一章、夢の痕
二十五、
せっかくだからこの子にも占いをしてやれよ、と。扇はのんびり嘴で羽根を毛づくろいをしながら言った。
「うらない?」
文机に飾られた菊の花をつついていた桜は律儀に繰り返して、小首をかしげる。占いという言葉自体は知っていたが、具体的にどんなことをするものなのか桜にはいまいちわからない。亀の甲羅を焼いたり、水面に葉を浮かべたり、はどこかで見たことがあるような気がする。
「あらあら。桜さまはそのようなまやかしに興味がおありで?」
少女は作り終えた符を丁寧に風呂敷に包みながらくすりと笑う。
「あのなぁ。まやかしとお前が言うな」
「まやかしでございますよ。ひとの未来がひとに読めるわけがない。占術師月詠がいつこの国の行く末を占いました?」
「う……」
「ほら。占いなど所詮できのよい嘘にすぎませんよ。あるいはひとを操る手立てと申しますか。――どうぞ、桜さま」
隠し包み、というのだろうか。結び目を見せない綺麗な包み方をすると、柚葉はそれを桜に差し出した。
「符二十枚。これを兄さまに届ければおつかい完了ですね」
「うん」
包みを受け取ったとたん、じんわりと温かい気持ちが溢れて胸に広がった。おつかい、ちゃんとできたんだ私。それがほんの少し誇らしい。
桜は包みを大事そうに抱きしめてほんの少し表情を綻ばせる。
「よかったですね、桜さま」
「うん。……あの、」
しばしのためらいののち、畳に広げた和紙や硯などを片付け始めた柚葉の袖端をそぅっと引いた。
「……ありがと、う」
「ふふ、たいしたことをしてはおりませんよ」
「ん、」
そんなことはない、と桜が首を振ると、柚葉は眸を弓なりに細めて微笑んだ。微笑うとふっと柚葉の周りの空気が透明に凪ぐ。なんだか胸がきゅうと締め付けるような懐かしさを覚えて、桜は不思議そうに眸を瞬かせる。――あぁ、わかった。このかんじ、雪瀬に似てるんだ。
兄と妹のささやかな共通点を見つけて少しばかり胸を弾ませ、桜は今しがたの“発見”を報告するべく外に出て行った扇を追いかけようとする。
「あ、桜さま、待って」
「……わ、」
背後からすっと腕を取られたのはそのときだった。桜はたたらを踏み、柚葉を振り返る。
「その肩のおしるしのことなんですけども、どなたかに見せたこと、あります?」
「おしるし……?」
間をおいて肩の焼印のことを言っているのだと理解した。ふるりと首を振りかけてから、桜はひとり思い当たるひとがいて、あ、と声を上げる。
「雪瀬?」
出会って間もない頃、桜の怪我の手当てをしてくれたのは雪瀬だった。たびたび包帯を取り替えてくれたりしていたから、“見せた”わけではないけれど、“見えて”はいたかもしれない。
「そうですか……」
そんなことをつたなく説明すると、柚葉は感情というもののうかがえない声でうなずいて、桜の腕を離した。代わりに両肩に軽く手を添えられる。
「いいですか、桜さま。そのおしるし、これからは誰にも見せてはなりませんよ」
「だれにも?」
「誰にも、です。ちなみにここからはお節介になりますが、桜さま。女子の私の前ではともかく、殿方の前ではくれぐれもお着替えなどはしないでくださいましね」
「……そうなの?」
「ええ、はしたないって思われてしまいますから」
柚葉は口元に指先をあて、くすりと微笑む。
「さぁて、どうやら雨も上がったようですし。戻りましょうか。葛ヶ原へ」
格子窓から差し込む陽光を眩しげに見やって、柚葉は軽く促すように桜の背中を叩いた。はずみ、しゃらんと桜の結い上げた髪を飾る翠玉が打ち合って揺れる。己の出で立ちを今一度顧み、桜は不安そうに柚葉の袖をついと引いた。
「だめですよ。兄さまに可愛いって言ってもらうまでは」
「い。いい、いらな、」
「大丈夫、すごーく可愛いですから。安心してくださいませ」
安心してくださいませ、じゃなくて。――桜が欲しているのとはおおいにかけ離れた答えを返し、柚葉はころころ笑いながら心なし弾んだ足取りで扉を開いた。
そのとき、柚葉の手に“ちょっと出かける”にしては大きすぎる荷物が携えられていることに気づいていたのは扇だけである。
*
「マーグリっ。元気かー? ――ん? おう、そうかそうか」
声をかければ、栗毛の馬がすりすりと鼻面を薫衣の頬に寄せてくる。
この馬ももうずいぶんと年を召し、かつてのように元気よく野山を駆け回ることもなくなった。今は薫衣に連れられ、屋敷の近くを散歩することを一番の楽しみにしている。気性の優しさだけは昔と変わらない。
薫衣は日課の馬の世話を終え、厩を出ると、庭で摘んできた秋の花々を持って自室に戻った。実は先日、なじみの商人からいい花器を安値で買い取ったところのだ。
窯で時間をかけて焼き上げられたのだというその花器は光沢を表面に出す釉薬などは一切使われず、素材本来の土らしい色合い、手触りが多分に残されたつくりをしている。素朴な美とでもいうべきか。薫衣は一目見てその花器が気に入った。
さてこれにどう花を生けていくべきかと腕を組んで思案する。菊を山水のごとくあしらうか、いや、桔梗を一輪でもいい。花を前に考えていると、ふっと唐突に視界が真っ暗になった。
「だーれだ?」
「う、わっ」
ふわ、と耳朶に吐息が触れる。
思わず肩を跳ね上がらせてしまってから、「何……、」と薫衣は目元を覆う手のひらを身をよじって払おうとした。だが、うまくいかない。どうやら後ろに回りこまれた上、目隠しをされているらしい。――無論、こんなことをしでかす酔狂な奴など薫衣の知り合いにはひとりしかいなかった。
「……あのね若君さま。離して。それから気配消して近づくのやめろよ。ほんとにびっくりするから」
「だって薫ちゃんたら花のほうに夢中なんだもの」
「新しい花器が手に入ったんだ」
「ほーう。確かにいい色してるね」
「だろうっ? ……って、なぁほんと離して。話しづらい」
無理やり手を引っ剥がそうと試みれば、
「やーだよ」
とあちらはくすくす笑って薫衣の手の届きにくい位置に回りこんでしまう。ちくしょう、卑怯者めと薫衣は悪態をつく。
「薫ちゃんまだ答えてないでしょ。だーれだ?」
「あーのーなー、」
「だぁれだ?」
「――橘颯音。橘一門宗家の若君、腹黒当主、十九にもなって目隠しして遊んでるようなお子さま」
つらつら嫌味たらしく言いながら、薫衣は声のする方向をたどって自分に回された腕を何とかのけようとする。
「正解」
それと手が離れるのは同時だった。視界が一瞬色彩を失う。光のまぶしさに目を細め、薫衣は背後を仰ぐ。見知った青年の顔が逆さまに映った。あらわになった額をぴんと軽く指で弾かれる。
「でもお子さまはないんじゃない? 腹黒でもないし」
「どの口がものを言う」
へっと鼻で笑って返して姿勢を直すと、薫衣は手に持った花をいったん水盆に戻し、腰を上げた。茶を持ってくるよう使用人に命じるためである。同時にさりげなく上座を青年に譲る。こんな奴でも薫衣のあるじ、葛ヶ原の当主だからだ。
そういう意味で薫衣は口調こそぞんざいであれ、いついかなるときもこの青年に対するある種の敬意、礼儀のようなものを忘れなかった。彼は薫衣の想い人である前に薫衣のあるじである。そこは絶対に揺るがない。逆には、ならない。
「おい、誰か――」
障子戸から顔を出し、使用人を呼ぼうとする。
しかしそれを当の颯音が遮った。
「ひとは呼ばないで。今日はね、私用で来たんだ」
「しよう?」
「そう。内々に薫ちゃんに頼みがあってね」
私用、と言いつつそこに色めいた響きはひとかけらもない。
まぁこのひとだからな、と薫衣は一瞬愚かな期待をしかけた自分の頭をぺしりと叩いて席に戻る。
「実はね、」
颯音は薫衣が前に座るのを待って、話を切り出した。
「この葛ヶ原にはどうやら内通者がいるらしいことがわかった」
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