一章、夢の痕



 二十、


 無我夢中に夜道を走ったせいで途中何度もつまずいたり、転んだりしながら凪はようやく分家の屋敷にたどりついた。

「凪さま?」

 屋敷の前は篝火が焚かれていて、うっすら明るい。泥だらけ、傷だらけの姿で戻ってきた凪を夜番の者たちが驚いた顔で迎えた。大丈夫ですか、と差し伸べられる手を弱々しく払い、凪は言葉ひとつ発さずに屋敷へ戻る。
 雪瀬はこのことを兄に言うだろうか。もしも事の次第が颯音の耳に入ったら、終わりだ。雪瀬とは違う、あの冷静で厳しいひとが凪を許してくれるわけがなかった。おそらく明朝にでは兵が分家の屋敷へと駆けつけ、夢と同じ光景が繰り広げられるのだろう。

「――……っ」

 たまらない気持ちになって、凪はきゅっと目を瞑った。今すぐにでも逃げ出したくなる衝動とは裏腹に、諦観じみた冷たい感情が胸を染めていく。だって他でもない雪瀬に知られてしまった。己の一番醜悪な部分を雪瀬に見られてしまった。その上凪は、こちらに手を差し伸べようとしてくれた雪瀬を故意ではないとはいえ、傷つけてしまったのだ。
 俺どうしちゃったんだろう、と凪は震えるこぶしを握りしめる。今までどんなことがあっても雪瀬に風を向けるなんてこと、凪は絶対にしなかったのに。

「……凪ちゃん?」

 外の騒がしさを聞きつけたのだろうか。襦袢に薄い羽織をはおって藍が部屋から出てきた。こちらの姿を認めるや否や、軽く目をみはり駆け寄ってくる。

「泥だらけ。どうしたの?」

 藍は小首を傾けるようにしてこちらをのぞきこむ。
 俯いたまま凪が答えないでいると、そっと頬についた泥をぬぐってくれた。そのまま凪の頬に指先をあてがい、「冷たい」と呟く。手を取られ、両手で優しく包みこみこまれた。かじかんだ指先が温もりに包まれて次第に感覚を取り戻す。なんだか泣きそうになって、凪は小さく首を振った。なんでもないよ、とかすれがちの声で告げる。

「でも凪ちゃ、」
「――凪」

 少女の言葉を遮るように背後から父親の声が響いた。

「話がある。ついてこい」

 いつになく厳しい声だった。なんだかわざと感情をそぎ落としたような響きすらある。凪は持ち前の勘のよさで何かがあったのだと直感する。たぶん鹿野関係のことで。
 みなまで言わず、きびすを返してしまった父を目で追い、凪は藍へ視線を戻した。心配そうな表情をする少女へいつものようににっこり微笑ってみせる。

「ありがとう、藍。でも俺、だいじょうぶだから」

 包んでいてくれた手をゆっくりほどく。

「どうして? 凪ちゃん全然大丈夫そうじゃないよ……」

 小さく首を振った少女に答えず、凪は父の背を追った。




 対面に座った父、高早の隣には母も控えていた。
 襖を後ろ手に閉め、凪は父と母の前に座る。
 脇息にゆったりもたれるようにしていた父は短い沈黙のあと、口を開いた。

「俺やあちらの若君のおかげでな、真砂は家に戻された」
「……そう」

 よかったね、と凪は微笑って返す。それは心からの気持ちでもあった。
 しかし高早は表情を緩めず、凪の膝元に置かれた手へ冷ややかな視線を落とす。泥まみれの手だ。凪は父親の視線を感じて手を隠そうとした。

「――凪。今までどこに行っていた?」
「外、だよ」
「外のどこだ?」
「林のあたり……」
「何をしに?」
「そ、れは――……」

 とっさにうまい嘘が思いつかず、凪は言いよどんだ。

「どう、してそんなこと聞くの……」
「――凪」

 震え出しそうになる必死に身体を抑えつけ、かろうじてそれだけを口にすれば、先ほどの雪瀬と同じような、けれどそれよりももっと厳しい声が降った。

「俺はそこまでもうろくとしていないよ」

 父は俯きがちだった顔を上げ、すっと凪を見据える。

「俺がことの真相に気づかないとでも?」

 その言葉がすべてを告げていた。
 凪は父親に見据えられたまま、目をそらすことができない。声を出すことも、指先を動かすことすらできなかった。

「凪。宗家に行くぞ」

 雪瀬と同じようなことを言って、父親が腰を上げる。母が悲しそうな顔でこちらを見やった。いたたまれなくなって目を伏せ、凪はぎこちない所作で首を振る。

「俺じゃ、ない……」
「凪」
「俺じゃない。嫌だよ、宗家になんて行きたくないよ!」
「凪!」
 
 諌める声がぴしゃりと飛び、高早はいい加減にしろと凪の頬を打った。熱を伴った痛みがじんわりと頬に伝わる。腕を取って無理やり引き立たせられ、凪はふるふると首を振った。嫌だ。宗家になんて行きたくない。怖い。こわいこわい、怖いよ。
 足元から立ち起こった風が部屋の障子戸を震わせる。眉をひそめ、高早はこちらを振り返った。

「凪。お前、」

 驚愕に目をみはった父親がこちらへと手を差しのばす。その姿が。重なった。夢と。嫌がる凪を宗家へと連れて行く男たちと。鹿野と。怖い。嫌だ。嫌だ。嫌だ――!
 凪は狂乱気味の叫び声を上げ、懐に差してあった腰刀を抜いた。土で汚れ、刃こぼれを起こしていた刃が父親の腹に食い込む。呻き声を上がった。目を大きく見開き、高早はぎこちない所作で己の腹に視線を落とす。じわりと着物に鮮血が滲んだ。足元にひとつふたつと血痕が落ちる。
 凪は怯えて、刀の柄を離した。
 母親の悲鳴が上がる。
 父親は苦痛に表情をゆがめながら、腹に刺さった刀を引き抜いた。それを無造作に畳に放り捨てる。

「な、ぎ、……すな」

 かすれて聞き取りにくい声で、高早は懸命に何がしかを繰り返す。恐ろしくなって逃げ出そうとすれば、血で染まった手が凪の両肩をつかんだ。

「や、」
「……にも、――す、な、」

 ――いいか、誰にも話すな。お前がやったんじゃない。
 耳元に低い囁きが落ちる。倒れ掛かってくる父親から最期に聞いたのは、断罪の言葉ではなく、恨みつらみでもなく、凪を必死に守ろうとする言葉だった。
 視界が赤く染まる。
 俺、何やったの。
 わからない。わからない。もう何もかも、わからない。わからないよ。
 己の赤く濡れた手のひらへ視線をおろし、凪はか細い悲鳴を上げた。

 そして橘凪は崩壊した。







「酒宴酒宴酒宴―。俺も酒が飲みたいってのー」

 証拠不十分ということで宗家から返された真砂は内廊下をてくてく歩きつつ、母親と父親を探していた。宗家を出て行くときに小耳に挟んだ話なのだが、今日の宵方から夜明けまで宗家では夜通しで紅葉を愛でる宴がもよおされるらしい。
 ひとの胴体が発見されたときにいったい何事ぞ、と眉をしかめる長老も多かったが、橘八代の気狂いは今に始まった話ではない。
 いいなぁ俺もお酒飲みてぇなー、と真砂はへらっと相好を崩し、宴に遊びに行っていいか許しを請おうと父・高早を探す。本当はこっそり抜け出してもよかったのだが、やはり自分は家族を心配させた身の上であるし、自分の無実を主張してくれたという父親に若干感謝もしていたので、ここは親の顔を立ててやろうと思ったわけである。ああ俺さまってばできのよい息子!

「おーい、馬鹿おかんー。馬鹿おとんー」

 自画自賛にふけりながら、げんこつが飛んできそうな呼び声とともに両親の自室の襖を開ける。
 だが、いつもならば瞬時に返ってくるはずの怒声も、父や母の姿もそこにはない。がらんとした室内にたゆとう微かな血臭をかぎとり、真砂は眉をひそめた。

「おとんー……?」

 つつ、と視線を上に持っていく。刹那、対面の障子に鮮血が乱れ散った。

「おか……、」
「逃げなさい馬鹿息子!」

 息を呑み、半分惰性のごとく先の言葉を繰り返そうとするも、ひどく切迫した声がそれを遮り、直後、ぐしゃりと西瓜か何かでも叩き割ったような嫌な音がはぜた。飛び散った赤黒い斑点が、和紙にゆるりと吸い込まれていく。
 真砂は軽く目をみはって、下方の暗がりへと視線を落とす。部屋の隅には多量の血痕が広がり、自分の父であった男の遺骸があった。真砂は眸をひとつ瞬かせ、薄く口端に笑みに似たものを載せる。

「……誰が逃げるかよ」

 すっと印を組み、真砂は障子戸を蹴り開けた。
 足元の濡れ縁には血と肉片が乱れ散っている。もはや原形すらとどめていない母親を踏みしだき、真砂は襲撃者と相対す。蒼い月の下、淡い光をまとうようにしてそこにいたのは。そこにいたのは――。