一章、夢の痕



 二十一、


「ささっ、どうぞもう一杯。若君さま」

 空になった颯音の盃に気づいて、集まった家人のひとりが酒を注いでくる。
 
「……もう飲めませんよ」

 うんざりする胸中にはふたをし、颯音は涼やかな微笑みとともに盃を下ろしした。しゅんとなった家人が気を取り直して別の長老のもとにお酌に行ったすきにこれ幸いと席を立ち、そっと宴を抜け出す。
 この宴、父の八代が催したものなのだが、酒に女にらんちき騒ぎと悪趣味なことこの上ない。これでは我が一族は愚者の集まりですと民に伝え広めているようなものだ。父上もそろそろいるだけ邪魔になってきたな、と颯音は息をついた。

 喧騒から離れた場所を選んで歩き、着物の衿をぱたぱたやりながら、ほてった身体を冷えた夜風にあてる。肌を撫ぜる涼風が心地よい。やはり秋は紅葉を肴にひとり酒に限る。今筆と紙を持っていたら、久しぶりに歌なども書き付けてみるのだが――。

「橘の若君さま! お探ししましたよ!」

 どうやらこの風流な気持ちをどうしても邪魔したい奴がいるらしい。颯音は袂を探っていた手をぴたりと止め、若干うんざりしながら背後を振り返る。
 
「――なぁんてね。お、何その表情!」

 てっきり颯音が抜け出したことに気付いた家人が探しに来たのかと思ったが、違った。

「薫ちゃん……」

 脇に酒瓶を抱えた少女を見やって、颯音は脱力する。

「あのね寿命が縮むからさ、そういうのやめてよ」
「またまた。これしきで縮むタマでもなかろうに」

 さらっとかなり危ないことを返して、薫衣は“とらのこ”と書かれた酒瓶を突き出した。

「さっきお婆さまにもらったんだ。どうです? 一杯?」
「薫ちゃんのお酌つきながら」
「取らせて進ぜよう」

 差し出した盃に濁り酒がなみなみと注がれていく。宴にのぼる高級な酒よりも、自分にはこちらのほうがよい。この少女とふたりで酌み交わす酒ならば、味は格別だろう。そっと彼女に気づかれぬよう微笑んで、颯音は盃を傾ける。
 かさ、と背後の茂みが不穏な動きをしたのはそのときだった。

「――誰?」

 示し合わせたわけでもないが、即座に颯音は印を、薫衣は酒瓶を、そちらへと差し向ける。――いや、酒瓶ってきみね。心意気は買うが少しばかり呆れて、颯音は薫衣をかばうように前へ出た。すると、薫衣がそれを遮るように前へ出る。

「……?」

 颯音がまた前に出る。薫衣がさらにその前に出た。

「……何がしたいのかな、薫ちゃん」
「あなたこそなんで私の邪魔をするんだ」
「きみが俺の邪魔をしているんでしょう」
「違う。私はあなたを危険な目に合わすわけにはいかないのだから、前に出るのが当たり前だ。それをあなたが邪魔してるんだ」

 きっと向き直って大真面目に言われ、颯音はしばしあっけに取られてしまった。葛ヶ原広しといえども、天才風術師を“守ろう”とする女子は薫衣をおいていないだろう。

「わかった」

 まっすぐに見上げてくる眸を微苦笑混じりに見つめ返し、颯音は降参とばかりに手を上げる。

「せーので行こう。せー、」
「のっ」

 ふたりで酒瓶と印をつきつければ、茂みががさりと大きく動いた。緊張が走る。薫衣と颯音は同時に力ずくで相手の前に出ようとした。――あっさり協定崩壊。

「……うみゃ、」

 もうこれなら先手を打つべく印を切ってしまおうとすると、その矢先、やけに無害そうな声が上がった。茂みをかきわけて出てきた人影はこちらを力なく見上げたあと、べしゃり、と地面に倒れ伏せる。
 濃い血臭が鼻をつく。人影は倒れたまま微動だにせず、鉄錆びた臭いの中、荒々しい息づかいだけが断続的に漏れている。颯音と薫衣は顔を見合わせてみたあと、慌ててそちらに駆け寄った。

「――真砂?」

 血まみれの少年を抱き起こすと、その顔を認めて薫衣が息を呑む。

「おい、どうしたっ!? 真砂、おい?」
「……どうも何も痛いったらもー……勘弁……」

 少々乱暴ともいえる調子で少年の身体を揺さぶっていれば、真砂は意識を取り戻したらしくうっすら眸を開ける。薫衣の腕にすがって身を起こしながら呻き、「もうだめ、死ぬー」とか何とか言いながらかくっと少女に身をもたせかかった。
 ――というのはなかなかいただけない構図だったので、颯音は真砂の身体を少女からさりげなく引き離して預かると、

「薫ちゃん、医者を呼んでくるように言ってきて」

 と短く命じる。一瞬視線を交わしてから、薫衣はこくりとうなずき、宗家の屋敷のほうへと駆けて行った。少女の姿を見送ると、颯音は真砂へさっと視線を走らせる。
 脇腹に裂傷。こちらは軽いが、足に負った傷が深い。
 颯音は少年の身体を地面に横たえると、自分の上着を裂いて止血を試みる。

「いったい何があったの?」
「……何、と訊くか……」

 血を失ったせいで意識が朦朧としてきたらしい。真砂は茫洋とした眸を閉じると、自嘲気味の笑みをくつくつと喉奥からせり出す。

「アレを止めろ、天才風術師。止めないと、葛ヶ原の民全員皆殺しにされるぞ」

 ぐ、と強い力で颯音の腕を引き寄せ、真砂は絞り出すような声で耳打ちした。

「アレ?」
「橘凪。“呪堕ち”した。父母はもう殺られ済みだ」

 少年は壮絶ともいえる笑顔でひとしきり笑うと、ぷつりと糸が途切れたように意識を失った。


 呪堕ち。
 それは心を狂わせた風術師を示す隠語。
 颯音は愕然とし、意識を失った少年を眺めた。






 渡されたのは、一本の刀だった。
 黒鞘に収まった、本物の刀。竹刀や木刀よりもずっと重い。危うく取り落としそうになってから、雪瀬はぎゅっと鞘を握り締める。


「橘凪が呪堕ちした」

 明朝、宗家に集められた橘一門に父は開口一番、そう告げた。
 呪堕ちとは、心を狂わせた風術師を意味する言葉である。その場にいた大半が信じられないといった様子で息をのんだ。
 『呪堕ち』。
 それは橘の五代当主の時代に一度記録が残っているだけで、今ではほとんど迷信まがいにされている存在だ。術師というのは何がしかを媒体に外界に働きかけをできる存在であるがゆえに、外界からの影響も受けやすい。
 繊細で脆いのだ、とても。そのため術師となる者は幼い頃から、些細なことで心を乱さぬよう、常に落ち着きを保てるよう教育をほどこされる。強靭な精神を持つことを求められる。それでも長い歴史には時折現れるのだ。心を損ない、暴走を始める術師が。これを術師たちは未熟と嫌悪の意味をこめ、『呪堕ち』と呼んだ。
 呪堕ちを出すことは一族にとって不名誉なこととされる。八代は苛々とした様子で扇子の先で床を叩きながら、喧騒が落ち着くのを待つ。

「報告によれば、すでに死者三名、負傷者一名を出している。まだ齢十の子供といえど、これは死罪にあたる。見つけた際は殺めてよし」

 それは当主じきじきの殺害の許可であった。捕まえるな、むしろ殺めろと父は言っているのである。一族の汚点を葬り去れと。
 雪瀬は無言のままに視線を下ろし、渡された刀を見据えた。






 鎮火祭の前夜だった。
 鎮火祭とは秋の終わりに今年の豊穣と来年の繁栄を願ってとりおこなうもので、初代華雨の時代から続く年に一度の大祭である。いくら呪堕ちを出したとはいえ、これをとりやめてしまうことまでは八代もできなかったらしい。
 前夜にあたる今宵は葛ヶ原の社にみなで集まり、一晩を歌い明かす。社の周辺は赤や橙の提灯で飾られ、提灯と提灯の間に吊るされた短冊形の色硝子が風に吹かれては打ち合って澄んだ音を鳴らした。暗闇に響く硝子の音と、ぼんやりとおぼろげに浮かぶ提灯の明かりはどこか幻想的にすら感じる。

 遠くに祭囃子を聞きながら、雪瀬は宵闇の道を歩く。
 祭りを前にした喧騒の中、赤く焼かれた空とその中を飛び交う鴉の鳴き声が無性に胸をざわつかせた。

「見つかんないな……」

 ほぅとため息をつくと、そうねと隣を歩く藍が相槌を打った。雪瀬は身の丈には明らかにそぐわない刀を肩に背負い直し、少女へどこか複雑な視線をやる。危ないから家にいて、という雪瀬を無視してこの少女は凪の捜索についてきたのだ。
 
「ねぇ、藍」
「嫌。帰らないよ」
「……危ない」
「大丈夫、何かあっても邪魔はしない程度にやれるから」
「大丈夫ってさぁ……」

 藍は腰元に差した短刀を示す。かたくなな少女の態度に押し切られそうになり、雪瀬は何がしかを言い募ろうと口を開いてから、ためらって結局口をつぐんだ。
 藍は藍で凪のことが心配なのだろう。物憂げに目を伏せる少女の横顔を見つめながら考える。雪瀬にとって凪が大切なように、藍にとっても凪はとてもとても大切な存在なのだ。痛いほどにわかるから、それ以上何も言えなくなってしまった。

「……わかった」

 憮然となって呟けば、藍は少し笑ってありがとうと言う。

「あのね。きーちゃん」
「うん?」
「怒らないで聞いてくれる?」
「怒らないって、何が?」
「……凪ちゃんに死体埋めようって言ったの私なの」

 突然の告白に雪瀬はきょとんと目を瞬かせる。それから少女へと視線を跳ね上げた。

「怒った?」
「……びっくり、した」
「衛兵さんのお葬式があった日の帰り道、私と凪ちゃんの前に鹿野さんが現れたの。すごく、焦ってるみたいだった。それで、鹿野さん、私に刀を向けてきて。だから凪ちゃんが殺めたの。私を守るため。私、凪ちゃんが怒られるの嫌だったから死体を埋めよう隠しちゃおうって言ったの。私が、言ったの。……きっとそれが間違いだったんだ」

 藍は手で胸を押さえて俯く。さらりと黒髪がすだれがかっているせいで少女の表情は見えない。雪瀬は少し考えるような間を空けてから、おもむろに少女の黒髪をのけやった。藍はきつく眉根を寄せて、けれど決して泣くまいといった様子で小さく震えていた。眸にうっすら水膜が張る。藍はぎゅっと目を瞑った。

「藍、」

 雪瀬は刀を一回下ろすと、ほんの少し背伸びして少女へ目線を合わせる。彼女の後頭部に手を回してぽんぽんと優しく叩いた。

「俺ね、まだ間に合うと思う。次は間違えない。間違えない、から。それで、ぜんぶ元通りにするんだ」
「元通りに、なるかな」
「なる。絶対。俺が、する」
 
 額と額をこつんと合わせてそんな風に契ると、藍は泣き濡れた目を瞬かせ、うんと笑みをほころばせた。少女が笑ってくれたことにほっとして雪瀬も表情を緩める。

 殺めろ、という父の命令に雪瀬はそむく気でいた。渡された刀も抜かないと心に決めていた。凪に刀を向けるなど、あるわけがない。雪瀬は誰よりも早く凪を見つけ出して、葛ヶ原から逃がすのだ。凪を守るのだ。
 ――それが子供の甘い考えであったことなど、そのときは気づきもしなかった。