一章、夢の痕



 二十二、


 夜道をひとりの子供が歩いている。
 手はぶらんと垂れ、顔色は死人のように青白い。

「坊ちゃん、迷子さんかい?」

 ふらふらと提灯も持たずにさまよい歩く子供を見つけて、孫をつれた老婆は優しく声をかけた。もしかしたら祭りの見物に来た折に親からはぐれてしまったのだろうか。だとすれば、きっと心細い思いをしているに違いない。
 反応を返さない子供に近づき、老婆は皺の刻まれた顔に柔和な笑みを浮かべた。

「ほら、もう大丈夫だからね。おいで。橘の宗家さまに連れて行ってあげるからね」

 橘の宗家に連れて行けば、何かと世話をしてくれるはずだ。そう思って口にしたのだが、子供はびくりと肩を震わせ、みるみる怯えた表情になる。よく見れば、その身にまとうた衣も彼自身も真っ赤に染まっていた。怪我でもしているのだろうか、と老婆は驚き、子供の腕をつかむ。

「ちょっと。大丈夫かい?」

 刹那、子供の表情が変わった。怯えていた顔が能面のような無表情に。ぞわりと頬を冷たい風が撫ぜ、老婆は思わず手を引く。そのときにはすべてが終わっていた。老婆は己の胸にぽっかり開いた穴を愕然と見つめ、ばったり地面に倒れる。
 吹きすさぶ返り血をよけもせずに頭から浴びた子供は眸をひとつ瞬かせ、己の手へ視線を下ろす。そして淡く、微笑った。







 ひと群れの雲が風に流されていく。
 空はいつの間にか淡紫から深い群青へ移り変わりつつあった。星々が瞬き、半分顔を失くした月が昇る。たなびく薄雲は時折月を隠し、そのたび足元は己の影すら見えない濃密な闇に沈んだ。

「雪瀬」

 呼び声がかかって雪瀬は前方へと視線を上げる。
 隣を歩いていた藍が提灯をかかげた。暗闇に見知った顔がぼうと浮かび上がる。――颯音だ。

「こんなところにいたの」
 
 後ろに薫衣と透一をつき従えた兄は眸をすがめ、呆れまじりの息をつく。

「さっき暁から連絡が入った。さらに三人殺されたって」
「さんにん?」

 そんなに、と雪瀬は息をのんだ。

「それ、ほんとに本当?」
「おそらく。遺体の傷口が風術によるものだったし、見ていたひともいる」
「見ていたひと?」
「夜道をひとりで歩いている子供がいたから声をかけたら襲われたらしい」
「嘘だ……」
 
 弱々しく呟き、雪瀬は目を伏せる。いったい凪はどうしてしまったのだろう。普段の穏やかな少年を知っている雪瀬には想像もつかない。
 そりゃああのときも、凪に宗家に言いに行こうって言ったときも激しく抵抗はしていたけれど。でも凪はとても優しい性格をしているのだ。雪瀬は知ってる。幼いときからずっと一緒に育った雪瀬だから知っている。凪はそんな簡単にひとの命を奪うような奴じゃない。そんなことができるような奴じゃない。だからこそ、どうして、と思わずにはいられないのだ。

「雪瀬」

 惑い、焦燥する気持ちに歯止めをかけるように颯音の静かな呼び声がした。衣の端を握っていた手を取って下ろされ、「家に戻りなさい」と言われる。雪瀬はぱっと顔を上げた。

「何で!?」
「お前じゃ手に余るよ」
「だって凪なんだ」
「だから、だよ」
「やだ!」

 長年の仇敵にでもやるような鋭い視線を兄に向け、雪瀬はぶんっとかぶりを振る。

「絶対、やだ!」
「雪瀬!」

 沈黙を守る颯音の代わりに薫衣が前に出てきて、叱責をこめた声音で言う。

「ちゃんとわかってる? 凪は父と母を殺し、真砂を襲ったんだ」
「違う」
「違わない」
「違うよ!」

 勢いに任せてがむしゃらに否定すれば、薫衣ははぁっと困り果てたように嘆息して首を振った。

「違わない」
「――……っ」

 雪瀬は一歩後ずさりをしてから、逃げるように身を翻す。刀の重みでよろめきかけたが、なんとか足を取られずに体勢を立て直すと、道を反対に走り出した。

「雪瀬!」

 背後から兄や薫衣の声がしたけれど、雪瀬はぎゅっと目を瞑って聞かないようにする。
 だって、兄に任せたら凪はきっと殺されてしまう。他の誰に任せてもだ。雪瀬はそんなの嫌だ。凪を失うなんて嫌だ。だから自分でどうにかするのだ。幼馴染を止めるのだ。


「きーちゃん。きーちゃん、ってば。どうしたの?」

 追いかけてきた藍がこちらの肩をつかみ、心配そうに顔をのぞきこむ。それにもぶんぶんと首を振り、雪瀬は刀を下ろして膝に手をついた。荒く息をつく。
 ――どうにかするのだと、心に決めていながらも。雪瀬は迷い始めている。恐れ始めている。凪は本当に自分の知っている凪なのだろうか。だって六人もひとを殺した。鹿野は事故であったとしても、六人も。罪のないひとたちを。自分の父や母を。真砂にだって刃を向けた。
 雪瀬は凪がわからない。

「あぁ……、分家のお屋敷に戻ってきちゃったね」
「凪んち?」

 祭囃子を避けるように歩を進めていたら、葛ヶ原の西の隅にある分家の近くまで来てしまっていたらしい。それにしても、と雪瀬は眉をひそめる。
 日中はともかく、夜中においては絶やされることなく火の焚かれているはずの正面門は、平時とは打って変わって静まり返り、門を守る夜番すらも見当たらない。
 
「何かあったのかな」

 首をかしげ、雪瀬は藍に視線をやる。ふたりで顔を見合わせ、連れ立って開け放しになっていた門をくぐった。異様な静寂にさらされている分家の敷地内へと入る。
 たなびく紫雲が月を隠し、ふつりと視界から光が消えた。代わりに訪れたのは、自身の影すらのみこむ、完全なる闇。その中に息づく微かな風のざわめきを感じて、雪瀬はつと足を止めた。眸を瞬かせ、あたりへ視線をめぐらせる。
 場の空気は別段変調をきたしているようには見えなかったのに、何故だろう、脳裏の警鐘は鳴り止むことがない。この先に行ってはいけないような。足を踏み入れてはならないような。嫌な感じが。

「きーちゃん?」

 藍にいぶかしがるような声をかけられ、雪瀬は我に返った。
 本能は明らかに引き返すことを求めていたが、理性のほうが僅差でそれに勝り、ためらう身体を無理やり前に押し出す。
 さらりと風が吹いて、月を覆っていた雲を流す。光を得て、視界が明るくなる。そこに、――血まみれの少年がいた。

 すでに血の海と化した、その真中にかの少年がただずんでいる。
 どうやらいくつかの死体が散在しているようだった。少年は男の腕を握っている。男のほうはぐったりして、微動だにしない。彼が何事か呪詞を囁けば、生じた烈風が男の身体を貫き、呆然とする雪瀬たちの前を鮮血と肉片が飛び散った。
 転がってきた何かが足の先にこつんと当たり、雪瀬はぎこちない動作で視線を落とす。それは以前分家の門前で話したことのある衛兵の首、だった。

「……ぁ、う……」

 雪瀬は口元を押さえた。藍が小さく悲鳴を上げるが、こちらに気づいた様子もなく目の前の少年は死体をあさるのに忙しい。目の前で繰り広げられる光景から目をそらすこともできず、雪瀬は途切れがちの息をこぼした。腹の中のもの、ぜんぶぶちまけたくなる。体温が急激に下がり、ぐらぐらと眩暈がしてきた。声、出せない。息がうまくできない。何だこれ。俺、なんか間違ったもの見てる?
 だって、こんな。こんな。こんなの。

「――……っ」

 危うく放り出しかけた意識を何とか繋ぎ止めようと雪瀬は刀の鞘をきつく握り締め、意を決して目の前に立つ人影を見据えた。

「な、にしてんの……」

 喉奥で絡まっていた言葉を懸命に声に変える。

「――凪」

 ふ、と少年が振り返る。濃茶色の眸がやけに澄んだ光を湛えてこちらを見やった。虚ろな両眸からは、欲していた言葉を返されることも、求めていた声を聞くことも叶わない。
 風は停止。あたりは無音。
 優れた風術師はその身に風をまとう。凪の周りには常に穏やかな微風があった。けれどそれを今、感じることができない。風は死に絶えていた。呪堕ちという言葉が絶望的な色合いを持って脳裏を響く。凪は。凪の心はもう戻ってはこないんじゃないかと。

「凪、」

 つかつかと少年に歩み寄ると、雪瀬はその腕を取った。

「帰るよ」

 ここは分家のお屋敷で凪の家なのだから、帰るなんて言葉は厳密にはおかしい。けれど、雪瀬は必死だった。帰らなければ、戻らなければ、と焦燥まじりの思考が頭を支配する。

「っや、」
「凪っ、ばか、かえるんだってば!」

 かぶりを振って抵抗する少年を雪瀬は無理やり引っ張った。いやだいやだと少年がわめく。雪瀬は泣きそうになりながらがむしゃらに凪の腕を引いた。
 刹那、すぐ耳元で呪を唱える声がして、思わず雪瀬は幼馴染の手を離す。風が渦巻き、身体を襲った。

「った、」

 吹き飛ばされ、雪瀬は地面にしりもちをつく。

「なぎ……?」

 深い深い濃茶の眸と目が合う。凪は、泣いていた。肩を震わせて、ひっくひっくと嗚咽を漏らす。手の甲でごしごし涙をぬぐおうとする姿はまるで幼子のよう。雪瀬は地面に座り込んだまま目を瞬かせ、それから幼馴染へと手を伸ばす。凪が泣いてる。だから手を差し伸べてあげなくちゃ、それで大丈夫だよって言ってあげなくちゃとほとんど無意識で手を伸ばしていた。
 だが、差し伸ばした指先が届く前に、幼馴染の姿が視界から消え失せる。幕が切って落とされたかのようにあたりがふっと暗くなり、己の指先すら見えないような濃密な闇に覆われる。月が雲に隠れたのだ。

「なぎ?」
「きーちゃんっ」

 少女の叫び声が耳をつんざく。ぞわりとうなじを冷たい風が撫ぜた。肌があわ立つ。――それは殺気だ。獣にも似た、むきだしの。
 だめだ、と脳裏で制止の声がした。けれどそのときにはすでに身体は動いている。

 幸か不幸か、雪瀬はいっぱしの刀使いだった。己の生命を危機にさらされる局面で身体が反応しないわけがない。流れるような無駄のない所作で刀を引き抜くと、雪瀬は一閃、背後から襲ってきた少年へ刀を薙ぐ。
 肉を断つ感触が柄を握る手の内に伝わる。身体に熱い何かが降りかかった。ぎこちない所作で視線を上げれば、血を撒き散らし、地面へ倒れ行く幼馴染の姿が目に映る。その手には確かに印が組まれていたから、雪瀬は直後、烈風が身体を射抜くことを覚悟した。けれどそれはついぞ放たれることなく、ただ代わりに残滓のような弱い風がふわりと頬をかすめる。優しく、悲しいほどに優しく。

「……なぎ?」

 寸秒呆然と刀をぶらさげたままたたずんでから、雪瀬は地面に倒れている幼馴染に駆け寄り、かたわらに膝をつく。少年はすでに。絶命していた。虚空を見つめる眸は暗く、そこに光はなかった。なぎ、なぎと雪瀬は少年の肩を揺さぶる。けれど声が返されることがない。その眸が自分を映すことも。自分の名を呼ぶことも。

「や、だ。やだやだやだやだやだやだこんなの嫌だ嫌だ嫌だよ凪、凪!」

 絶叫に、返される声は、なかった。