一章、夢の痕



 十五、


 五條薫衣の歩く姿は見ていてすがすがしい。
 面をまっすぐ前へ上げ、迷いのない足取りで颯爽と歩く。この娘の歩き方には戦に赴く武将がごとき潔さがあった。立ち止まらない。漫然としない。何事にも甘んじない。常に何かに挑みかけるような、ひたむきな強さを持った少女である。

 心地のよい袴の衣擦れ音へ耳を傾けながら、颯音はぺらりと草紙をめくる。書物に落とした目はそのままに、おもむろに立てた指を折った。風が閉じられていた襖を開く。ちょうど戸に手をかけようとしていたらしい薫衣は少々面食らった様子で眸を瞬かせた。

「どうぞ、お入り」
「……お入りってあのさぁ。そういう風に無駄に風術使うのやめろよな……」

 確信犯的な笑みを浮かべて少女を促せば、薫衣ははぁっとこれみよがしにため息をつき、肩に担いでいた長棒を下ろした。

「おや。稽古帰り?」
「うん。打ちのめし帰り」

 しれっと答えると、薫衣は長棒を壁に立てかけ、颯音の前に座る。打ちのめし帰りとは何とも剣呑だ。颯音は苦笑し、本に視線を落とす。
 男物の衣に身を包み、男言葉を好んで使う少女であったが、これでもれっきとした女子である。一見すれば、楚々と生け花をするのが似合う可憐な容貌ながら、ひとたびその手が長棒を握れば、ばったばったと容赦なく大の男どもを薙ぎ倒していくのだから、ひとは見かけによらずというべきか。

「――調べ物?」

 薫衣は颯音の前に置かれている本をのぞきこんで尋ねる。まぁね、とうなずき、颯音は草紙を薫衣のほうへ押しやった。開かれた箇所にはべったりと赤い血が付着している。それを見て薫衣は少し眉をひそめた。けれどここで可愛らしい悲鳴を上げるような女子でもない。その眸には依然理知的な光が宿り、ただ颯音の言葉を待っている。

「この前、鹿野が殺めた男のそばに落ちていた本」
「……やっぱり」
「なんだ、わかってたの」
「あなたにその手の倒錯した趣味がないのなら、そうだろうと思ってた」

 よかった安心した、と息をこぼす少女を横目で見やって、「本気で安心しないでよ」と颯音は肩をすくめる。いったいこの子は自分をどういう人種だと考えているのだ。馬鹿を言ってはいけない、颯音は一滴の血だって目を背けたくなるような繊細かつ心優しい気性の持ち主なのだ。――というようなことを回りくどく主張したところ、ものすごく胡乱げな目をされた。

「何ですか、その目」
「いーえ。ただ、いささか繊細というのはいたたまれないなぁと思いまして」
「いたたまれないってきみねぇ」

 胡乱どころか今度は憐れむような目だ。颯音は己の潔白を証明する気も失せて、うなだれてみた。が、別に本当に落ち込んだわけではない。寸秒であっさり気を取り直して、ほら、と血で赤黒く汚れたせいで読めなくなった箇所を指でたどる。

「血、べっとりついてるでしょ。この世に一冊しかない本だから、父さんがもうかんかんで。衛兵の死よりも本をめちゃめちゃにされたことが腹立たしいらしい」
「――何について書かれた本だったんだ?」
「系書、と言ってね。この国の豪族たちの系図が記されている。何でも楽城一族が中央の命を受けて編纂していたんだとか。けれど八年前の大乱で失われてしまってねぇ、それを数年前高早さまが見つけて買い取ったんだって」
「ふぅん。とにかくいわくつきの本、というわけか」
「挙句の果てが惨殺死体のかたわらに落ちているんだからね。呪われているとしか言いようがない」

 苦笑まじりの嘆息をこぼし、颯音は畳に腹ばいになったままの格好で頬杖をついた。若君の行儀悪さに普通の人間なら顔をしかめるところだが、薫衣はさして気にも留めずに草紙を読みふけっている。そもそも薫衣の前でしかこんなくつろぎ方はしない。
 紙を裏返したり、陽光に透かしてみたりとあれこれ判読を試みたものの、あまり効果がなかったらしい。薫衣は首を振った。

「だめだ、読めないな」
「今、ゆきくんや長老さんが記憶を頼りに書き起こしてる。ただ、如何せんひとの記憶だから、完全に復元するのは無理かもしれない」
「紛失したのは、どこの箇所?」
「近江、若浦、佐川、それから白雨(しらさめ)一族」
「白雨?」

 つと薫衣が目をすがめる。
 彼女が反応するのも無理はない。白雨とは、系書が消え葛ヶ原へと流れ着いた理由、八年前の大乱によって滅んだ一族だからである。
 かつて東の橘と同様、西の白雨として名をはせた一族。高名な術師を多く輩出した一族だ。しかし風術の橘とは異なり、白雨の術師は尊敬よりは畏敬を、親愛よりは恐怖を向けられることが多かったのだという。――何故かはわからない。そもそも、どのような術を使う一族だったのか。颯音は父親に聞いてみたが、八代は忌々しげに顔をしかめただけで答えらしい答えを返さず、ただ呪われた能力、呪われた一族、とそれだけをぶつぶつ呟いた。

「呪い、ねぇ……」

 仮にも術師の橘一族が呪いを恐れるなど滑稽な。颯音は父の言葉を思い起こし、皮肉げな笑みを浮かべた。それとも、滅んで八年経った今でも恐れずにはいられないほどの脅威だったのか。当時、六つかそこらであった颯音にはいまひとつ実感がない。

「その鹿野だけどさ。まだ捕まっていないとか?」
「あぁ、らしいね」

 確か今朝暁から報告を受けた。

「かなりの数の兵に探し回らせているから、そう手間はかからないと思うけど」
「だといいけどなぁ。――あ、そういやさっき分家の衛兵と一緒に雪瀬が歩いてんの見たよ」
「は?」

 にわかに颯音は表情を険しくする。

「それ、本当にうちの雪瀬?」
「あるじの弟を見間違えるほどもうろくしちゃいないよ」

 返され、颯音は口をつぐんだ。ったく屋敷を出るなって言ったのに、と自然愚痴めいた呟きが口をついて出る。今まで静かにしていたから油断していたらこれだ。さてあとでどう叱ってやろうかと考えあぐねていると、ふ、と目の前に影が落ちた。視線を上げれば、薫衣が覆いかぶさるようにしてこちらを見つめている。

「なぁ。雪瀬に鹿野のこと言ってないの?」
「……彼と仲良かったからね」
「隠し立てしたってさ。いずれ知ることになる。それなら今言っておいたほうがいい」

 薫衣の言葉には迷いがない。

「颯音サマ。下手な優しさはひとを傷つけるよ」
「……そうだね」

 うなずき、颯音は目を伏せる。

「考えとく」







 分家の門番と追いかけっこをしながら宗家に帰ってきたら、部屋に戻るなりそのまま倒れて眠ってしまった。とても疲れていたのだ。畳に大の字になって寝ていた雪瀬は、どこからともなく入り込んできた涼やかな風にんん、と顔をしかめてころんと寝返りを打つ。障子、開けたままだったっけ。

「雪瀬」
「んー」

 やだやだ。まだ寝ていたい。雪瀬は冬眠する熊のように丸まって、温もりが逃げていかないようにする。またうとうととまどろみかけた意識を、雪瀬、と呼ぶ兄の声が遮った。

「雪瀬。ほら起きて。いつまで寝てるの」

 肩を揺さぶられるにいたって雪瀬はようやく重い瞼を持ち上げる。んん、と眠い目をこすりながら身を起こし、「さおとにい?」とぼんやりした視界に映る兄を仰いだ。その兄は赤い光をまとっている。細く開かれた障子戸からは斜陽の光が射し込み始めていた。いつの間に夕方になったんだろ、と雪瀬はいまだ意識のまとまらない頭で考える。

「眠そうだね」

 苦笑し、颯音は雪瀬の前に座った。

「そりゃあそうだよね。分家の衛兵さんと追いかけっこしたんだから」

 まるで雪瀬の行動を始終見ていた風な兄の物言いに、雪瀬はぎくりとした。眠気も一緒に吹っ飛ぶ。えぇとえぇとと視線を彷徨わせ、うまい言い訳を探そうとしてから、結局無言の威圧に堪えられず、雪瀬は「……うん」とうなずいた。

「俺はお屋敷を出ちゃだめって言ったよね。忘れちゃった?」
「ううん」
「じゃあどうして言いつけ守らないの」

 兄の口調は穏やかではあるが、厳しい。後先考えず、猫のあとについていくだなんて、とても悪いことをしてしまった気がしてきた。ごめん、と雪瀬は素直に謝る。

「でもさ、でもさ? 毎日暇っ、すごく。俺暇で死んじゃうっ」
「暇でひとは死にません。これを期におべんきょーでもしなさい」
「したけど、暇」

 部屋の片隅に積まれた本の山を指し示し、雪瀬は主張する。そちらへ一瞥をやって、颯音は困ったように嘆息した。あとで別の本持ってきてあげるよ、と言われる。――それは嬉しいが、いや、ちょっと嫌でもあるんだが。

「あのさ颯音兄、」

 雪瀬は少し考えてから、身を乗り出して兄の膝に手をつく。

「今日、分家の衛兵がたくさんいたんだけど、何で?」

 見上げた兄の表情は変わらない。ただ、濃茶の眸だけが少しすがめられる。そのわずかな変化を雪瀬は見逃さなかった。何で、何で、と畳み掛けるようにしてぽんぽんと膝を叩く。

「鹿野、もう戻ってこないって言ってた。どうして? 鹿野、なんか悪いことしたの? だからやめさせられちゃったの?」
「――雪瀬」

 ひどく落ち着いた声が降ってきて、雪瀬は思わず口をつぐんだ。兄の深い濃茶の眸がこちらを捕らえた。そうすると、金縛りにかかりでもしたように動けなくなる。颯音は基本的には穏やかで優しいが、時折びくっとするような鋭さや厳しさを見せる。

「いい? 一度しか言わないからよく聞いて。鹿野はね、ひとを殺したんだ。そして今も逃げ回ってる。屋敷を出ちゃだめって言ったのはだからだよ」

 静かに明かされたのは、思いも寄らない事実だった。
 鹿野がひとを殺した? あの優しい青年が? どうして、と雪瀬は思う。何かの間違いではないのか。

「間違いじゃないよ」

 こちらの思考を読み取ったかのように颯音が言った。雪瀬はゆるゆるとぎこちない所作で視線を落とす。間違いじゃない。けれどじゃあどうして? 分家の屋敷に忍び込むたび、ものすごい形相で追っかけてきたけれど、それでも鹿野はいつだって雪瀬を凪の部屋に通してくれた。この前だって嫌いじゃないよと言ったらそれはありがたいですね、と笑ってたのに。――雪瀬の中では普段の鹿野とひとを殺したという事実が結びつかない。

「凪―……」

 何だか癖のように幼馴染の名を口にしてから、雪瀬はぱっと顔を上げる。

「俺、凪のとこ行かなきゃ」
「凪くん?」
「臥せってるって言ってた。鹿野のことだ。俺、凪のとこ行かなきゃ」

 別に慰めたいと思ったわけでも、まして励ましたいと思ったわけでもなかったのだけど。ただ、半ば衝動めいて幼馴染のもとに行かなくては、と思った。凪や藍が傷ついているなら、雪瀬はそのそばにいてあげたいのだ。力になることはできないかもしれないけれど、でもそれでもそばにいたら何か少しくらいできることがあるかもしれない。できることがあるなら何だってする。だって雪瀬は凪と藍が大好きなのだ。


 言うや否や、ぱっと小さな嵐のごとく身を翻してしまった少年を颯音はしぶしぶ見送る。本当はその首根っこをつかんで止めたいところだけども、それはおそらく薫衣が言うとおり過ぎた優しさというものなのだろう。しかしあの性格は誰に似たのかな、と苦い笑みを滲ませて颯音は暮れ行く夕空を仰いだ。