一章、夢の痕



 十二、


「凪―。藍はー?」

 お茶を持って帰るついでに凪の部屋で眠っていた白鷺を捕まえて戻ってくると、濡れ縁に少女の姿はおらず、幼馴染がひとりで金平糖をつまんでいた。

「厠、行ったよ。――扇連れてきたの?」
「うん、扇にもこんぺーとー食べさせようと思って」
「金平糖ね」
「こんぺーとー」

 ううむ、異国っぽい発音だからか、言いにくいのだ。雪瀬は顔をしかめ、眠っていたのを起こされたせいで気が立っている扇をどうどうとあやす。だが、扇はそれすら気に食わないのか嘴で雪瀬の指を噛んできた。

「いたっ」
「もー扇。ひと噛んじゃだめ、っていつも言ってるでしょう」

 雪瀬の手から扇を抱き上げ、凪はばたばたともがく白鷺の首筋を優しく撫ぜる。ほどなく白鷺はおとなしくなり、凪の腕に身をゆだねるようにした。春先に怪我をしていたところを凪に拾われた白鷺は、凪にとても懐いているのだ。仲むつましげな白鷺と凪とを見やって、雪瀬はちぇとつまらなそうな表情になる。

「ほら扇。こんぺーとー」

 残りひとつになった金平糖を包みから取り出して扇の嘴あたりに差し出す。だが扇はちらりと金平糖を一瞥してから、すぐそっぽを向いた。

「いらないってさ」
「え、何で」
「鳥って金平糖は食べないんじゃないの」

 凪は苦笑してうとうとと瞼を下ろし始めた白鷺を膝の上に乗せる。そっかー、と残念な気持ちを滲ませながら呟き、雪瀬は濡れ縁に腹ばいになって腕に顔を乗せた。扇につられてしまったのか、抗いがたい眠気に襲われ、ゆるゆる目を閉じる。

「雪瀬、こんなところで寝ると風邪ひくよ」
「平気だよ。藍がいて、凪いて、扇もいるし、……俺“シアワセ”」

 えへへーと頬を緩ませて雪瀬は温かなまどろみに身をゆだねた。



 ――無情かな、事件とは得てしてこのような時に静かに口火を切る。
 何の前触れもなしに。残酷に。







 ひ、と男はかすれた悲鳴を上げる。
 思わず、一歩二歩とあとずさりをした。だが、少しも行かないところで背中が壁に当たる。逃げ場がない。男はせわしなく視線を彷徨わせ、がちがちと合わない歯の根を打ち鳴らした。
 足元に置かれた蜜蝋の明かりが相対する青年の横顔を映し出す。見知った顔だ。もう一年ほど分家の衛兵として一緒に仕事をしている。男は青年と何度も言葉を交わしたことが合ったし、酒を酌み交わしたこともあった。
 ――その青年に今刀を向けられている。

「どうして、」

 信じられない、といった風な呟きが口をついて出る。青年は悲痛そうに表情を歪め、小さく首を振った。

「悪い、俺もこんなことしたくないよ。でも、あなたは見てはいけないものを見てしまったんだ」
「見てはいけないもの?」

 男は足元に散らばる草紙へと視線を落とす。男が見たのは、分家の書庫にうずくまり、手にとった草紙に墨を引いている青年の姿だった。何をしているんだ、といぶかしんで青年の背中に声をかけた。それだけだ。それだけで次の瞬間、刀を向けられたのだ。
 刀を突きつけられてなお、男にはいまだ自分の置かれた状況が理解できていなかった。わけがわからない。確かに大切な書物を墨で汚せばそれ相応のお叱りは受けるだろう。けれど、その程度だ。刀を持ち出すなど尋常じゃない。

「……わかった。言わない。このことは決して誰にも言わないから、だから、――鹿野」

 男は何とか青年の気を落ち着かせようと慣れ親しんだその名を呼ぶ。刹那、温厚な青年の眸がかっと見開いた。構えられていた刀が残像を残してぶれ、そのときには男の急所に向けて大きく薙がれている。

「やめ……、」

 やめろと言い終える前に、振り下ろされた刀が身体を斜めに裂き、鮮血が吹き出す。均衡をなくして男の身体が床に倒れる。虚ろな眸は硬質な硝子玉と化し、蜜蝋の照り返しを受けてぬらぬらと光るだけ。男は絶命していた。


「……ぁ、はぁ、……」

 肩で息をしながら、鹿野は今しがた自分が殺めた男を見下ろす。
 重くなった刀の切っ先を床に付け、頬に付着した血をぬぐった。ひとを殺してしまった。罪悪感が胸を塞ぎ、四肢ががくがくしてくる。立っていることすら困難になって、鹿野は刀に取りすがった。
 刀の柄に額を押し当てながら、でも仕方なかったのだ、と己に向けて言い聞かせる。男を殺めなければ、自分が殺されてしまう。それは嫌だ。それは怖い。

 鹿野は刀を鞘に納めると、床にかがみこむ。倒れ伏した男の下敷きになってしまった書物を引っ張り出して、蜜蝋にかかげた。血がべっとりくっついているせいで内容は読めない。――読めない。ならば大丈夫、これでよいのだ。鹿野は淡く微笑った。

 かた、と背後の襖が揺れたのはそのときだ。
 鹿野はぎくりとして書物を取り落とす。振り返った鹿野の血まみれの姿を見て、そこに立っていた少女は目をみはった。
 刀の柄を握ったのは無意識だった。とにかく彼女の口を塞がねば、そう衝動めいて思う。だが、神というものがいたとしてかのひとは再度鹿野に味方してはくれなかった。
 鹿野が刀を抜くよりも早く少女が細い悲鳴を上げたのだ。絹を裂くようなその声に、座敷にいた者たちが駆けつけてくる。鹿野は舌打ちし、刀を腰に佩いてその場を逃げ出した。