一章、夢の痕



 十三、


 ぽこぽこと木魚の音が単調に続いている。
 経を読む僧の前には、先日分家の書庫で惨殺された男の棺があった。

 座敷に集まった者はみな黒い羽織を着込み、深くうなだれている。男の突然の死を悼み、涙ぐんでいる者も少しいた。凪は目を伏せ、小さく息をつく。
 
 分家の衛兵である男が書庫で殺されたのは先日の、黎と藍を歓迎する宴が開かれていた日の夜明け頃のことだった。厠の帰りに寝惚け眼で歩いていた藍が物音を聞きつけ、書庫を覗き込んだところ、死体とそのかたわらにたたずむ男を見つけたのだという。
 男――鹿野はその場から逃げおおせ、いまだに見つかっていない。彼が血まみれであったこと、それから藍に見つかってすぐさま逃げ出したことなどから考えると、男を殺したのは鹿野で間違いないだろう。宗家側もそういう結論に達したらしい。明晩、葛ヶ原全土の関所の封鎖と、鹿野を見つけた者は宗家に差し出すように、との命(めい)を出した。
 分家の当主である高早は鹿野を犯人だと決め付けることに異議を申し立てしたらしいが、それは八代によって一蹴されてしまったらしい。いくら同じ橘姓を持っているとはいえ、分家の格は宗家のそれにははるかに劣る。宗家の当主がみずから決めた命をくつがえせるわけがなかった。
 
「しかし、何故に書庫などで……」

 背後からひそりと囁く声が聞こえ、凪は肩越しにちらりと会話のぬしへ視線をやる。集まっていた長老のひとりが顔をしかめながら、もったり口を開いた。
 
「橘が保管していた大切な書物もいくつか血で汚れて読めなくなってしまったのだとか」
「だから宗家の当主さまがご立腹なのか」
「かもしれぬ」

 耳打ちしあう声を見咎めたのか、高早が持っていた扇子で軽く床を叩く。その音に驚いたのか、それきりひそひそ声は途切れた。
 あたりを軽く見回して、雪瀬はこのことを知っているのかな、と凪は当分の間分家への立ち入りを禁じられてしまった幼馴染のことを考えた。雪瀬が鹿野と仲良くしていたことは凪も知っている。あの生意気なようで、どこまでも優しい気質を持っている幼馴染のことだ、いらぬ心配をしてしまわないといいのだけども。
 凪は小さくまたため息をついて、物言わぬ棺を見つめた。







「大丈夫? 藍」

 俯き、固く口を閉ざしている少女を心配して、凪はひょいと少女の顔をのぞきこむ。衛兵の実家で開かれた葬儀の帰り道のことだった。

 もともと肌の白い少女であったが、今その顔は血の気が失せ、蒼白に近い。何せ、男が血を流して倒れているところを発見したのは藍なのである。しかも藍は血まみれになった鹿野の姿まで見ている。平常心でいろというほうが無理な話だ。

「だいじょうぶ……」

 藍は細い首を振って、弱々しく微笑う。伏せた睫毛が少女の目元へとうっすら影を落とし、彼女の持つ雰囲気をいつも以上に儚くみせた。触れれば壊れてしまうんじゃないかと錯覚するほど。
 吹き寄せる冷たい風に藍は微か肩を震わせた。少女の様子を凪は悲しそうに目を細めて眺め、そっと、壊れないように本当にそっとその身体を引き寄せた。大丈夫、大丈夫、とその背を撫ぜる。彼女の身体は冷え切っていた。凪は藍を抱きしめる。かたくなに強張っていた身体から徐々に力が抜け、藍はしまいには凪の肩に顔をうずめた。

「なぎちゃん、」
「うん、なぁに?」
「……ありがと」

 耳朶をくすぐるような囁き声が落ちる。うん、と凪は花の香のする少女をもう一度抱きしめた。



「月が明るいね」

 凪の手を引き、風にかき乱される髪を押さえながら、藍は空を仰いだ。つられて凪も頭上に目をやる。
 真っ暗な夜空には白い半月が架かっていた。皓々と照る光はどこか冷たい。夜空を彩る秋の星々を眺めながら、いつの間にかもうずいぶんと秋も深まったな、と凪は思う。そうしているうちに秋も去り、葛ヶ原に長い冬がやってくる。

「あ、虫の声」
「ちんちろ、ちんちろ。何だろ、鈴虫?」
「松虫じゃない?」

 草の間から聞こえてくる虫の声に耳を傾け、凪は目をつむった。いい音。

「きーちゃんも聞いているかなぁ」
「そうだね」

 そして願わくば、鹿野のこと、落ち込んでいないといい。
 月へと祈りながら凪は少女と繋いだ手を振って歩き出す。羽音が打ち鳴り、頭上から白鷺が現れたのはそのときだった。

「あれ? 扇?」

 凪はきょとんとして肩に止まった白鷺を見やる。春頃、怪我をして樹の根元にうずくまっているところを拾ってきた白鷺だ。足の怪我が治るまでとそばに置いていたら、いつの間にか懐いてしまっていまだに凪の部屋に居ついている。今日も部屋に置いてきたはずなのだが、勝手に出てきてしまったんだろうか。

「なぁに、どうしたの?」

 きぃきぃと騒ぎ立てている白鷺を凪は不思議そうに眺める。最初は寂しくなって追いかけてきたのかと思ったが、なんだか尋常じゃない。まるで今この瞬間に危険が迫っているとでもいうような、そんな鳴き方だ。
 
「扇ちゃん?」
「うん、なんかおかしいんだ」

 凪は白鷺を落ち着かせるように首元を指で撫ぜる。けれど扇は鳴き声を激しくするばかりで、しまいには嘴で凪の袖をくわえ、くいくいと引っ張っていこうとする。
 
「もう何、あお、」

 扇、と言いかけて、凪はふとあたりの異変に気づいた。
 さっきまで絶え間なく鳴いていた虫の声が途切れている。夜闇を覆うのは奇妙な静寂。あたりを見回し、凪は鼻腔を刺すような異臭に顔をしかめた。
 
「――誰か、いるの?」

 まっすぐ闇を見据え、問う。
 近くの茂みががさりと大きく揺れた。凪は藍の手を引いて自分の背に押しやると、すっと印を組む。茂みから人影が顔を出した。月光に照らし出されたその顔を見て、凪とそして藍は息をのむ。――鹿野だった。
 あの夜からずっと葛ヶ原を徘徊していたのだろう。その衣にはいまだに乾いた血が赤黒くこびりついており、それがあたりに鉄錆にも似た臭いを放っている。何日も橘の衛兵に追い回され、身を潜めていたせいか、男の眸はどんよりと濁り、顔はやつれていた。

「鹿野……?」

 変わりきった青年の姿に凪は目をみはる。藍を背に庇いながらためらいがちに呼びかけてみると、だらんとしていた肩が小さく震え、鹿野はぎこちない所作で顔を上げた。

「凪さま……」

 紡がれた声はかすれていて、ほとんど呻き声といってよかった。鹿野はうっすら眸に涙を浮かべ、たすけてください、と呟く。

「凪さま。たすけて……」

 こちらに歩み寄ろうと一歩を踏み出しかけ、鹿野はふらりと地面に崩れ落ちた。

「鹿野、」
「だめ。凪ちゃん」

 鋭い藍の制止を無視して、凪は鹿野に駆け寄る。その肩に手を添え、「大丈夫?」と問いかければ、鹿野は首を振ってたすけてくださいとうわ言のように繰り返した。

「凪さま。俺、おれ、殺されてしまう……」
「大丈夫だから、鹿野。宗家のひとに素直に名乗り出よう? 俺も一緒についていってあげる。一緒に弁明してあげる」
「嫌、です……!」

 鹿野はわななき、ぶんぶんと首を振った。いやだいやですこわいこわいと青年は幼子のように言い張り、凪の手を振り払って身を縮まらせる。その様子は己の罪に恐れおののいているというよりは、何か、“罪”などという抽象的なものではない、もっとはっきりした別の何かに怯えているように見えた。

「いやです、凪さま。俺殺されてしまう、」
「鹿野。でも隠れてたって何もならないよ。ね、俺もついて行くから」

 凪はそう諭して、鹿野の腕を引き上げる。刹那、青年の眸に先ほどよりも激しい恐怖の色が閃いた。獣じみた咆哮を上げ、鹿野は凪の手を払うと、腰に佩いていた刀を抜く。反射的に身を引けば、薙いだ刀が凪の右肩を浅く切った。
 後ろに飛びすさりながらすばやく印を構えるも、一瞬次の行動を迷ってしまう。だって鹿野は、凪の知り合いだ。殺すことはできない。――その躊躇が仇となった。鹿野が力任せといった風に刀を振る。寸分たがわず首元へと走った刀に凪は身をすくめた。
 やられた、と思った。そう、俺は。本当はここで死ぬはずだったのだ。ここで決して長いとはいえない生涯を終えるはずだったのだ。けれど、運命の糸は絡まり、ほつれ、間違った結末を導き出した。頭上から舞い降りた白鷺が凪の前に飛び出たのだ。

 あ、と怯えた声を上げたのは鹿野だったか、それとも自分だったのか。
 刀が振り下ろされ、無数の羽が散る。一筋の鮮血を夜闇に流しながら、白鷺はぽてりと地に落ちた。緩やかに地面を広がっていく血を眺め、凪はひとつ目を瞬かせる。あおぎ、と呟き、白鷺に触れた。まだ温かい。何が起こったのかよくわからないまま、凪は白鷺の身体を抱きかかえる。

「う、う、」

 鹿野はくしゃりと表情を歪め、短く息をこぼした。地に切っ先を付けた刀が引きずられるようにして持ち上げられ、構え直される。

「凪ちゃん!」

 悲鳴じみた叫び声を上げ、藍が前に飛び出した。鹿野の薙いだ刀の残像を凪は呆けた表情で追う。
 ――もう何かを失うのはさんざんだった。ごめんだった。
 凪は男を見据え、印を切った。今度は、ためらいなく。




 虫がまた鳴き始める。
 風が草を揺らし、頬を撫ぜた。凪はその場にへたりと座り込む。
 目の前には左胸を風に貫かれて絶命した男が横たわっていた。白鷺の血と重なるようにして地面に広がっていく血に手をつけ、凪は震える吐息を飲み込んだ。

「どうしよう……」

 今にも泣きそうな声が口をついて出る。

「俺、ひと、殺しちゃった。ひと、殺しちゃった……」

 胸のうちへとせり上がってきたのは、純粋な恐れだった。ひとの命を奪ってしまった。それも知らないひとじゃない。毎日顔を合わせ、言葉を交わしていた青年を殺してしまったのだ。

「違う。凪ちゃんは私を守ったんだ」

 呆然と男の骸を眺める凪のかたわらにかがみこみ、藍は確然と言い切る。
 確かに鹿野は藍に襲い掛かろうとしていた。凪はそれを防ごうとしただけだ。とはいえ、ただ防ぐというには放った風があまりにも強すぎる。男のぽっかりあいた左胸を見つめ、凪は小さく首を振った。
 凪は風を操る風術師だ。橘一族の者として幼い時分から修練を積んだ身。いかなるときも手元を狂わせたりはしない。凪は最初から男を殺めるつもりで風を放ったのである。扇を目の前で殺されたから、だから鹿野も同じ目に合わせてやろうと――。
 自分の考えにぞっとする。それはあまりに罪深いことだった。民を慈しみ、愛する役割にある橘の者が己の私情でひとを殺したなど。皆に知れれば、どうなるのだろう。どうなってしまうのだろう。凪はうずくまって頭を抱える。

「凪ちゃん」

 静かな、決意に満ちた声で藍がこちらを呼んだ。立ち上がって、藍は男の死体の脇に転がっていた刀を拾い上げる。きゅっと唇を引き結び、おもむろにぶらんと地面に投げ出されていた男の腕に刀を振り下ろした。けれど、刀を扱うことに慣れていない藍では一撃で男の腕を斬り落とすことはできない。途中の骨で引っかかり、藍は刀を鋸のように引いたり押したりしながらなんとか腕を斬った。そうして今度は反対の腕を、足を、首を、より分け始める。凪はぎょっとして藍の奇行を眺めた。

「死体、隠そう。こうすれば運べる。分けて埋めれば見つからない」
 
 藍はいったん刀を地面に置くと、凪に視線を合わせるようにしてかがみこむ。その額には汗が浮かび、衣は返り血で真っ赤に染まっていた。

「いい? 凪ちゃんは何もしてない。鹿野という男のひとは死んでない。これは私と凪ちゃんだけの秘密」

 秘密だよ、と微笑み、藍はこちらの身体を抱き寄せる。ひとの温もりに包まれ、強張っていた身体の力が不意に抜けた。痛みや後悔や恐怖がないまぜになり、頭がぐちゃぐちゃになる。凪は少女の首に顔をうずめ、泣き出した。