一章、夢の痕
十、
忘れない。
忘れない。
俺は絶対にこの日を忘れない。
幼馴染の家への道すがら、道端に群れ咲く赤い花を見つけた。静かに燃える火炎と同じ色。色褪せ始めた景色の中であまりにも鮮烈なその色に思わず目を奪われた。
彼は足を止め、花の前にかがみこむ。朝露を宿したそれは艶やかに咲き綻び、おいで、と彼を呼んでいるかのようだった。惹かれるがまま彼は花に手を伸ばす。――何故だろう、その混じり気のない赤色を急にあいつに見せたくなった。あいつに。橘凪に。
――五年前。
頭上に広がるは、きみがまだ隣にいたころの蒼空。
*
衛兵の目を盗んで屋敷の大門をかいくぐる。
正面玄関は避けて左を曲がり、奥の棟。勝手知ったる何やらの勢いで上がりこみ、さて次は向かって右、最奥の部屋。陽光が燦々と射し込み、白い光に溢れた廊下を少年は騒々しく駆け抜けていく。
「雪瀬さまっ」
右、と足を踏み出したところで、追いついてきた男に背後から首根っこをつかまれた。ぐん、と視界が高くなる。
「うわっ、ちょ、おろ、……鹿野おろす!」
「だめです、雪瀬さまが家に戻ると約束してくださるまではおろしません」
「やーだー、おろしてっ」
「おろしません」
「鹿野嫌い。最低。意地悪っ」
思いつく限りの罵詈雑言を投げかけながら、雪瀬は力いっぱい足をばたつかせる。
「雪瀬さま暴れないでっ。……もう、」
男――鹿野(しかの)は今しがた釣り取った小海老みたいな暴れ方をする子供としばし格闘を試みた挙句、これ以上は手に負えないと彼を離した。べしゃりと雪瀬は地に下ろすと言うよりは落とされ、痛そうに尻に手をやる。その前に二本の大きな足が立ちふさがった。
「あのね、雪瀬さま。こんなところで何をしているんです」
鹿野は雪瀬の前に仁王立ちになると、眉間に皺を寄せて詰問する。
「我が分家にいったい何用で?」
「――教えて欲しい?」
しかし鹿野の威圧もどこ吹く風、雪瀬はぬけぬけと笑って尋ねてきた。自分と身の丈が二倍ほどは違う鹿野をほとんど仰ぐような格好になりながら見上げる。
「鹿野がすごく教えて欲しいなら、俺教えてあげてもいいよ」
「……残念ながらあなたさまにあるのは教える権利ではなく、答える義務です」
「その言い草、かわいくなーい」
「その台詞はそっくりそのまま返させていただきますね?」
にっこり笑顔で返すと、雪瀬はぽそりと「……石頭」と呟いた。
「聞こえてますよ」
「地獄耳」
「聞こえております」
怒りますよ、と脅してやれば、雪瀬はじゃあ怒って怒って、ところころと笑った。てんでからかわれている。ああもう、と鹿野は鈍く痛んできたこめかみに手をやった。それをじっと眺めていた雪瀬がおもむろに鹿野の横に回りこみ、ついついと袖を引く。
「あのね。何用も何もね、“しよー”なのです。“しよー”。おわかり?」
一瞬本気で意味がわからず、鹿野は眉をひそめた。頭の中で“しよー”がようよう“私用”という漢字に結びつく頃には、雪瀬は鹿野の手を逃れ、ひらりと身を翻している。
「わかりますかっ」
「わかりますよっ」
言い返しながら雪瀬は脱兎のごとく廊下を走り抜ける。さすがに追い回すのも疲れて鹿野ががくりと肩を落としていると、何の気まぐれだろう、角を曲がろうとしたところで雪瀬がつと立ち止まり、手に持った赤い花を鹿野のほうへ振って見せた。
「鹿野。綺麗でしょー?」
にっこりと、屈託なく笑う。陽光溢れる中、何だかとてもしあわせそうに。
そんな子供の姿を鹿野は眩しそうに眺め、今日だけですよ、といつもの言い訳をして走り去る雪瀬の後ろ姿を見送った。
*
たどりついたのは、屋敷の最奥の部屋だ。
雪瀬は襖を勢いよく開け放ち、
「なぎ」
と、息を弾ませて友人の名を呼ぶ。布団の上で半身を起こし、草紙を読んでいた少年が来訪者に気づいて顔を上げた。濃茶の髪に、濃茶の眸。橘一族の血を濃く引いた容貌は雪瀬と変わらなかったが、しかし肌の色だけが病的なまでに白い。少年は名を、橘凪(たちばな なぎ)、といった。橘分家の第二子である。
「騒々しいなぁ」
こちらの姿を認めると、凪は大人びた所作で微苦笑をする。それをうるさいの一言で一蹴すると、
「はい、お見舞い」
雪瀬は少年の頭に、持ってきた赤い花を乗せた。深色の眸をきょとんと瞬かせ、凪は落ちてきた赤い花を手に取る。
「なぁに、花?」
「うん、さっき見つけて、綺麗だったから。凪にあげる」
雪瀬は少年のかたわらに腰を下ろして言った。手の中の花をしばし眺めやってから、凪は不意に苦笑を漏らして花を雪瀬のほうへ差し向ける。
「雪瀬、この花の名前知ってる?」
「知らない。なに?」
「さぁ、なんでしょう」
「じゃあ凪は知ってるんだ? おしえて、おしえて」
「それくらい自分で調べなさーい」
せっつく雪瀬から逃れるようにして凪は立ち上がり、すすきの生けてある花瓶に無造作にそれを挿し入れた。朝露に濡れてゆるりと咲き綻ぶ赤い花は嫣然と部屋に映える。
「手出して、雪瀬」
「うん?」
凪の意図をはかりかね、雪瀬はいぶかしげな表情になりながら、手のひらを出す。凪は雪瀬の手をとると、枕元のたらい桶にかけられていた布をとって、手のひらをぽんぽんと叩くようにして拭いた。不思議そうにした雪瀬の手を下ろすと、布をたらい桶で洗いながら、「この花ね。毒があるんだよ」と言う。
「毒?」
「そう。根っこのほうにね。食べなきゃ死にはしないけど」
気をつけなよー?と凪は優しく苦笑まじりにたしなめた。
そっか、そんなに危ない花だったんだ、と雪瀬は考えて、改めて水差しに生けられた花を見やる。確かにその鮮烈なまでの赤色はある種の毒々しさをかもし出しているようにも見えた。
しかし知らなかったとはいえ、毒の花をお見舞いにもってきてしまったとは。見ようによっては嫌味だよなぁ、と雪瀬はううんと唸る。まぁ凪はそんなこと思わないけどさ。
「あ。凪、」
雪瀬は軽く腰を浮かせて、布団に戻りかけた少年の袖を引いた。
「具合のほう。どうデスか?」
「――変わりませんねぇ」
「……まずいの?」
「まずいのはいつもだよ」
他人事のように言って、凪は肩をすくめる。うん、と雪瀬は少年の袖をつかんだまま、目を伏せた。
雪瀬と同い年であるこの幼馴染は昔から身体がひどく弱かった。心の臓に疾患があるとかで激しい運動ができない。一日中部屋にいることが多く、それでも今のような季節の変わり目には微熱を出した。
枕元に置かれているたらい桶は少し前まで分家の女中が凪を看病していた名残であろう。熱が引いたらしいよと兄から聞いて駆けつけたのだけども、やっぱりまだ悪かったのか。
「あれ。雪瀬今日はずいぶんとおとなしいね」
「べ、つにいつもだっておとなしいもんっ」
何だ、ひとをお喋り鳥みたいに。
「そういやさ、藍がそろそろ帰ってくるって聞いたけど? 迎え、行かなくていいの?」
「あー、うん。そろそろ行こうかなって思ってたんだけど。凪、来る?」
訊いてしまってからしまったと思った。先ほど具合が悪いと聞いたばかりだったのに。案の定凪は微苦笑を口元に浮かべると、緩く首を振った。
「雪瀬、ひとりで行ってきて」
「……ん」
「それでさ。俺のぶんもおかえりなさいって言ってきてあげて?」
こちらの苦い胸中をなだめるように続けられた言葉に、雪瀬はしゅんとなりかけていた顔にぱっと笑みを綻ばせる。うんっとうなずいた。
「なぁ、凪ってずっと具合悪いの?」
疲れた様子で布団に横になってしまった幼馴染を気遣い、雪瀬は早々に屋敷を出た。しかしまだ藍たちが来るまでには時間がある。どこで暇つぶししようかなぁと分家の門をくぐりながら考えていたとき、ちょうど門の番をしていた鹿野を見つけたのだ。
槍を持って立っている鹿野の隣にしゃがみこみ、雪瀬は足にすりよってきた野良猫を抱き上げる。その頭にぽふんと顔を乗せつつ、「……最近ずいぶん悪くなってきた気がする」と呟いた。
「そうですね。俺も分家の衛兵になってからそんな長くないんでよくわからないんですけど、」
鹿野はのんびりと澄み渡った青空を眺めながら口を開く。
「医者の瀬々木さまなら足繁くいらっしゃってますね」
「そう……」
「凪さまは何かご病気なんですか?」
「あーうん。もともと身体弱いんだ」
猫の肉球をぷにぷにと手で押しながら、雪瀬ははぁと深くため息をついた。
「俺、お医者さんになりたい。それで凪の身体治せたらなぁ」
本当に、幼馴染の身体が治せるなら雪瀬は医学でもなんでも学ぶのに。そして彼を助けてあげることができたら。体の負担を少しでもなくせたら。
「雪瀬さまは凪さまが好きなんですねぇ……」
「うん、好き。大好き」
しみじみと呟きを漏らした青年に笑って答えると、雪瀬は少し考え込んでから隣に立つ青年を仰ぐ。
「鹿野も嫌いじゃないよ」
「おや。それはありがたいですね」
青年は苦笑し、頬をかいた。
その横顔に赤い陽が射し始める。陽が傾いてきたことを見取って猫を下ろすと、雪瀬は立ち上がった。
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