一章、夢の痕



 十一、


 にわかに衛兵が騒ぎ始めたのがわかった。
 窓枠に腰掛け、ぷらぷらと足を振っていた雪瀬はぱっと顔を上げる。来た、と呟き、窓枠から身軽な所作で地面に降り立った。

 ほどなく衛兵たちが閂を外し、関所の大門が軋みを上げて開かれる。成人男性の身長のさらに数倍ほどある門だ。その下に現れたふたつの小さな人影を見取って、雪瀬はぱあっと笑みを綻ばせる。

「藍!」

 衛兵に通行手形を見せている彼らに駆け寄り、雪瀬はぴょんとそのうちの少女のほうに飛びついた。

「おかえりー!」
「きゃ、……きーちゃん!?」

 藍と呼ばれた十歳ほどの少女は突然の少年の登場に目を瞬かせる。藍だ藍だ、と飼い主を見つけた子犬さながらはたはたと尻尾を振っているような様子の雪瀬に苦笑して、その背中に手を回す。

「半年ぶりねぇ。背、大きくなった?」
「なった、けど、」

 いまだ仰がなければ目線をあわすことのできない少女との身長差が微妙に悔しい。うぅと表情を曇らせ、まだ抜かせない、と雪瀬は嘆息をこぼす。

「あら、きーちゃんたら私よりおっきくなりたいの?」
「なりたい。ぜーったい、なるっ」

 拳を握って宣言すれば、藍はくすくすと微笑って雪瀬の頭を撫ぜた。凪や兄とは違う、少女の細い指先に髪を梳かれるのはくすぐったい。懐こい子犬のように目を細め、それから雪瀬は遅れて大門から出てきた男を振り返った。

「黎(れい)」

 黎明の黎。黎、とはもともと夜の黒を意味する言葉である。その名にふさわしく、漆黒衣に全身を包んだ男がついとこちらへ顔を上げる。ほどなく男は薄く口元に笑みを載せた。

「相変わらずだな、橘雪瀬」
「お前もね。いつも真っ黒」

 暑くない?と問えば、黎は何がおかしかったのか、くつくつと喉を鳴らして嗤った。検分のために衛兵に渡していた太刀を受け取ると、それを腰に佩く。

 この流れ者の男が最初に葛ヶ原に現れたのはもう何年も前のことだ。何でも藍とふたりで諸国を旅しているのだという。男の職業は知らないが、商人のようなものなのだろうか。黎と藍は半年や一年に一度、葛ヶ原に現れては少しの間身を休め、またどこかへと消えていくのだ。

 月の色にも似た銀髪と、季節を問わず身にまとっている黒衣、それから右腕に残された禍々しい焼痕、男の風貌はおのずと目を引いた。若干の近寄りがたさはあるが、男には深い教養があり、諸国を回りながら培われた知識、優れた見識は自然男の周りに多くのひとを集わせた。
 雪瀬もまた、そのひとりである。と言っても雪瀬の場合は、単に男の持っている太刀や、葛ヶ原の者とは異質な独特の空気に興味を引かれていただけの話であるが。

「なぁ黎、今回はどこ行ってきたのー?」
「藍に聞けばよい」
「――どこ行ってきたの?」
「都の近く。ふふーおみやげもあるよ。ねぇねぇきーちゃん知ってる? 中央の南殿にはすごく綺麗な桜の樹があるんだよ。行った頃、ちょうど花の盛りで。雪みたいに花、散ってたの。隣には橘の樹もあって」
「たちばな?」
「そう、常緑の橘。おめでたい樹なんだって」

 へぇぇと雪瀬は目を輝かせる。
 一年に一度、新年の挨拶のために都に足を運んでいる父親や兄の颯音とは違って、雪瀬はほとんど葛ヶ原を出たことがなかった。見たことのない景色、噂に聞く豪華絢爛な都へと思いをはせるのは楽しい。胸がわくわくした。

「いいなぁ、俺も行ってみたいなぁ」
「いつか行こうよ、きーちゃんも。ね?」

 少女にふんわりと微笑いかけられ、雪瀬はうんっと首を振る。それからもうずいぶんと先を行ってしまった黎を追いかけ、「なーなーなーなー」と男の黒衣の袖をついと引いた。

「やくそく。剣術教えて?」
「――そんなものいつした?」
「半年前、別れるとき」
「忘れた」
「忘れないでよ」

 おしえておしえて、と言い募る雪瀬に男は苦笑して、仕方ないとばかりに肩をすくめる。

「ただし手加減はしない。それでよいなら」
「いいよ。望むところ」

 雪瀬は男を仰いで屈託なく微笑む。

「……今度な」

 口元に先ほどの微苦笑の名残を載せたまま、黎は雪瀬の頭を軽く手の甲で叩いた。





 黎と藍を歓迎するささやかな宴は分家で執り行われた。
 宗家の当主である八代とは異なり、分家の家を継いだ高早(たかはや)は温厚かつ親しみやすい人柄で知られている。高早は葛ヶ原に訪れた旅人を家に招いては、諸国の話を聞くことを楽しんだ。こと、黎は彼のお気に入りであったらしい。葛ヶ原に帰ってくるたび、分家の客間を貸し与え、日がな語り合った。


「かんぱーい!」

 盃をつき合わせ、雪瀬と凪と藍は半年ぶりの再会を祝う。
 菊の花の浮かべられた酒はほのか甘く、飲みやすい。藍が三人だけのお祝い用に持ち込んだ酒である。
 年の頃が近かったこともあり、幼い時分から三人はことのほか仲がよかった。
 藍は黎に連れられて、葛ヶ原からいなくなってしまうことも多かったが、久方ぶりに帰ってくれば、こうして必ず三人で集まってお祝いをする。時間だけを見れば決して長くないかもしれないけれど、雪瀬は藍と凪と三人でいられる時が何より好きだった。

「あのね、これおみやげ」

 朱色の盃を足元に置くと、藍は背後にこっそり隠し持っていたらしい包みを引き寄せた。薄い包み紙を開くと小さな袋が出てくる。その口を閉める紐をしゅるりとほどいて、藍は中を開いてみせた。
 入っていたのは、薄紅や白、黄色などの色とりどりの飴のようなものだった。けれど飴にしては形が面白い。夜空に浮かぶ星のようにとげとげしている、なんだか不思議な形だ。ひしめきあう星のひとつをつまみ上げて、雪瀬はそれを眼前に持ってきた。

「藍。これなぁに?」
「金平糖っていうの。異国の飴。甘くておいしいよ」

 藍が包みから取り上げたひとつを雪瀬の口に放り込む。雪瀬は目を瞬かせた。舌を転がる飴は本当に甘い。砂糖の塊みたいだ。
 雪瀬はきゅうっと目を瞑り、あまいあまいと騒ぐ。――実は雪瀬はどちらかというと甘いものが苦手なのである。

「へぇ、そんなに甘いの?」

 煎茶で無理やり飴を流し込んでいると、凪が興味を引かれた様子で金平糖を口に入れる。とたん、うわ、と口元を押さえた。

「確かに甘い」
「……おいしくない?」
「おいしいけど。甘い」
「あまいあまい。すっごく甘い」
 
 凪の横からひょいと顔を出して雪瀬が言い連ねれば、藍は袋に視線を落とし、せっかく買ってきたのに、と呟く。

「いいもの。きーちゃんにはもうあげない」

 頬を膨らませ、少女はぷいとそっぽを向いてしまった。慌てたのは雪瀬である。この少女は一度機嫌を損ねるとなかなか心を開いてくれない。どうしよう、と考え込んで、けれどどうにもならず、凪のほうへ助けを求めるような視線をやる。

「自業自得」

 しかしこの薄情な幼馴染は小さく笑って盃に口をつけた。頼りの凪にも見捨てられてしまい、雪瀬はとたんに心細くなってしまう。うー、と呻きとも嘆きともつかない声を漏らしてうなだれた。しゅんと肩も落ちる。

「……ふ、」

 それを横目で見ていた藍が小さく吹き出した。耐え切れなくなった様子でころころと鈴のような笑い声を転がす。な、何で。何で笑うの。

「きーちゃんは素直で可愛いなぁ」

 ぱちくりと目を瞬かせた雪瀬の頭を撫ぜ、藍は褒めているのだかからかっているのだかわからないことを言った。可愛いなんて藍に言われてもちっとも嬉しくない。むぅと雪瀬は眉をひそめて、凪のほうを振り返る。幼馴染は気にするなとでもいうように、そっといつものように優しい微笑い方をすると、金平糖を口に入れた。

 夜が更け、夜半過ぎになるまで三人の笑い声が途切れることはなかった。