一章、夢の痕



 二十三、


 最終的に、橘凪が殺害した人間は領民、分家の衛兵、彼の両親を含め、二十人以上に上った。とはいえ呪堕ちをひとり出した割に、犠牲は最小限にとどめられたというべきか。

「――雪瀬」

 少年は部屋の片隅に膝を抱えてぼんやり座り込んでいた。半開きになった障子戸から冷たい秋風が吹きぬけ、彼の柔らかそうな深い茶色の髪をそよがせる。それにも無頓着な様子で彼は空を流れゆく雲を眺めているらしかった。
 雪瀬、ともう一度呼ぶと、焦点のあっていなかった眸がふとこちらに向けられる。

「長老会の決定が降りたよ」

 颯音は少年の前にかがみこみ、口を開く。

「お咎めはなしだって。事前に父さんが許可出してたからね」

 少年はただそう、と呟き、また空のほうへ視線を移した。
 颯音の予想を反し、雪瀬は驚くほど落ち着いていた。涙のひとつも見せない。喚くこともなければ、取り乱すこともなかった。
 颯音たちが駆けつけたときには凪はすでに息絶えていて、そのかたわらに座り込む弟は頭から鮮血をかぶったみたいに衣から髪から真っ赤になっていた。薫衣が細く息をのむ。颯音たちの気配に気づくと、雪瀬は立ち上がり、事の子細を淡然と語った。そこにはこの状況下ではいっそ異常なほどに理性の色があった。
 雪瀬は長老たちに連れて行かれ、そのまま長老会の審議にかけられた。話を終えて宗家に戻される頃にはすでに十五日以上がたっており、すでに凪の葬儀もひっそり済まされ、遺骨は埋葬されたあとであった。

 颯音は雪瀬の隣に座る。風にそよぐ髪に触れてみたところで特に弟の表情は変わらなかった。まるで感情ぜんぶ凪のところに置いてきてしまったかのよう。
 小さくため息をつき、颯音は雪瀬の視線を追って秋の晴れた空を仰いだ。それから少年の前に黒鞘に収まった刀を置く。目の前に置かれた刀を見やって、雪瀬はびくりと肩を震わせた。凪を殺めた刀だ。長老会が保持していたものを先ほど返されたのである。

「刀は返す。どうするかは自分で考えなさい」

 言葉の意味がすぐにはのみこめない様子で雪瀬は目を瞬かせた。いいね、と颯音がぽんと頭に手を置けば、ゆっくりうなずいた。







 白波は寄せては砕け、潮騒は途切れることがない。薄光が雲間から射し込み、くすんだ海を静かに照らした。波打ち際を彼はひとり歩く。

 昨晩降った、いつもよりは少し早い初雪が海岸を覆い、砂浜は真白に染まっている。眩い雪面に目を細めながら、彼は降り初めの雪に足跡をつけていく。しばらく無為に水際を歩いてから、ほぅと白い息をつくと、雪瀬は携えた黒鞘から刀を引き抜き、雪原へ突き刺した。褪せた血のこびりついた刀身は海面の照り返しを受けてぬらりと鈍く光る。その場にかがみこみ、雪瀬は何かに祈るように目を閉じた。

 眸を開くと、刀を引き抜き、海へ向かって投げようとする。
 だが、それを。遮る手があった。

「捨てるなら。俺に譲らないか、この刀」

 刃に二本指を挟み、やすやすと止めてみせると、男はどうだとばかりに尋ねてくる。

「黎?」

 雪瀬は眉をひそめて、男を仰いだ。黎は沈黙し、こちらの言葉を待っている。冗談や戯れを口にしているわけではないようだった。
 彼の腰にはいつも持ち歩いている太刀が今日も差されている。名刀だ、と刀に造詣が深い老翁が言っていたことがある。そのような品をすでに持っている男が何故こんなちゃちな刀を欲しがるのかわからず、雪瀬は少し不思議に思いながら、首を振った。

「あげない。刀は捨てる」
「捨てたところで、友人を殺めた事実が消えるわけでもあるまい」

 痛いところをつかれたような気がして雪瀬は口をつぐんだ。

「違うか? 刀を捨てたとて、お前の罪は消えない」
「……俺は。間違ったこと、してない」
「それは周りが言ったことに過ぎないだろう。大事なのは自分がどう思い、考えるかということ。――どちらにせよ、渡さないというならば、力ずくで奪うしかあるまいがな」
 
 普段あまり感情というものが宿らない双眸に底冷えのするような鋭利な色が浮かんだ。ぞくりと背筋が冷え入る。雪瀬は男の身にまとうた空気が変わっていることに気づいた。真昼に浮かぶ月のような、無色透明ともいえる気配が消え、圧倒的な存在感があらわになる。さながら闇夜に燦然と輝く月のごとく。雪瀬は息をのんだ。思わず、後ろに一歩下がる。
 男の指がつぅと刀の側面をなぞった。褪せた血をぬぐいやるようにして切っ先から指を離し、風術の印を組む。

「……っ」

 はっきりと何かを察知したわけではない。ただあたりの空気がざわりと揺れ動くような独特の気配、微細な空気の変調を肌で感じ取り、雪瀬は反射的に身を引いた。黎が呪詞を唱え上げたのは同時。
 ひと薙ぎの風が眼前に生まれ、押し寄せる。とっさ刀から手を離すまいとするが、身体が外に飛ばされるような奇妙な浮遊感があり、柄を指がすり抜けた。後方に飛ばされ、雪瀬は雪の上にしりもちをつく。焼け付くような痛みが脇腹の辺りを走った。

「…っ…、ぅ…」

 雪瀬は目をすがめて脇を手で押さえる。じわりと溢れた鮮血が指先を伝った。
 最初、いったい自分の身に何が起きたのかわからなかった。斬られた? どうして? 何に? ――風に?
 雪瀬は息を喘がせながら、目の前に立つ黒衣の男を仰ぐ。

「ど、うして……?」
「――“喰”という古来より白雨一族に伝わる術だ。その名のとおり、術者の術を喰う。必要とされるのは、術者のその身に流れる血液。……この量では少々足りぬが、そのつど血を媒体にすれば可能であろう」

 術者の血液? 足りない? 男はいったい何の話をしているのか。
 激痛で朦朧としてきた意識の中で雪瀬は考える。
 先ほど黎が使ったのは確かに風術だった。橘一族以外は使えぬはずの術。それを“喰らった”というのか。誰のを、と考え、雪瀬は男の持つ刀に付着した血を見つめた。あれは凪の血だ。

「わかったか?」

 男の冷笑を含んだ声が問う。それじゃあ。この男は凪の風術を盗んだとでもいうのか。声を失う雪瀬の前で黎は刀を鞘に納めると、焼痕の刻まれた腕をばさりと袖にしまった。腰に佩いていた太刀を抜き、雪瀬の首元につきつける。

「さて、すべてを見たからには死んでもらおうか、橘雪瀬」







 書状を書き上げ、結びに橘の名と印とを押していると、目の前にぬっと紙の包みが差し出された。

「なぁ若君。お菓子、召し上がる?」
「……お菓子?」
 
 あまりに唐突といえば唐突な言葉に目を瞬かせ、颯音は硯に筆を置いて顔を上げた。薫衣は湯気の立ちのぼる湯飲みをことりと颯音の前に置きながら、

「真砂の見舞いに行ってきた帰りでさー、その余り。なんとかっていう毬街の栗の屋で出された新作の和菓子を買いに行かされたの」
「ふぅん?」
「朝っぱらから馬を走らせてだぞ? やってらんねー」
 
 疲れたーと薫衣は畳に足を投げ出す。こぶしで肩を叩いている少女を見やって、颯音は苦笑した。

「ヤなら買いに行かなきゃいいのに」
「……まぁ、な」
「薫ちゃんはお人よしなんだからさ」

 薫衣は薫衣なりに真砂を思いやったのだろう。真砂はこの件で足を負傷しただけでなく、家族すべてを一気に亡くしてしまったのだから。しかも父母を殺めたのが実の弟とあれば、何ともいたたまれない。
 とはいえ五條家の娘がみずから馬を走らせる必要はないであろうに。
 ほんと律儀なんだから、と颯音は呆れ混じりに思って湯飲みに口をつけた。さりとてこれも薫衣の性分なのだから仕方あるまい。

「なぁ、そういやさ。凪の遺体、すぐ火葬したって聞いたけど?」
「あぁ、うん」
「どうして?」

 普通、変死した遺体などは“忌む”べきものとしてしばらくの間放置するのが常である。またはそのまま鎮守の森へ捨ててしまうことも多い。だが、それらの通例を破って、颯音は真砂に同意を取り付け、凪の遺骸を早々に火葬した。長老たちには適当な理由を見繕って説明していたが、この聡明な少女は何かおかしいと勘付いていたらしい。
 長老たちと同様に言い繕ってしまおうかと考えてから、颯音は少女の真摯な眸を見取って首をすくめた。

「わかっちゃったんだよ」
「何を?」
「あの黒衣の正体」
「なっ、」

 声を上げようとした薫衣の口元に指をあてがい、しーと外へと視線を向ける。颯音は無言で脇に置いていた草紙を差し出した。

「これ、」
「系書の復元版だよ。ゆきくんや長老さんたちの協力で昨日完成したんだ」
「でもそれが黒衣の奴とどういう……」
「まぁま。ちょっと見てみて」

 颯音はすす、と紙に指を滑らせる。そこには白雨一族の家系図が記されていた。数頁にわたり何度も書き足されたような跡も見受けられる。おそらく、筆者である楽城一族は世代が代わるたびに系書の改訂を重ねたのだろう。
 事実、橘一族の箇所には颯音までの名が記されていた。雪瀬の名がないのは、彼が生まれた頃に白雨一族の大乱があり、経書の編纂をする余裕がなかったからであろう。
 颯音は初代から連なる白雨一族の系譜をたどっていき、一番下に記された名前をとんと指で叩いた。薫衣は目をすがめ、それから息をのむ。

「白雨、『黎』……!?」
「そう。ご存知の通り、八年前に滅んだ白雨一族、最後の家督相続者。上に槊(さく)という兄と、鵺(ぬえ)という妹がいるけど、槊は所在不明に、黎と鵺は八年前に十四、五の若さで死んだことになってる」
「――待て。あいつが葛ヶ原に現れたのはいつだった?」
「五、六年前あたりから」
「時機は、一致してるな」

 薫衣は思案げに口元を手で覆った。

「でも、どうして葛ヶ原なんかに……」
「俺もそれ、考えてみたんだけど。実はね、先日父を問いただして聞き出したんだ。白雨一族が呪われた一族と呼ばれたのにはわけがある」
「わけ?」
「何でも、妙な術を使ったらしいよ。“喰”という。術者の血を媒体にその能力を喰らい、我がものとする術。それゆえ、白雨は数多の術者たちに忌み嫌われ、呪われているとすら蔑まれた。八年前に滅んだことでこの術も誰も知らぬこととなったはずだったんだけどね。どうやら生き残りがいたらしい」

 颯音は苦い笑みを浮かべる。

「それが黎、だと?」
「おそらく」

 そう考えれば、鹿野が何故あの夜分家の書庫に忍び込み、系書を手に取ってのかも想像がつく。おそらく鹿野は黎に脅され、系書を盗むか焼き払うように命じられたのだ。黎の出生を完全に公から消してしまうために。しかしそれを分家の衛兵に見られ、鹿野は彼を殺めてしまった。罪の意識に苛まれ逃げ回っていたところを凪が間違って殺め、死体を隠した。――これが今回の件の真相だろう。
 たちの悪い将棋倒しのようだ。なんともやるせない気分になって颯音は知らず嘆息を漏らした。

「じゃあ、黎がこの地にとどまっていたのは、」
「風術を盗む機をうかがっていた可能性が高い。だから、変な術に使われる前に凪くんの遺体、燃やしたの。黒衣の男は適当に理由つけて外に追い払うつもり」
「そ、っか」

 薫衣はどこかほっとした様子でうなずく。それから凪へと想いをはせたのか、悲しそうに目を伏せた。

「薫、」
「食べよっか」

 言葉をかけようとすれば、先回りをして笑顔を向けられる。下手な同情や慰めをこの少女はとても嫌うのだ。

「……そうだね」

 颯音はうなずき、少女にお菓子を出すよう促した。
 
「あーそういえば、颯音。さっき雪瀬が刀持って歩いてるの見たぞ」
「ふぅん?」
「刀、返したんだ?」
「あぁ、まぁね……」

 相槌を打ちながらも何がしか胸に引っかかるものがあり、颯音は眉をひそめてそれを探る。――刀とは、たぶん先ほど渡した刀のことだろう。雪瀬がそれをどうする気かはしれないが……。そういえばあの刀にも凪の血が付着している。
 そこまで考えが至り、颯音ははたとして湯飲みに伸ばしかけた手を止めた。

「薫ちゃん、雪瀬見たのどこ?」
「うーんと? 西のあたりの……、あれ、海のほうに行こうとしてたのかなぁ」
「海、」

 繰り返し、颯音は机に手をついて立ち上がる。

「ちょ、何?」
「――迂闊だった。血だよ、まだ残ってたんだ」

 颯音は障子戸に手をかけながら答え、

「黎が今欲しているものを持っているのは雪瀬だ」

 珍しく苛立ちをあらわにした表情で言った。