一章、夢の痕



 十六、


 あの晩はろくに寝付くことができなかった。
 死体を埋めて、川で身を清めて、何食わぬ顔で藍と宗家に戻った。折りしもその夜は途中から雨が降りだしたので、濡れ鼠のふたりを見ても家人はあまり驚かず、ただ慌てて手ぬぐいを持ってきたあと温かい風呂を用意してくれた。湯冷めしないうちにといつものように褥に身を横たえながら、けれど実のところ凪は次の日には自分の為したことは露呈するであろうと諦観まじりに思っていた。それはひどく恐ろしく、考えただけで視界が真っ暗になる。凪は布団を頭からかぶると、ぎゅっと目を瞑ってその夜を過ごした。

 しかし、凪の予想に反し、翌朝になっても昼になり夕方になっても、凪を捕まえに来る兵は現れなかった。どころか、鹿野はまだ葛ヶ原を逃げ回っていることになっているらしい。
 いつ露見するかと怯えるあまり夕餉もろくに喉を通らず、どこか上の空で父親や兄の真砂の話を聞いていると、隣に座っていた藍がそっと手のひらを握ってくる。大丈夫だよ、と少女はそう伝えたいようだった。凪は弱々しく微笑み、茶碗を持った。凪が変なそぶりをしたせいでことがばれたら、藍まで責めを追ってしまう。だから普通にしていなければ、とごはんを口に入れてみたけれど、やはり砂を噛むような味しかしなかった。



 宵闇の中を鈴虫がせわしなく鳴いている。濡れ縁に腰掛けてその音に耳を澄ませ、凪は肩にかけた羽織をたぐり寄せた。

 ――あれから十日。
 鹿野は未だ葛ヶ原を逃げ続けていることになっている。死体も見つかっていない。

 つつがなく毎日は過ぎ、ただ白鷺の墓だけが庭の片隅にひっそり増えた。――扇、せっかく足の怪我を治したのに空へ羽ばたく前に死んでしまった。胸がきゅうっと締め付けられる。ごめんね、と声にならない声で呟き、凪は立てたひざを抱きしめた。扇が死んだのはたぶん俺のせい。鹿野を殺したのは俺で、藍を巻き込んだのも俺だ。  表情を暗くして、月光を浴びて濡れた色に光る墓石をどこかすがるように見つめていると、不意に墓のかたわらの茂みが揺れた。がさがさと木擦れの音が打ち鳴る。猫か何かかな、と思ってから、急におぞましい考えが脳裏によぎった。
 ――鹿野であったらどうしよう。
 死体は未だ発見されていないという。もしかしたら鹿野は死んでいなくて。凪を殺しに来たんじゃ。
 ありえないとは思いつつも、背筋はぞっと冷え入り、思わず握りこんだこぶしに嫌な汗が滲む。腰を浮かせて身を引きかけると、

「なぎ!」

 茂みからひょっこりと幼馴染が顔を出した。凪はぺたんと濡れ縁の板敷きに尻餅をつく。こちらの表情を見取って、雪瀬は怪訝そうに眉をひそめた。

「……びっくりした?」
「……すごく」

 なんとかそれだけを口にすると、凪は慌てていつもの表情を取り繕う。

「雪瀬、どうして? 今、外出ちゃだめって言われてるでしょ」
「言われてるけど、」

 そこで雪瀬はほんの少しためらうようにして、口をつぐんだ。何だかよくわからないけれど、思うところがあるらしい。とはいえ、雪瀬なのでただ寂しくなったから来た、とか兄に怒られたから来た、とかそんな理由も十分ありえた。

「ここ複雑。裏からこっそり忍び込んだら迷った」

 雪瀬は頭や肩についた木の葉を払いつつぼやく。ああ、だから、そんなに土まみれ、木の葉まみれなのか。浅そうではあったけれど、いくつか擦り傷も見て取れた。

「大丈夫?」
「あーうん。それはね。ぜんぜん」

 しかし雪瀬はそんな自分の状態にはあまり頓着していないようで、適当に木の葉を払い落としてしまうと、凪の隣にちょこんと座り込む。濃茶の髪に絡まった葉っぱがはらりと板敷きに落ちた。凪は顔をしかめる。

「そんな、無理に来ることないのに……」

 心配と、若干の苛立ちが言葉に滲む。この幼い幼馴染のことだ、何日も家の中に閉じ込められるのはとてもつらかったのかもしれないけれど。

「んー、そうなんだけどさ。でも凪に会いたいなぁって思ったんだ。なんとなく」
「なんとなく?」
「なんとなく」

 雪瀬は小さく笑い、庭先のほうへと視線をやった。
 ゆっくり夜へと移ろい始めた空の下、響く虫の声を聞いて、いい声だなーと目を細める。柔らかな濃茶の髪を風が優しく流した。それきり何も言わない。何も聞かない。――急にわかってしまった。雪瀬は鹿野のことを知って、おそらくは凪を心配して来てくれたのだ。家を抜け出し、宗家から分家までの道のりを走って、茂みをくぐって、擦り傷をこさえて。
 ああこの幼馴染には隠し立てをしてはいけない、と思った。藍がなんと言おうとも、雪瀬にだけは。嘘をついてはいけない。己を偽ってはいけない。
 たぶんそれは凪の根っこのほうにある感情なのだ。何にも代えられない、大切な。何を失っても、守らなくてはならないような。そんな感情。存在。

「あのね、雪瀬。俺ね、」

 凪は意を決して口を開く。庭へ目を向けていた雪瀬がつとこちらを振り返った。きょとんと濃茶の眸を不思議そうに瞬かせる。そこに宿る光はあまりに無垢であどけない。

「――……、」

 続きを言おうと思った。自分が何をしたか、言おうと思った。
 けれど言葉が口をつく段になって、急に怖くなった。凪が本当のことを告げたら、雪瀬はどんな顔をするだろう。どんな風に思うのだろう。
 許してくれるかもしれない。雪瀬は優しいから。
 でももしかしたら。凪を軽蔑するかもしれない。許してくれないかもしれない。――雪瀬が鹿野と仲良くしていたことを凪は知っている。

「凪?」
「……なんでも、ない」

 結局恐れのほうが勝り、凪は首を振った。ずるい。卑怯だ。凪は今保身のために嘘をついた。

「凪、」

 雪瀬は板敷きに手をついて軽く身を乗り出し、こちらと目を合わせた。

「なぁ、なんかあった?」

 言っていいよ、聞くから、とそんな柔らかな響きが言葉の裏にはあった。その声に抱えているもの全部手放しそうになる。全部ぶちまけそうになる自分を必死に抑えながら、凪は何でもないと繰り返した。

「――帰んなよ雪瀬。もう、遅いし」

 そう言い置いて、立ち上がる。幼馴染を濡れ縁に置き去りにして、凪は部屋に戻り、障子戸を閉めた。心配そうにこちらを見つめる幼馴染の顔が障子戸の向こうに消えた。


 


 かといって部屋にとどまる気にも到底なれなかった。
 凪は部屋を出て、内廊下を力ない足取りで歩く。
 ひどいことをしてしまった、と思う。雪瀬はおそらく鹿野のことで凪を心配して来てくれたのに。――その鹿野がすでに死んでいて、凪と藍が死体をばらして埋めたなどとは露ほどにも思っていないのだろうけれど。
 小さく息をこぼすと、凪は土間に下りる。今頃母屋の炊事場は夕餉を仕度する飯炊き娘たちが忙しくしているはずだが、離れのほうにある土間には人気がなかった。かまどの横に鎮座している水瓶のふたを取り、柄杓で水をすくう。水に口をつけていると、

「珍しいな。喧嘩か?」

 突然後ろから声をかけられた。凪はびくりとして背後を振り返る。
 黒衣に身を包んだ男がそこにいた。柱の横で、薄闇に溶け込むようにして立っている。前々から思ってはいたが、気配というものがまるでない男である。

「喧嘩じゃないよ」

 凪は口元をぬぐいながら言って、柄杓をふたの上に戻した。

「見てたの?」
「たまたま見えたんだ」
「同じだよ」

 不機嫌をあらわにした声で返せば、それは悪かったな、と黎はちっとも悪びれた様子もなく肩をすくめた。凪は若干非難めいた視線を男に送る。

「悪かったよ。本当にたまたま目に付いただけだ」

 黎は苦笑して黒衣のひらりと翻す。水を飲む、というわけではないらしい。ではいったい何の用があってここに来たのか。わざわざ凪に嫌味を言うために来たとしか思えないような行動だ。

「――橘凪」

 土間を出ようとしたところで、黎が何かを思いついたようにこちらへ視線を向ける。その口元には薄く、何かを愉快がるような笑みが載せられていた。

「どうせすぐ露呈するぞ?」

 凪は息を呑む。
 何を、と男は言わなかったが、それが意味しているところは明白だった。この男は鹿野の死を知っている。そして凪がそれに関与していることも。
 こちらの表情を見取って満足したのか、黎はあとは何を言うでもなく身を翻す。闇に融け入るように男の姿が消えた。
 
 凪は呆然とその場に立ち尽くす。身体を支配したのは、恐怖と、焦燥だった。あの男は知っている。おそらくは、すべてを。――どうしよう。もしかしたら黎は返す足で父の高早に進言するかもしれない。鹿野を殺めて死体を隠したのは凪なのだと。皆に言って回るかもしれない。それは、嫌だ。それは怖い。
 止めなくては、と凪は思った。男を追って土間から飛び出し、あたりを見回す。だが、男はすでに去ったあと、影も形もなかった。柱に身をもたせかけ、凪は頭を抱える。考えてみれば、男を追ってみたところでどうやって止めるというのだ? 父親には言わないで、などと頼んでみたところで快く引き受けてくれるような男には思えない。

「どうすればいいんだ……」

 鹿野のようにあの男も殺すか。けれど、鹿野とは違う、あの男は強い。まっとうに仕掛けて太刀打ちできる相手とは思えなかった。寝首をかけばどうにかなるだろうか。それとも夕餉に毒でも盛るか――、

「よっ」

 と、眼前でひらひらと手を振られて、凪はびくりと肩を震わせた。
 黒衣の男が戻ってきたのかと思ったのだ。つい身構えてしまいそうになるも、けれどそこにいたのは少年――兄の真砂だった。

「なぁなぁなぁなぁ、聞いて驚けっ。毬街の栗のやに秋の新作和菓子が出たんだぜー!」
「……へ、ぇ」

 気が張っていただけに、真砂のあまりにも俗っぽい言葉に脱力してしまいそうになる。

「そうなのだ! びっくりしただろう!?」

 くたっと柱を背にして床に座り込んだ凪の前にかがみこみ、真砂は何やら上機嫌そうに頬を緩ませた。

「まず一品目は柿をかたどった練り菓子だろー。和菓子職人の生み出した美しく、繊細な柿色と、芸術の粋を集めたかのごときその形。お値段は銅貨三枚とちと高いが、払う価値はありと俺は見た。次に二品目だが、……」

 指を折ってお菓子の説明をしていた真砂だったが、そこでふと言葉を止め、こちらの顔をのぞき込んだ。

「なーんか、ぼーっとしてね? お前」

 ずずいと怪訝そうに顔を近づけられ、凪はしてないしてないと首を振った。ふぅぅぅぅん、と意味深な相槌を打ち、真砂は少し顔を離す。背後へ視線をやりつつ、

「なぁ。黒衣の男と何話してたん、お前」

 ぽつりとそんなことを問うた。その声には先ほどまでの浮ついた調子は欠片もない。ただ冷然と事態をはかり、こちらの胸のうちを推し量ろうとする気配がある。こういうときの真砂はおそろしく鋭い。すべてを悟られてしまうのではないかと凪は怯え、逃げるように目を伏せた。

「……べ、つに。何も」
「――あっそ」
 
 もごもごと口にした凪に対し、真砂の返事はいたって淡白なものだった。

「じゃーいいや。俺、お菓子買いに行こうっと」

 のんきに独り言めいた呟きを漏らして腰を上げると、真砂は頭の後ろに腕を組んで歩き出す。遅れて調子外れの鼻歌が口ずさまれた。黎の名を持ち出されたときは何かに勘付いたのでは、と思ったが、どうやらただ興味を引かれただけだったらしい。その興味も新作の和菓子以下であったのはよかったというべきか。

「凪」

 ほっと胸を撫で下ろしていると、真砂がふと足を止めてこちらを振り返った。この兄が凪の名を口にすることはほとんどない。いつも、“馬鹿”とか“餓鬼”とかそんな風にふざけた呼び方しかしないのに。驚いて顔を上げれば、

「おにーさまがお菓子買ってきてやろうかー?」

 真砂はわざとらしく邪気のない笑みを浮かべる。

「……いらないよ」
「誰が買うかよ、ばーか」

 さっと手のひらを返すように悪態をつき、真砂は土間を出て行った。しばらく緩慢に流れていた鼻歌もやがて途切れた。