めて眺めながら、真砂がしみじみと呟く。傘の柄を少し上げて、こちらのほうへと視線をやった。

「雪の字は最近どうお過ごしで?」
「別にどうも」
「桜サンと仲良くやってんの?」
「“仲良く”って言われてもねぇ」
「どこまで進んだ?」
「何の話」

 雪瀬は呆れ果てて真砂を見やる。だからこいつと歩くのは嫌なのだ。一歩青年の前に出ようとすれば、あちらも大きく一歩踏み出して隣から離れない。憮然となったこちらを真砂は珍獣でも観察するみたいに愉快げに眺めた。

「いやぁね、そろそろ心を開き始めたんじゃないかなぁって思ってたんよ」
「――……桜の話?」
「ちがーう、そこの君のお話」
「俺?」

 雪瀬は眉をひそめる。

「俺が誰に?」
「だから、雪瀬クンが桜サンに」
「……ええ?」
「だって心配そうに空見上げてたじゃん。雨降ってるけど大丈夫かなぁって、ああ桜ちゃんひとりで凍えてぶるぶるしてたらどうしようって」

 別にそこまでは思ってない。というか、桜が傘持っていないの見てたのか。

「ふふん、あの阿呆なくらいの打算のなさにゃー何びとも心動かすと思うんですがね」
「さぁ、どうだろうね」

 雪瀬は一笑して、止めていた歩を再開する。
 心を動かすも何も、別に普通だ。特別心を閉じている覚えもないし、かといって気を許しきったつもりもなかった。
 確かに桜はすべてに“打算”というものがない。向けられるのはいつもまっすぐな好意であり、感情だ。決して大仰ではないのだけど、彼女の心を映してくるくると変わる表情や一挙一動、言葉のひとつひとつに何も感じないと言ったら嘘になる。そのいとけなさにいつになく庇護欲をそそられているのも本当。だが、結局はそれだけだ。雪瀬にとって桜はとどのつまりが拾ってきた黒猫や小鳥と同等の存在なのである。表情や様子を見ているのが面白いからそばに置いてる、といった風な。

「ったく素直じゃないねぇ」

 真砂はくつくつと喉奥からせり出すような笑いをこぼして、水たまりをぴょんと飛び越える。

「そういうお前はどうお過ごしなわけ?」

 話を流す意味もあって、また少し気にかかることもあって雪瀬は別の話を切り出した。

「楽しんでんよー、毎日」
「さっき衛兵に聞いたんだけど。最近外出が多いとか」
「まぁね。俺歩くの好きだもん」
「毬街を?」
「あそこは女と酒がすばらしい」

 のらりくらりと交わす相手に埒が明かなくなって、雪瀬は嘆息した。

「なぁ、真砂」

 遠まわしな言い方はやめた。さっさと核心へ切り込んでしまおう。

「お前さ、最近毬街で何やってんの?」

 唐突に真砂は踏み出しかけた足を止める。それに伴って奇妙な間が落ちた。雪瀬は従兄の背中を見据える。ほどなく番傘がくるりと回り、真砂はこちらを肩越しに振り返ってにやりと不敵に笑った。

「お前みたいな馬鹿には、教えなーい」
「はぁ?」
「じゃ。せいぜい弔ってやれば? 俺の弟をさ」

 それまでとは若干異なる淡白さであっさりこちらの行き先を言い当てると、真砂は橘分家の大門をくぐっていった。







 昨夜の強風は丘に狂い咲く曼珠沙華を根こそぎさらっていってしまったらしい。あぜ道に散る赤い花びらを踏みしだきながら、花はどこまで流れていってしまったんだろうと雪瀬はとりとめもなく考える。
 昼から降り続けていた雨はその丘にたどりつく頃には上がっていた。西の空は焼けた赤に染まり、光を帯び始めた月が遠き東の山を昇る。葛ヶ原の北西、丘の上はさらに風が強い。眼下に広がる海から吹き寄せる風は微かに潮の香りがした。嗅ぎ慣れた夕風の匂い。

 ――たどりついたそこは墓地だった。
 しかし何百と集まる墓石のどれにもそこで眠る者の名前は彫られていない。何らかの事情で弔われることのなかった、弔われることを許されなかった死者だけがそこで眠るのだ。墓石の中から迷わずひとつを見つけると、雪瀬はその前で足を止める。少しの間、まだ新しいその墓石を眺めてから地面に膝をついた。
 橘颯音の厚意によって一度名の刻まれたその石は何者かによってまたその名を削り取られていた。“彼”を恨む者はまだ葛ヶ原でも多い。たくさんの罪のない命を奪って、挙句の果てにはもっとも近しい“友人”に討たれた少年。
 もう誰もその名を口にしない。
 誰も彼を思い出そうとはしない。少年はいともたやすく時間の流れの彼方へと消えた。

「たった五年なのにねぇ…」

 苦笑して、雪瀬はほてと組んだ腕に頬を寄せると墓石を眺める。

「――凪」

 懐かしさか、あるいはいとおしさをこめてその名を呼ぶと、雪瀬はふんわりあどけなく微笑む。そんな表情を、橘雪瀬はしない。そんな感情を向ける相手がもう現世にはいないからだ。雪瀬はそんな風にひとの前で微笑ったりしない。
 くゆりたつ雨上がりの甘い匂い、草の息吹と花の遺骸と、冷めやかなまどろみの中、雪瀬は鮮やかに散った曼珠沙華の赤を瞼裏に焼き付けるかのように目を閉じた。