一章、夢の痕



 二十六、


「ないつー……?」

 一瞬、青年の言葉の意味をはかりかねて、薫衣は眉根を寄せる。

「……ってそれ。どういうことだ!?」

 だが、言葉と意味とが頭の中で繋がるには一秒とかからなかった。薫衣は畳に手をつき身を乗り出す。

「なぁさお、」
「――静かに」

 さらに言葉を連ねようとした薫衣をぴしゃりと颯音が遮った。障子戸の外へ注意深く視線を向けてから颯音はこそりと息をつく。

「びっくりするのは当然だと思うけど。いろんな状況を重ね合わせるとそれが一番つじつまがあうんだ。雪瀬と俺の結論」
「――それ、で?」
「おやおや、さすが。落ち着いてるね」
「静かに、ってあなたが言った」

 内心は荒れ狂う嵐のごとく、である。それを抑えることがどれほど胆力を労するのかわかっているのだろうかこの男は。薫衣が少し憮然となると、それもそうか、と颯音は飄と微笑う。

「うん、それでね。薫ちゃんには雪瀬と協力して、内通者のあぶり出しをして欲しい。信用する者を二三、使っても構わないけれど、選ぶときはくれぐれも慎重に」
「あなたは?」
「俺は瓦町の百川諸家を訪ねる」

 予想外といえば、こちらもまた予想外の言葉だった。

「百川諸家……」

 薫衣は眉をひそめ、真意をはかるように対面に座るあるじをうかがう。
 南方の豪族・百川諸家とは葛ヶ原の隣の領地である瓦町を治めている一族で、土地が隣り合っていることもあり、橘一族とは古くから深い親交がある。特に今代の百川刀斎は温厚かつ寛容な人柄で知られ、颯音とも仲がよい。以前、颯音や薫衣が中央の召喚にかこつけて帝の暗殺を企てたときも都から脱出する手はずを整えてくれたりと影ひなたとなって自分たちを援助してくれたのもこの老人であった。
 中央に反旗を翻して以来、ほぼ孤立無援状態となっている葛ヶ原にとっては唯一の支援者といえる。

「けれどその百川に当主自ら赴いていっていったい何をするんだ?」
「……何をするんだと思います?」
「何か、企んでるよな」

 思いつきや気まぐれでものを口にする男ではない。薫衣がじとりとした視線を向けると、颯音は苦笑して軽く手を振る。

「別に何も企んじゃいないよ。ただ、」
「ただ?」
「刀斎さまに頼んで少しばかり援軍をもらおうかな、と」
「援軍?」

 返された言葉に薫衣はますます表情を険しくする。

「何。戦でもおっぱじめる気?」
「――以前柚葉に毬街で情報を集めさせているって話はしたことあるよね?」
「え? あぁ、うん」

 話の矛先の突然の転換に戸惑いながらも薫衣はこくりとうなずく。

「その柚からこの前文があったんだけども、近頃都付近が何かと騒がしいらしい。税率を上げたとか、黒衣の占術師が徴兵の令を評議で出させた、とか。この意味、わかる?」
「……冬、いや、春の雪解けを待って動き出す」
「動く、何のために?」
「葛ヶ原を制圧する、ため?」
「その通り。だからこちらもそのときに備えて内々に事を進めなければならない。……まぁさりとてなかなかに難しい状況ではあるのだけどね」

 颯音はため息をついて、ごそごそと懐から煙管を取り出した。薫衣はぺんとその手を叩く。五條家では禁煙なのだ。
 不平混じりの視線をこちらに向けて、仕方なさそうに颯音は煙管を下ろす。それでも未練がましく雁首を指で撫ぜたりしながら、「一服ぐらい……」とぼそぼそ呟いた。

「百川は、兵を出すかな」

 あるじの呟きはさらりと無視して薫衣は腕を組む。
 今の段階では都の兵が大量に押し寄せてきたら、こちらは白旗をかかげるしかあるまい。この数ヶ月、あちらからたびたび朝廷へ参内せよとの命令が来ていたが、薫衣のあるじはそのすべてを蹴ってきたのである。しびれを切らしたあちらが兵を放つというのは当然のことといえよう。最強の戦人形を持つという百川が味方につけば、いくらか事態も変化しようが、さて、南の沈黙する虎はその重い腰を上げるか否か。

「問題ない。出させるよ」

 颯音は断じて、こんと煙管で畳を叩いた。
 脅す気か、と薫衣はその意図を読み取り、苦笑する。  この男、よくこれで暴君にならなかったなぁとたまに思う。“東の大蛇”は普段物静かでこそあれ、内に激情を秘めているのである。誰にも語らない。誰にも見せない。けれど、二百年の忠義を捨ててまで帝に刃を向けさせるような、激しい感情。

 薫衣はずっとそれに触れてみたかった。けれど同時に怖くも、ある。ひとたび触れれば囚われて戻ってこれなくなるような、そんな恐ろしさがあった。
 橘颯音の気質は、おそらくは鋭く厳しく激しい。
 でなければ、覚悟ひとつで自分の父親など殺められるものか。その若さで帝に刃を向けられるものか。誰もがこの腐れた国の膿を取り除かねばと思いながらも、いざ帝を目の前にして刃を掲げることはできなかったというに、このひとは飄然とそれをやってのけてしまったのである。

 薫衣はそんな颯音の気質を畏怖し、厭い、一方で激しく憧憬している。その強さや揺るぎのなさというものをくるおしいほどに焦がれながら、同時に己の弱さを突きつけられ、脆さを見せ付けられるたびに嫉妬に狂い、時折このひとを憎らしいとすら思う。よく殺したいほどに恋い焦がれているというがそれは自分のことではないかとたまに思いもする。

「日が傾いてきた。そろそろ帰るよ」

 部屋をうっすらと染め始めた赤光を見取って颯音が腰を上げる。
 ん、と薫衣は軽くうなずき、青年を追って立ち上がる。ほんの少しためらってから、いつも腰に差していた懐刀をおもむろに彼に差し出した。

「……なぁに?」
「お守り。私が不在のときはどうかこれで身を守りますよう」

 薫衣は微かな衣擦れの音とともにその場にひざまずき、正式な礼をとる。颯音は一瞬驚いたように眸を瞬かせてから、ゆるりとおおらかに笑んだ。

「それではしばし拝借させてもらいましょうか」

 懐刀を受け取り、流れるような所作で腰に差す。もののふらしい綺麗な所作だった。一瞬見惚れかけて薫衣は慌てて視線をそらす。

「薫ちゃん」

 障子戸を開け、吹き込んだ濃茶の髪をそよがせながら、颯音はふとこちらを振り返った。そろりと立ち上がれば、手をとって上げさせられた。

「きみも、息災でね」

 翳りを帯びた琥珀の眸が伏せられる。契りを結ぶように、あるいは何かに祈るように指先に唇が落ちた。思わず小さく指が震えてしまう。――気づかれて、しまっただろうか。薫衣がそっと青年をうかがえば、くすりと微笑するような気配があり、ほどなく優しく握られていた手が下ろされた。