一章、夢の痕



 十九、


 八代との話を終えて宗家から帰ってくると、日はもうずいぶんと西に傾いていた。凪は羽織を衣桁にかけると、いつものように文机の前に座って草紙を開く。内容は頭に入ってこない。ただぱらぱらと読み流していると、ふと机の片隅に生けられた曼珠沙華が目に入った。
 目の覚めるような赤はすでに色褪せ、花自体もまもなく枯れ落ちようとしている。曼珠沙華。死人花、ともいう。幼い頃から身体が弱く、臥せりがちで、医者にも十五を迎えることは難しいだろうと言われていた自分にはひどく似合いの花だと、思った。血のような赤もひどく似合っていると思った。
 凪はおもむろに花に手を伸ばし、くしゃりと花首を潰す。赤い花弁がはらはらと机に落ちる。知らず、嗚咽が喉を震わせ、凪は机に突っ伏した。

 外がにわかに騒がしくなったのはそのときだった。荒々しい複数の足音が廊下を軋ませ、ほどなく凪の自室の障子戸が開かれる。

「――橘凪さま」

 入ってきたのは、長老とその配下の者たちだった。彼らの表情はひどく切迫している。何事が起きたのかわからず、凪はきょとんとして顔を上げた。
 
「鹿野を殺めたのはあなたですね?」

 問われた言葉に一瞬声を失する。

「……どうして……、」
「名を教える者があった」

 確然と告げる大男の後ろから、ひとりの青年が顔を出した。その姿を認めて凪は目を見張る。――鹿野。鹿野、だった。

「凪さま。ひどいです。俺たすけてって言ったのに。たすけてって。なのに、胸に穴あけるなんてひどい。穴をあけるなんて、」

 青年は恨めしそうに言って、衣を開く。鹿野の左胸には真っ黒な空洞があった。凪があけた穴だ。ひどい、ひどい、と鹿野は左胸をさすって、恨みごとを言う。たすけてって言ったのに、凪さまにたすけてって言ったのに。
 捕らえようと近寄ってくる男に恐れをなして、凪はあとずさる。けれど、すぐに背中が襖に当たってしまった。いやだ、と凪は首を振る。

「やだ。嫌だよ、」
「愚かな。己が裁かれないとでも思いましたか?」
 
 長老が歪んだ笑いを浮かべ、合図をした。男たちの手が伸びる――。



 声にならない悲鳴のようなものを上げて、凪は机から身を起こした。
 あたりを見回す。男たちはいない。鹿野も、いなかった。

「夢、……」

 ほっと胸を撫で下ろしながらも、しかし凪の表情は強張ったままだ。背中に嫌な汗が伝う。夢、というには今見たものはあまりにも現実味を帯びていた。
 もしかしたら、と凪は思う。
 鹿野はまだ生きているのではないだろうか。

 ――馬鹿な。鹿野は死んだし、死体だってより分けたでしょう?
 一笑しかけるとも、一度胸の中に沸き上がった疑念はたやすく消せるものではない。あの日は闇夜だった。もしかしたら殺めたのは別の人間だったのかもしれない。あるいは。あの夜自体がみんな夢で、凪は本当は誰も殺してはいないのかも。誰の死体も埋めていないのかも。
 だって、と凪は思う。まだ右腕と左腕と胴体しか遺体は見つかっていない。鹿野の首が見つかったわけじゃないのだ。だから鹿野が死んだという確証だってない。
 
 確かめに行こう、と思い立つ。凪の覚えている場所に鹿野の首が埋まっているかどうか。確かめに行くんだ。それで証明するんだ。凪は何もやっていないのだということ。
 意を決すると、凪は立ち上がって衣桁にかかった羽織を取り去る。開いた手のひらからはらはらと曼珠沙華の花弁が幾片、舞って畳に落ちた。






 真砂が捕らえられたのだという。
 そんなわけがない。真砂はそんなことをしない。そりゃあ真砂はちょっと、否ものすごく変で、意味わかんないところ、あるけど。でも、ひとを殺してその死体をより分けて埋めるだなんてことをする奴じゃない。
 雪瀬は信じていたが、そう口にしてみたところであの父に通じるわけがなかった。けれどここで引くわけには行かない。てんで相手にしてくれない父に追いすがり、違うのだそんなわけがないのだ、と必死にせっついていると、腹を立てた父からこぶしが飛んできた。

「雪瀬!」

 あと少し、という危ういところで颯音が止めに入る。問答無用で首根っこをつかまれ、その場から引きずっていかれた。まだ話が終わってないと雪瀬はじたばた手足を振り回して暴れたが、体格差・年齢差があるので兄には敵わない。

「……どうしてそう無謀なことするかな」

 部屋に戻ってふたりきりになると、颯音は雪瀬から手を離して深く息をつく。

「でも颯音兄。真砂は違うよ」
「そうだね。俺もそう思う。だけど、今はだめ」
「どうしてだよ?」
「今騒ぐと今度はこぶしじゃすまない、雪瀬まで牢に入れられちゃうよ」
「疑われるってこと?」
「そういうこと。だからね、今は静かにしていなさい。必ず、どうにかしてあげるから」

 頭に手を置かれ、静かに諭されるように言葉をかけられる。雪瀬は憮然となりながらこっくりとうなずいた。





「んしょ、」

 月明かりの下、雪瀬はあたりに誰もいないのを確認すると、以前見つけた抜け穴に身を滑り込ませる。
 静かにしている、と兄と約束したから。真砂のことは何も言わない。兄に任せる。でもやっぱり凪は心配だから。少し家を抜け出して様子を見てくることに決めたのだ。昼は何かとひと通りが多くて、この前もばれてしまったので、今日は夜こっそりと決行することにした。

 雪瀬は身をよじりながら穴から抜け出すと、軽く砂埃を払って迷わず分家への道を歩き出す。
 今日は月が明るいこともあって、提灯を持っていなくともうっすらとあたりを見通すことができた。とはいえ、月の晩の夜道にはあやかしが跋扈すると昔母親に教えられたことがあったので、むせび泣くような風の音を聞くにつけ、樹のざわめきを感じるにつけ、そわそわと妙に心もとない気分になる。

 やだなぁ、お化け出たら怖いなぁ。竹刀、持ってくればよかった。道を進むにつれ、手ぶらであることが妙に心もとなく思えてくる。微妙に及び腰になりながらとことこと歩いていると、ふと前方を横切る影があった。思わず息をつめ、一歩あとずさる。あやかしが出たのかと思ったのだ。
 しかしさっと月光に照らされた横顔は自分の慣れ親しんだひとのものであって。なぎ、と雪瀬は小さな声で呟く。こんな晩にひとりでどうしたんだろう。身体、大丈夫なのかな。

「な――、」

 林間へと入っていく幼馴染を追って、凪、と呼びかけようとする。けれどその横顔に浮かぶのは普段の幼馴染とは異なる冷たい冷たい表情で、雪瀬は少しためらった。
 そうしているうちにも凪の姿は林の中に消えていってしまう。どうしよう。追うべきだろうか。でもあとをつけるなんてあまりよくないことのような気がする。迷ってから、雪瀬はとりあえずあとで声をかけることにしてそれを追った。





 道をそれ、林の中に分け入ると、凪は記憶にある場所の前で足を止める。
 東の林の大きな苔岩の傍ら。鹿野の首を埋めたのは確かここだ。
 かがみこむと、まだ柔らかい、新しい土色の場所を落ち葉の中から探した。凪は持ってきた腰刀を使って穴を掘り始める。
 猫などの獣に掘り返されぬよう、深く埋めたせいでなかなか首は出てこない。深く深く掘り進めて行くうちに、やっぱりという思いが強くなった。あれは夢だったんだ。悪い、夢だったんだ。鹿野が死んだのも死体をより分けたのも、ぜんぶぜんぶ、さっきみたようなただの夢だったんだ。――凪は額に滲んだ汗をぬぐいやると、淡く相好を崩す。
 そのとき、こつんと何かに当たる気配が柄を通して伝わった。
 目を瞬かせ、凪は手を止める。それから震える手で先を掘った。大丈夫、鹿野じゃない。絶対に違う。鹿野じゃない。鹿野じゃない、から。
 林間から薄青い月光が射し込んだ。手元が不意にあらわになる。そこにあったのは、首、だった。男の、生首だった。土に埋まった首だった。

 凪は刀を取り落とす。
 悲鳴が喉をつく前に、かさりと背後で草の根を踏みしだく音がした。
 
「何してんの……? 凪」

 さっと身体から血の気が引いた気がした。凪はびくりと肩を震わせてから、おそるおそる背後を振り返る。
 ――そこに立っていたのは雪瀬だった。小さく首をかしげ、「それ、」と凪の足元に埋まっているものを見つめる。

「しかの、」
「俺じゃないっ」

 考える前に否定の言葉が口をついて出た。
 
「違う、俺じゃない。俺、鹿野を殺してなんかない。何もやってない、何も、」

 座り込んだまま何度もかぶりを振っていると、雪瀬は樹の陰から離れておずおずと凪の前にかがみこんだ。思案するように凪と青年の首とを見やり、それから静かに、凪、とこちらの名前を呼ぶ。

「凪。颯音兄のとこ、行こう?」

 少年の声は予想したよりもずっと静かだった。穏やかだった。優しかった。でもだからこそ。だからこそ、恐ろしかった。
 腕を取って引かれる。いやだ、と凪は首を振った。

「いやだ、いやだいやだいやだ、……俺行きたくない行きたくない、行きたくないよ雪瀬……」

 凪はしゃがみこんで幼子のように駄々をこねる。だって凪がひとを殺して死体をより分けたなどと聞いたら、みなどんな顔をする? 父も母も兄も周りも。みんな雪瀬みたいなわけない。――いや、雪瀬だって。“そんなこと”真砂はしないって、そういう風に言ってたじゃないか。心の奥底では凪のこと、突き放しているんじゃないか。

「凪」

 静かでありながらも明瞭な声でこちらの名を呼ぶと、雪瀬はそっと凪の腕を引いた。

「俺一緒に行く。一緒に謝る。だから行こう?」
「――いやだっ」

 凪は幼馴染の手を振り払った。はずみ、巻き起こった風が雪瀬のすぐ脇を抜け、背後にあった樹に穴を開ける。雪瀬は驚いたようにそれを見た。その頬を一筋の鮮血が伝い落ちる。きょとんとして、幼馴染が頬に指を這わせる。
 ――幼馴染の顔を凪は見ていることができなかった。雪瀬は凪を恐怖する。嫌悪する。きっと。きっと。

 凪は追い詰められた表情で眉根を寄せると、ぱっとその場から逃げ出した。