一章、夢の痕
十七、
井戸端で顔を洗う。
朝の冷たい水は寝覚めの気だるい気分を一掃してくれる。これが気持ちいい。薫衣は家人の差し出した手ぬぐいで顔をぬぐうと、長い淡茶の髪をうなじあたりでくくり上げる。
その足でまっすぐ馬屋に向かう。まだ生まれたばかりの栗毛の馬におはよう、と言って、薫衣はそれからその父である栗毛を呼びつけた。マグリ、という。マグリは薫衣を見て機嫌がよさそうに鼻を鳴らす。おはようマグリと薫衣が首元に手をあてがって挨拶すれば、すんと鳴いて長い睫毛を伏せた。――気品があり、また気性も優しい。薫衣が幼い頃から世話をし、ともに育った馬である。
薫衣は馬を外に出すと、その背中に鞍を載せた。ひらりと身軽な動きで馬に飛び乗り、軽く合図をすれば、心得た、とばかりにマグリが走り出す。周りの景色が瞬く間に後方へと過ぎ去っていく。まるで一陣の風になったかのよう。薫衣は早朝、愛馬と葛ヶ原を駆けて回るのが大好きだった。
まもなく左方に見えてきた海は朝日を浴びて淡い薄紅色に染まり始めていた。空は明るい。水平線から陽が昇ろうとしていた。さざめく波音を聞き、朝日をその身に受けながら馬は駆ける。
何がしかの異変を嗅ぎ取った様子でマグリが足を止めたのは、朝の海が視界から消え、林間に差し掛かったあたりだった。
「マグリ。どうした?」
急に不安がり、あたりにせわしなく視線をやり始めた馬を落ち着かせるように薫衣はそのたてがみを撫ぜる。マグリは聡明であると同時に、また勘の鋭い馬だった。わずかな気配の変化や、空気の機微を読む。以前、毛並みの手入れをしていたとき、マグリが突然駆け出したのでそれを追ったところ、怪我をして倒れになっていた男を見つけた、ということもあった。マグリは空気に混じった微かな血の匂いに気づいたのである。
「マグリ」
薫衣は馬から降り、その首元に手をあてがった。しばらくそうしていれば、マグリは落ち着きを取り戻し、こちらをうかがうようにする。うなずいてやれば、マグリは薫衣を案内するように林道からそれた茂みへと入っていった。時折足を止め、馬は何かを探すようにあたりへ視線をめぐらせる。薫衣は無言で馬に従う。
マグリがまた足を止めた。耳をぴんと立て、理知的な光を宿した黒眸が一点をまっすぐ見据える。マグリの見つめる方角をたどって、薫衣は視線を移した。足元には土が掘り返されたようなあとがある。葉っぱなどで覆い隠されているが、土の色がまだ新しい。
マグリが足で地面を掘り始める。間をおかず、土からのぞいたモノを認めて、薫衣は目を見張った。思わず口元を覆う。
――それはひとの腕だった。
身体はない。ただ腕だけが一本地面に埋まっている。
薫衣は眸をすがめて、鼻腔を刺すような腐臭に顔をしかめた。
「マグリ」
あるじの心中の動揺を推し量ってすり寄ってきた馬に額を押し当てる。腕はまだ白骨化していない。腐敗もさほど進んではおらず、新しい土色などをあわせて考えると、ここ数日から十日の間に埋められたことは確かだ。
ここ最近いなくなった人間などいただろうか、と考え、薫衣は冷水を頭から浴びせかけられたような気分になった。ひとり、いる。分家から逃げ出し、以来姿を見せていない男。まさか、と思いながらもとにかくまずはあるじである颯音に報告しようと、身を翻す。
「――おや、五條?」
馬を引いて、林道に出ようとしたところ、前方から歩いてくる人影と鉢合わせになった。少年はよぅと手を上げて、こちらに駆け寄ってくる。
「朝から奇遇ですなー! ってなんだ、泥だらけ。何してたん?」
真砂は薫衣を頭のてっぺんから爪先まで眺め回して、不思議そうな顔をする。面倒な奴に会ったな、と薫衣は舌打ちする。
「……お前こそこんな朝早くに何?」
「毬街のお菓子やさんで新作和菓子が出るんよー。だから朝から並びに行こうと思って」
「……そう」
「そう。じゃあ俺の番。何してたん?」
まさか死体でも埋めてたとかー?、と真砂は冗談めかして笑う。薫衣は細く息をのみ、真砂を振り仰いだ。
「って、え? ほんと?」
「……ああ」
「ほんとのほんと?」
「埋めたのは私じゃないけどね」
薫衣は首をすくめ、自分の歩いてきた方角に肩越しに視線をやった。
「ひとの右腕が見つかった。確証はないけど、もしかしたら鹿野」
「……なぁそれ、ほんとにまじめな話?」
「冗談言ってどうすんだよ」
否、冗談にすらならない。
薫衣は馬を引き、腕の埋まっていた場所へと少年を案内する。無造作に転がったままになっていた腕へ視線を落とし、ほら、と言うと、真砂は「すげぇ。腕だ」と感心した風に言った。
「わかったら宗家の奴らに報告しに行くぞ」
「おう」
歩き出した薫衣に応じて、真砂もそのあとに続く。
「しっかし、いったい誰がこんなこと……」
独り言めいた呟きを口にしていると、ふと後ろを歩いていた少年が足を止めた。いぶかしげに思って振り返れば、真砂は珍しく真面目そのものの表情で何がしかを考え込むように口元に手をやっている。
「まさ、」
「やっぱりさぁ!」
真砂は顔を上げ、すたすたと腕の転がっていたほうへ戻っていく。
「埋め直そう。うん、そっちのほうがいい。やっぱり土にあったもんは土に返さないとな!」
「はぁ? 何言ってんだよ、お前」
おもむろにざくざくと土を掘り始めた少年を見やって、薫衣は眉をひそめる。いったい何をやっているのだこいつは。説明を求める視線を投げかけるも、真砂は故意か単に気付いていないのか、こちらに目もくれず穴を掘り続けている。気が触れたとしか思えない行動を見過ごすこともできず、薫衣は真砂の肩を手でつかんでとめた。
「あのね。お前何言ってるかわかってんの。ひとひとり死んでるんだぞ?」
「腕だけぽろっと取れたんじゃなけりゃな」
「腕だけぽろっと取れてわざわざ埋める馬鹿がどこにいる」
憮然と返せば、真砂はぴたりと手を止めた。
「――まじめな話、」
少年は地面に腕を置くと、薫衣に向き直る。
「腕が先なのはだめだ。腕が先はまずい。それじゃあ事態が悪化する、あいつ追い詰めることになる。だめだ腕は」
「は、何言って、」
「――然り。何がどうしてだめなのだ、橘真砂」
出し抜けに分け入ってきた声に薫衣と真砂は同時に背後を振り返る。朝霧の立ちこめた梢の間にふたつの影。橘八代と、暁がいた。
「久方ぶりに朝の散歩に出向いてみたら、騒がしい声がする。それで駆けつければこれだ」
真砂の足元に落ちている腕を見やって八代は皮肉に口元を歪める。
「今一度問うが。何故それを埋めようとした?」
「――別に意味などゴザイマセン」
「ほう。意味もなしに証拠の隠滅を図ったと」
八代は腕を組み、疑るような視線を真砂へやった。
「気狂いの分家の子息がついに気狂いを起こしたか」
「気狂いの宗家の当主さまにそう言っていただけるとは恐悦至極。俺、感動して泣いちゃいそう」
少年はわざとらしい泣きまねをしてみせる。
「おい、真砂、」
「暁。こやつを捕えろ」
八代のまとう空気が明らかに冷たくなったのを見取って、薫衣は真砂を止めに入ろうとするが、遅い。八代の命令が出されるほうが先だった。
「捕らえる? 真砂さまをですか?」
「ああ。橘真砂、鹿野殺害の疑いありと見た」
男の口から飛び出た言葉を薫衣は愕然とした面持ちで聞いた。
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