一章、夢の痕
二十四、
「最期に言いたいことはあるか」
戯れのように男が尋ねた。
地面に膝をついたまま、雪瀬は目の前に立つ男を見上げる。
「返して。俺の刀」
「――それはきけぬ頼みだな」
黎は眸を細め、薄く笑った。
「第一、死んだ者の術をどうしようとこちらの勝手であろう」
「そんなわけ……っ」
そんなわけがあるか。風術は凪のものだ。刀だって雪瀬のもの。どちらもこの男のものじゃない。この男が戯れで手にしていいものじゃない。
雪瀬は刀を奪い返そうと黎の腕にしがみつく。頭上から苛立たしげな舌打ちの音がした。手を振り払われ、眼前ですいと印が切られる。
身体から一気に血の気が引いた。至近距離。これじゃ逃げること、できない。ぞわりと生まれた風が頬を撫ぜ、雪瀬は身体を硬直させる。死ぬんだ、と思った。俺はここで死んでしまうんだと。――けれど自分でも戸惑ってしまうほどに、恐れの感情はわかない。むしろどこか甘美で、安堵を伴った響きを持っている。だってこの、頭が狂うような、否、いっそ狂ってしまえば楽になるであろうに、決して逃れることができない悲しみが苦しみが終わる。終わる。終わる。……あぁ俺。雪瀬ははたとひとつ眸を瞬かせた。俺、死にたかったの?
「やめてっ」
悲痛とでもいうべき叫び声がすぐ耳元でしたのはそのときだった。手を引かれ、ぎゅっと頭を抱きしめられる。
「あ、い?」
ふわりと馨った花の香に引かれて、雪瀬は薄く目を開く。少女を認めるや否や、慌てて身体に回された腕を払おうとするが、藍は抱きしめる力を強くするばかりだ。
「やめ、」
これでは藍が死んでしまう。少女の腕をつかんで必死に離そうともがくが、藍の力は思いのほか強い。歯噛みしながら何かに助けを求めるように空へ視線を逃すと、少女の肩越しに黎と目が合った。男が薄く笑う。その冷たい眸を見たとき、殺される、と確信した。この男は藍を殺す。おそらく子供が蟻を潰すのを楽しむくらいの気持ちでこの男はひとが殺せてしまう。絶望が胸を覆った。雪瀬はふるふると弱々しく首を振り、やめろと消え入りそうな声で呟く。
男が立てた指を折る。雪瀬は声にならない叫び声を上げた。
そして。風が、消える。
――男が詠唱をやめたのだ。そう気付くまでには数秒とかからなかった。藍はほっと息をついて、雪瀬から腕を下ろす。
「黎さま、」
「――代償は?」
だが、笑みを綻ばせた少女へ男が突き付けた言葉はあまりにも冷たかった。藍は目をみはり、綻びかけた表情を消す。みるみるその顔が怯えの色に染まった。
「……私が、」
「“私が”?」
「はら、う。払います。何でもする」
「……安いな」
独り言のように呟くと、しかし黎は袖を振って印を組んだ手を下ろした。刀を鞘に納め、黒衣をばさりと翻す。
「命拾いをしたなぁ、橘雪瀬」
「待っ、」
背を向けた男を追おうと地を蹴るも、身体がぐらりと傾き、雪原に倒れこんでしまう。脇腹からどくどく血が流れた。淡雪に爪を立て、ちくしょうと雪瀬は奥歯を噛む。
「きーちゃん、大丈夫?」
藍は雪瀬のかたわらにかがみこむと、そっと脇に這わせた手に手を添えた。優しく包み込むような手を雪瀬は弱々しく振り払う。
「きーちゃん?」
「――藍。代償って、何?」
「……大丈夫、だから」
嘘だ。大丈夫なわけない。さっきあんな怖そうな顔してたではないか。それで大丈夫なわけない。大丈夫なわけないよ。
「藍、も、どこか行ったり、……どこか行ったりしないよ、ね?」
不安に駆られて、雪瀬は少女の腕を取る。急激な動きをしたせいで脇腹に痛みが走った。視界がぐらりと歪み、意識が覚束なくなってくる。それでも必死に、力の加減などなしに少女の腕を握り締めていると、
「ごめんね」
藍は淡く、どこか悲しそうに微笑んだ。
前髪をのけやられ、額にふわりと唇を押し当てられる。花の香が優しくくゆり、雪瀬はまどろむように目を閉じた。微かな衣擦れ音とともに身体を離される。
「っやだ、藍。そばいて。行くの、やだ」
離すまいと伸ばした手が空をかく。雪原に倒れる感覚はもはやどこか遠い。次第に薄れゆく意識の中で、「さよなら」と告げる儚い彼女の微笑だけが頭に残った。
少年と少女の姿を少し離れたところから見守っていた男は少女がこちらのほうへ向かってくるのを見取ると、おもむろに黒鞘から刀身を引き抜き、そこにこびりついた血をひと撫ぜした。印を組み、呪を詠唱しようと意識を集中させる。
「――今、印を切るというなら、その前に俺の風があなたを射抜きますよ」
が、それを阻むように澄んだ声が投げかけられる。威嚇じみたその言葉に眉根を寄せ、黎は対面に立つ少年を見やった。颯音は馬の手綱を樹にくくりつけ、こちらに数歩歩み寄る。いったいどれほど酷使したのか、黒毛の馬はかなり疲弊した様子で息を切らしていた。少年は愛馬同様に乱れた息を軽く整えると、袖で汗をぬぐいやる。次の瞬間には今まで走ってきたことなど一切感じさせぬ鷹揚な笑みを浮かべて、すっと印を組んだ。
「どちらの風が速いか。試してみます?」
「面白い」
挑発じみた誘いかけに黎は薄く笑む。両者に緊張が走った。だが、それもほんの一瞬のこと。次の瞬間には黎は袖を返し、颯音は組んだ印を解く。
「もしもあなたが、」
あとは無言で歩き出す男を見据えながら、颯音は口を開いた。
「白雨であるという確固たる証拠があったのなら。俺はここであなたを殺めていたでしょうに」
言葉の綾ではなく、少年の口ぶりには真実、口惜しがる響きがある。
「それは残念だったな」
「……葛ヶ原を出て行くおつもりで?」
「あぁ。お望みどおり」
男は振り返り、苦笑する。
「もう、会うこともなかろう」
「ええ、できればご遠慮願いたいですね」
颯音が呟けば、男は肩をすくめ、黒衣を翻した。
――男が月詠と名を変え、帝のかたわらに立つのはその二年後のことである。互いの心中とは裏腹にふたりは再度あいまみえることとなった。そのときは同じ臣下という立場で。今は臣下と逆臣という立場で。
*
――取引を、しないか。
“彼”にそうもちかけられたのは、その少しあとのことだ。
傷に起因する高熱を発し、意識を混沌とさせていた雪瀬はうなされながらひとつの夢を見た。
暗い水辺を雪瀬はひとりで歩いている。あたりは薄闇に覆われ、ただ足首を浸す程度の浅い川がどこからもとなく流れてきていた。川は広く、対岸は見えない。引き返そうにもどちらに行ったらいいかもわからず、雪瀬はただただ浅瀬を彷徨った。そのときだ。不意にいずこより男が囁いてきたのだ。
取引をしないか、と。
「とりひき? ……だれ?」
「扇、という」
あおぎ。その名には聞き覚えがあった。凪の飼っていた白鷺の名だ。怪我をしていたとかで凪が春先に拾ってきた白い鷺。
「扇? ってあの?」
まさかと思いつつ尋ねれば、首肯するようにすぐかわたらを微かな羽音を立てて何がしかが通った。
「霊視の能力をお前にやる。だからお前は俺を、現し世(うつしよ)にとどめおく支えとなれ」
「現し世?」
「すでに死した身ゆえな、俺は常世の国へと呼ばれている。だが、まだあちらには行きたくない。お前には俺を一緒に現し世に連れて行って欲しいんだ」
「……何のために?」
「お前はあの男から、刀を取り返したいのだろう?」
男は雪瀬の胸のうちを見抜いている様子で問いかける。
「俺もそうだ。凪に恩を返したい」
思案げにうなずき、雪瀬は声の主を探すようにあたりを見回した。
「――うん、いいよ」
微笑って同意を告げると、虚空に向かって手を伸ばした。指先が冷たい感触に当たる。まるで水のような。薄い水の膜に触れたときのような、そんな感触。ソレは雪瀬の指先を伝い、するりと体の中に流れ込んできた。
不意に目の前の薄闇が消え去る。光、満ち、色彩を取り戻した視界はしかし次の瞬間、ぐにゃりと輪郭を崩した。物と物、色と色の境目が消え落ち、混ざり合う。混ざり合う。虹色、そして極彩色。眩暈がするような感覚に雪瀬はこめかみに手を当てた。刹那、視界が真っ白に染まる。その色すらも剥がれ落ち、消え落ち、身体の中に何がしかが融けいる感覚とともに、雪瀬は目を覚ました。
「契約は結ばれた。――後悔を、しているだろうか?」
現の声に気を引かれ、眸を上げれば、白鷺がこちらの顔を覗き込むようにしていた。おもむろに手を差しのばす。白鷺の首元に指を這わせた。一度撫ぜ、二度、三度飽くことなく撫ぜていると、
「なっ、なんだよ」
白鷺が調子を崩された様子で羽をばたつかせる。
「……んーん。ただ、触れられるんだなぁって」
雪瀬はしみじみと呟き、淡く笑んだ。自分は今“あやかし”の声を聞き、“あやかし”に触っている。不思議な感覚だった。
いぶかしむ扇に、後悔なんてしてないよと返し、雪瀬はその頭をぽんと叩く。
「よろしくね。……扇」
それから、五年と月日は流れ。
春の冷えた朝、くすんだ蒼穹の下、少年は少女を見つけ出す。
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