一章、夢の痕
十八、
橘真砂が鹿野の殺害の疑いありとして捕まったという話は瞬く間に葛ヶ原に広がっていった。
最初はまさかと冗談半分に聞いていた者たちも、遺体が右腕に続き、別の場所から胴体と左腕と見つかるに至って顔色を変え始めた。何故なら、胴体の左胸を射抜いていた、男の致命傷ともいえる傷はどう見ても刀によるものでもなかったからである。ぽっかりと綺麗にあいた穴。風術師でなければありえなかった。
葛ヶ原に存在する風術師は八代と高早、颯音、柚葉、真砂、凪のたった六人しかいない。幼い柚葉が大の男を殺められるわけがないのだから、おのずと疑いのかかる範囲は狭まった。
「でも、俺違うと思う」
凪が高早に連れられて宗家の屋敷に訪れたとき、通りかかった庭でそんなことを雪瀬が颯音に言っている声が聞こえた。
「真砂は変だけど。ものすごーく変だけど。ひとを殺したりは、しないよ」
その声には暗に行為自体を非難する響きがあった。そんなひどいことを真砂はしない、と雪瀬は言っているのだ。当たり前だ。風術師が力を盾にひとを殺めていいわけがない。もちろん雪瀬は誰が、と言っているわけじゃなく、ただ真砂はそんなことをしないと主張しているだけだ。けれど凪は。どうしても自分が責められているような気がしてならなかった。
雪瀬と颯音には声をかけず、父の背中について廊下を歩き出す。
知らずきゅっと胸のあたりを握り締めていた。腹の底からせり上がってくるのは焦燥にも似た思い。――真砂が捕まった。凪は名乗り出なくちゃならない。自分が鹿野を殺めたのだと。だって真砂は濡れ衣を着せられているのだから。凪はそれを知っているのだから。凪は名乗り出る。それが正しいはずだ。
脳裏で繰り返す言葉に反して、足ががくがくと震えてきた。凪がそう言ったとき、父がどんな顔をするのか、母がどんな顔をするのか、そしてあの幼馴染がどう思うのか、考えると恐ろしくてたまらない。もしもこのまま――、と祈るように考える。このまま口を閉ざしていたら。凪は疑われないのではないだろうか。真砂が罰を受けるだけ、凪は罪を逃れられる。
それが悪いことであるのはわかっていた。けれど凪は結局、八代に相対しても真実を口にすることはできなかった。鹿野はあれ以来見てない、会ってないと嘘だけ言った。
*
その地は風宿る里・葛ヶ原と、そう呼ばれる。死して空へと還った風術師が見守っているかのように、終始途切れることのない風が草木を揺らし、花をそよがせ、また庭を歩く男の銀髪をかき乱す。
あらゆる場所に足を運びながらも、決してひとところにとどまることはなく、根無し草のようにあちこちを旅してきた男であるが、葛ヶ原という土地だけはことのほか気に入っていた。二度ならずも五度六度、訪れたのはこの地が初めてである。
黎は太刀をかたわらに置くと、濡れ縁に腰をかけた。
今の季節にふさわしく、庭には曼珠沙華が見事に咲いている。鮮烈な血のような赤だ。黎は赤い残像を瞼裏に焼き付け、目を伏せる。
「お待ちなさいっ!」
と、可愛らしい怒声が上がって黎は細く眸を開ける。視界端を小さな少女が横切った。その前では小さな黒猫が簪をくわえて走っているから、どうやら少女は猫に奪われた簪を取り返そうと躍起になっているらしい。ふわふわと揺れる濃茶の髪はまだ肩口を少し過ぎたくらいの長さしかなく、金魚の尾のような紅の兵児帯が愛らしい。
待って、待って、と猫を追って、少女は小さな足にはそぐわぬ男物の下駄を危うげに操りながら庭先を走り回る。
「きゃ、」
案の定、自らの下駄に蹴つまずき、少女は姿勢を崩す。彼女が転んでしまう前に、黎は少女の腕をつかんだ。ついでに猫の首根っこもつかんでくわえていて簪を取り返す。それを無言のままに少女のほうへ差し出してやると、彼女はぱちくりと目を瞬かせ、こちらを仰いだ。
「わぁありがとうございます、黎さま」
年齢や挙動からはかなりのずれを感じる口調でお礼を言って、少女はあどけなく笑った。ほんの少し面倒そうな嘆息をしただけでそれには答えず、黎はまた濡れ縁へと戻る。少女はとてとてとこちらのあとを追って、黎の隣にちょこんと腰掛けた。黎が少しずれると、少女がまた距離をつめてくる。それを二度ほど繰り返してから、黎は黒い眸を眇めて少女を見やった。
「――なんだ?」
「ふふー黎さま。黎さまは何故いつも黒い服ばかり着ておりますの?」
橘柚葉は黎の黒い袖を小さな手でついついと引き、不思議そうに小首をかしげる。
「何故だと思う?」
「何故です?」
真摯な色を宿した濃茶の眸がじぃっとこちらを見つめてくる。黎は苦笑し、少女から少し視線を離した。
「失くした妹を弔っている。黒は死者に捧ぐ色ゆえな」
「……妹君はお亡くなりに?」
「あぁ」
わずかに顎を引くと、少女はひどく悲しそうな顔をして「おかわいそう」と呟いた。しゅんとうなだれてしまう。いとけないことこの上ない。軽く笑って黎は「おいで」と少女を招き、膝の上に載せた。まだ十にもふたつみっつ届かない少女の身体は体重をすべて預けられたところでひどく軽い。黎はいとおしむように少女の髪を細い指で梳いた。
「可哀想、か」
「ええ」
「ならば、お前が代わりに妹をやってくれるかな? 優しき橘の妹君」
濃茶の眸がきょとんと瞬かされる。子猫を相手にでもするように黎がその首筋を撫ぜやると、少女はころころと溢れる光を集めたかのように笑い、首を縦に振りかけた。
「――柚」
だが、それは不意に分け入った冷たい声によって妨げられる。
「大兄さま!」
近づいた人影を仰いで、柚葉が嬉しそうに顔を輝かせる。少女が腰を浮かすよりも早く、少年は彼女の両脇に手を通してその小さな身体を抱き上げた。大兄さまだ大兄さまだと首にすがりつくようにする少女の背に手を添えて、颯音は柚葉の肩越しにひどく冷めた視線をこちらへよこす。
「柚に勝手に変なこと吹き込まないでくださいます?」
少女をあやす優しい仕草からはかけ離れた、刺々しい口調で告げると、颯音は柚葉を地に下ろした。薫ちゃんのとこ行っといで、と柚葉の背中を軽く叩いて促す。
「はい、大兄さま!」
少女は満面の笑みで答え、ぱたぱたと駆けて行った。ふわりふわりと風にそよぐ兵児帯を目を細めて眺め、少女の姿が垣根の向こうに消えてしまうと、颯音はついとこちらを振り返る。
「お久しぶり」
断りも隣に座る。つっけんどんな、何で帰ってきたのかと言いたげな口調だった。黎を相手にこんな態度を取るのはこの少年くらいである。――昔から、男を慕い、集まる輪に颯音だけは決して加わろうとしなかった。近づきもしない。どこか警戒しているともいえる様子で、いつも一歩引いたところから監視するように黎を見ていた。
少年の横顔を見やって、黎はひそやかに微笑う。なかなかに勘のよい子供だ、と思った。勘がよいだけでなく、聡い。この子供がいずれ橘の当主の座につくのなら、葛ヶ原は大いに発展するだろう。
「鹿野の件。真砂くんが捕まったらしいです」
「ほう、分家の変り種が?」
「ええ、分家の変り種がね」
世間話を始めるのかと思ったらそうではなかったらしい。早々に話を切ってしまうと、颯音は何かを思案するように視線を庭先にめぐらせる。
「……俺ね、考えてたんです。ひとひとりを殺め、自らも殺されるまで追っ手から逃げ回る。鹿野はそれほどの器だったのかなぁって」
「どういう意味だ?」
「彼程度の人間はね、ひとを殺められません。ためらうから。あるいは、もしも間違えて殺めてしまったとしても、罪の意識にさいなまれて自らひとの前に出てくる」
「――つまり?」
「つまり、この件の裏には別の人間がいるんじゃないかと」
「別の」
「そう、裏で糸を引いている人間がね」
少年の口元に歳に似つかぬ自嘲じみた笑みが乗る。颯音は組んだ腕を解くと、すっと黎へ向き直った。
「ふたりもひとが死んだ。聞くけど。あなたはここで何をするつもりなの」
刹那、絶えずさざめいていた風音がふつりと途切れる。まるで風術師の呼びかけに従うように。生まれた静寂の中、黎はゆるりと微笑を口元に湛え、視線を遠くへ向けた。
「さて、何の話だ?」
「ずるいよ、その答え方」
颯音は微笑み、黎の視線の先をたどった。
「死人花がお好きで?」
「……あぁ。まるで血のような赤だ」
「血がお好きだと」
「嫌いではない。お前は?」
「そうだね、俺も。嫌いではない」
ふわ、とその足元から生まれでた微風が黎の銀髪を流して消える。颯音が戯れのように印を切れば、咲き誇る曼珠沙華の中の一本の首だけが切り落とされた。すっと長い指が立てられ、小さく呪詞が唱えられる。落ちた花が舞い上がり、その手のひらへ花を乗せた。
「はい、どうぞ」
弾みをつけて濡れ縁から立ち上がると、颯音は黎の前に花の首を差し出す。いくら気に入っているとはいえ、その花首だけとあっては悪趣味なことこの上ない。黎は軽く呆れまじりの息をつき、花を受け取ろうと手を伸ばした。瞬間、ぐいと胸倉をつかまれる。少年の手の中で潰された花がはらはらと赤い花弁を足元に落とした。
「――これは忠告だよ。黎」
低い声が耳元で囁かれる。
「俺の弟妹に手を出すな。宗家の屋敷に無断で入ることも許さない。――いい? 俺が今まであなたを葛ヶ原から追い出さなかったのはね、雪瀬や柚や他の者たちがあなたを好いていたからだ。あなたが彼らに害なすようであれば、俺があなたの首を切る。必ず。絶対に」
黎は黒眸をすがめ、間近い少年の眸を見つめた。強い眸だと思う。その歳で自分を恐れぬ度量はさすが“天才”といったところだろうか。これは恐ろしいな、と黎は喉奥でせせら笑った。
「しかし果たして俺の首が取れるかな? 天才風術師」
「造作もない」
「――世に曰く、天才は薄命だそうだ。お前も少しばかり才気走りすぎだと見える」
「ご忠告痛み入るね」
一笑に伏すと、颯音は男の衿元からぱっと手を離す。衿を直す黎には一瞥もくれず、くるりときびすを返した。
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