一章、夢の痕



 十四、


 宴の晩は疲れていつの間にか濡れ縁で眠りこけてしまったらしい。気がつけば、雪瀬は宗家の自分の布団の上にいた。どうやら兄の颯音が自分を背負って家に連れて帰ってくれたらしい。
 うー、と眠い目をこすりながら、顔を洗い、着替えを済ませ、いつもの日課とばかりに分家に遊びに行こうとすると、くだんの兄に首根っこをつかまれた。

「雪瀬、どこ行く気?」
「凪のとこ」

 別に隠し立てする必要もなかったので素直に答えると、そう、と颯音は思案げに目を伏せた。珍しい。いつもの颯音なら嫌味のひとつふたつを言ったあと、微笑って外に送り出してくれるのに。どうかしたのだろうか、と雪瀬は眸を瞬かせる。肩越しにいぶかしみまじりの視線をやると、ほどなく衿にかけられていた手が離され、颯音は腰をかがめてこちらに目を合わせるようにした。

「雪瀬。これからしばらく分家に行くの禁止。ついでに家を出るのも禁止」
「……なんで?」
「何でも。わかった?」

 突然の言葉に雪瀬は反論の声を上げたが、しかし颯音はただ首を振るだけで取り付く島もない。横暴だ。説明くらいちゃんとしてほしい。
 雪瀬がむっとなって口を閉ざしてしまえば、

「返事は?」

 と静かな、けれど威圧感を持った声が投げかけられた。でもこれくらいで怖がって折れたりはしないのだ。

「……」
「雪瀬、返事」
「……、」

 寸秒だんまりを決め込んでみたが、前言撤回。やっぱり怖い。雪瀬はしぶしぶ息を吐き出し、わかった、と小さく呟いた。



 それから数日、雪瀬は宗家の屋敷の中で一日を過ごすことを余儀なくさせられた。かねてから父親との折り合いが悪い雪瀬は宗家にいたところで楽しいことなど何もない。どころか、外に出て行っていれば顔を合わすこともなかった父とたびたび出くわしてしまい、そのたびに粘着質な嫌味を言われた。

 『風術を持たない子』『とんだ愚鈍』

 父はかたわらに娼婦を連れながら顔を合わせるたび雪瀬を罵った。――傷つくにはもうそれらの中傷には慣れきってしまっていたのだけども。やはり自然と気分が沈んでしまうのはどうしようもない。
 結局雪瀬は日がな、自室にこもって草紙を読みながら過ごした。凪や藍がいない毎日はひどくつまらない。



 すでに十回は読み返した草紙を閉じると、雪瀬ははぁと物憂げな息をついた。兄に碁か将棋の相手をしてもらおうかなぁと思うのだが、何故かここずっと颯音は忙しそうにしていて屋敷に戻ってこないことが多い。言葉の端々で誰かが死んだらしいことを聞いた。どこの誰かはわからなかったけれど、そのせいで忙しいのだろうか。

 仕方ないから柚とでも遊ぼうかなぁと思って、雪瀬は障子を開ける。
 濡れ縁に出て下駄を履いていると、足元をふわりと何がしかが撫ぜた。黒いふっさりした長い尻尾、――黒猫だ。あークロ、と相好を崩して、雪瀬は猫に手を伸ばす。だが、黒猫はするりと雪瀬の腕を抜け出すと、しなやかな動作できびすを返した。

「あ、待て、」

 せっかく久方ぶりにあった“生き物”に置いていかれてしまうのは何だか心細い。ここ数日で胸に澱のようにたまった寂しさも手伝って、雪瀬は走り出した猫を追った。

 猫は機敏な動きで屋敷の庭を突っ切っていく。花を踏み越え、草の根を踏みしだき、やがて屋敷の端にたどりつく。宗家のお屋敷はぐるりと周囲を白壁で囲んでいるのだが、その側端の割れて穴になった箇所を猫は知っていたらしい。小さな肢体が穴に滑り込み、最後に黒い尻尾がするりと外に吸い込まれて消えた。

「クロー」

 雪瀬はぱたぱたと地面を叩き、猫を呼んでみる。反応はない。地面に頬をつけ、穴から顔をのぞかせると、外の草むらへ駆けていく猫の後姿が見えた。何やら猫にまで見捨てられてしまった気がして、雪瀬は穴の前でしゅんとなる。いいなぁ俺も外出たいなぁと思いつつ、目の前に立ちはだかる壁の高さにそれも無理か、とため息をこぼした。
 袴のほこりを払って立ち上がり、もう一度恨めしげに猫が消えていった穴へ目を向ける。そこでふと雪瀬は考えた。――この大きさなら、もしかして自分も通り抜けられるのではないだろうか。閃き、雪瀬は穴に頭を突っ込んでみる。おお、入る入る。やった、と呟いたところで砂ぼこりをもろに吸い込んでしまい、けほけほ咳き込みながら手で土をかいた。一息に頭を振るようにして顔を出すと、視界がぱっと開かれる。んーんーと身をよじって無理やり身体を引き抜き、雪瀬は外に出た。



「あれ?」

 数日振りの外を満喫するでもなく、雪瀬はその足で分家の屋敷に向かう。だが、屋敷の門の前でささやかな“異変”に気付き、雪瀬は首を傾げた。
 普段、ひとりかふたりがせいぜいくらいの門番が今は五、六人立ち並び、険しい表情で屋敷の側壁を行ったり来たりしているのだ。雪瀬は子供だったが、宗家の子息である以上、自然ひとの表情の機微や雰囲気の変化、そこからおのずと導かれる異変には敏感になる。
 風術師は風を読む、とひとびとは言う。風術師ではなくとも風の血を引く雪瀬もやはり、空や風の色から天候を読み、ひとや空気から心を読み、状況を読み、ひいては先を読む、そのすべに長けていた。何を教えられていなくとも、勘にも似たもので何かがおかしいと思うのだ。

「ね。どうしたの?」

 とたとたと衛兵のもとに走っていくと、雪瀬は大柄な男の袖を引っ張って問うた。衛兵は一瞬びくりと大きく肩を震わせ、こちらを振り返る。

「……雪瀬さま」

 だが、こちらの姿を見て取ったとたん、険しかった表情を和らげ、衛兵は槍を下ろした。

「雪瀬さまこそどうされたんですか? 家から出ないよう颯音さまから言われませんでした?」

 その場に膝をつき、こちらに目線を合わせて問いかけてくる衛兵を、しかし雪瀬は不信の混じった表情でじぃっと見つめる。小さく首を振るようにすると、「ねぇ何かあったの?」と繰り返した。けれど衛兵は困ったように視線をそらすだけだ。埒が明かない。

「鹿野は? どこ行ったの?」

 雪瀬は男を相手にすることを諦めると、なじみの衛兵を探して、あたりを見回す。門のほうへ近づこうとすれば、衛兵が眼前に立ちはだかった。

「鹿野はもう戻ってはきません」
「どうして?」
「颯音さまから聞いておりませんか?」
「聞いてない」
「ならば、私の口からお伝えするわけには参りません。鹿野はもう戻ってこない。それだけです」

 丁寧ではあったが、どこか高圧的な物言いに兄と似たものを感じ、雪瀬は憮然となる。自分だけが蚊帳の外に追いやられている、その事実にほんの少し傷つきもした。けれど、ならば。凪に聞くだけのことだ。
 雪瀬は視線を下ろすと、衛兵の脇を通り抜けて門をくぐろうとする。だが、それすらもまた衛兵によって阻まれた。

「通して」
「そうするわけには参りません」
「凪に会うだけだよ」
「いいえ。――凪さまなら、昨晩から臥せっておられます。屋敷に入ったところでお会いになることはできないかと」

 そう言われては、返しようがない。腹の底に何やらわだかまりのようなものを残しつつも、雪瀬は仕方なく口をつぐむ。いくら十歳とはいえ、雪瀬もそれくらいの聞き分けはあるのだ。
 衛兵はにっこり微笑み、雪瀬の前に手を差し出した。

「じゃあ雪瀬さま。宗家までお送りしますね」

 雪瀬は差し出された手とにこにこ顔の衛兵とを見比べる。どうやら手を繋げということらしい。なんだか幼子扱いをされている気がして、雪瀬はまたむっとなった。

「俺、ひとりで帰れるもんっ」

 言い置いて、衛兵の横をだっと駆け抜ける。

「だめです、危ないですってば雪瀬さまっ」
「やぁーだ」
「雪瀬さま」
「や!」

 肩越しに衛兵を振り返って、雪瀬はころころと笑う。久しぶりにひとに会えたから、実は嬉しかったのだ。
 宗家の屋敷へは衛兵と追いかけっこをしながら帰った。結局衛兵がいったい何について危ないと言ったのか、何故鹿野は二度と戻ってはこないのか、どちらもわからずじまいだった。