一章、夢の痕
二十七、
じゃり、と砂を食む下駄の音が背後から聞こえた。
長い影法師が足元に伸びる。
「ご加減はいかがですか。兄さま」
「――ご心配なく。上々ですよ、おかげさまで」
ぶしつけな切り出しに臆せず返すと、雪瀬は伏せていた眸を上げ、半身を振り返らせた。
「……それにしてもまさか帰ってくるとはね」
「失礼な方ですね。まるで私が帰ってきて嬉しくないかのよう。少しくらいは再会の喜びとかないんですか?」
「ああじゃあ熱い抱擁でも交わします?」
「遠慮しておきます」
柚葉は薄く笑って、編み笠の紐を解く。笠を取り去ったはずみに自分と同じ色の髪がさらりと少女の肩口に落ちた。その背中からおずおずともうひとりの少女が顔を出す。不安げにこちらを見やる緋色の眸と目が合わせれば、すぐにぴょこっと柚葉の背に隠れてしまった。
何か気恥ずかしいことでもあるのだろうか。柚葉の背にひっついていたまま、一向に出てこようとしない。
「桜。えーと、おかえり?」
若干いぶかしみながら声をかけてみると、桜は表情をみるみる強張らせ、また柚葉の背中に顔を引っ込める。まるで亀か何かのようだ。いったい何があったのやら、と少々手に持て余して柚葉に答えを求めるような視線をやれば、妹はにっこりと悪戯めいた笑みを口元に載せた。い、嫌な予感。
「ささっ、桜さま。隠れてないで出てきてくださいませ」
逃げ出しかけた少女を捕まえて、柚葉は嫌がる桜を無理やりこちらのほうへ引っ張り出す。
「ほーら、兄さま! 可愛いでしょー?」
橘柚葉会心の作なのです、と柚葉はえっへんとばかりに胸を張った。柚葉に背を押されるようにしてこちらと向き合うことになった桜は頬を染め、逃げ場を探すようにあっちこっちへ視線を彷徨わせる。
――会心の作。
確かに少女の出で立ちはおかしなことになっていた。
唐紅の花織りに、金襴の文庫帯。曼珠沙華の赤にひけをとらない振袖の色は、 透き通るような少女の肌にきまりすぎるほどよく映えて、華奢な身体の線をより際立たせる。ひとつに束ね上げた黒髪には朱の飾り紐がとめられ、垂れ落ちた紐の先では翠の硝子玉が二連に連なって揺れていた。
どうやらうっすら化粧もほどこされているらしい。いつもは挙措や雰囲気から幼さのほうが目に付く少女であるが、今は歳相応か、少し上くらいに見えた。
雪瀬は目を瞬かせ、えぇと、と首をかしげる。
「何、これから宴にでも行くの?」
「……ううん、」
「兄さま!」
返した答えに桜は素直に首を振り、柚葉は何かとても間違ったことでもしでかした風に咎めるような声を上げた。
「あなたは馬鹿ですか。葛ヶ原のいったいどこの宴に参るのです? ――殿方なら今の状況で求められている言葉がわかるでしょう。ね? 可愛いですよね? すごーく可愛くてたまりませんよね?」
「なぁそれ、強要って言うよね?」
「まさか! 素直に仰ればよいのですよ。可愛いと!」
畳み掛けるように言われ、雪瀬は小さく嘆息する。そちらに視線を戻すと、桜は何やらものすごく緊張した面持ちで姿勢を正した。
「……飾り紐がね」
投げやりに呟けば、桜ははたはたと目を瞬かせ、かざりひも、と自分の髪から垂れた翠玉をつかんだ。少しいじるようにしてからなんだかむぅっとなった様子で眉根を寄せ、しばしの沈黙のあと、柚葉の手から逃れてたっと身を翻してしまった。
「ほんっと素直でないひとですね……」
少し先のほうにいた扇のもとへ駆けていってしまった桜の背中を見やって、柚葉は呆れた様子で腕を組む。
「怒ってしまいましたよ、桜さま。道すがらすごくすごく不安そうなお顔をしてらしたのに、兄さまが心にもないことを仰るから」
「なー楽しい?」
「ええ」
「……柚。符二十枚は?」
なんだかいろいろと諦めたくなって、雪瀬は脱力がちに少女へ手を差し出す。
「あーら、申し訳ありません。桜さまが持っておられます」
次は嫌がらせか。
手を宙に出したまま、雪瀬は憮然となる。それがおかしかったらしい、柚葉はくすくすと声を立てて笑って、こちらの隣にかがみこんだ。雑草を抜いたりしながら、
「私、嬉しかったんですよ。兄さまが女の子を遣わすって言うから」
「ほんと、おつかいなんて行かせなきゃよかった」
「そんなこと仰らずに」
なだめるように言って、柚葉は目の前の小さな墓石へ視線を落とす。
「……まだ、通っていらしたんですか」
「命日だからね」
雪瀬は淡白な答えを返す。
墓前には赤い曼珠沙華が一輪供えられていた。死人花という。死者にささげるための花。――橘凪の墓である。
「で?」
感傷じみた空気を取っ払うように雪瀬は腰を上げ、袴についた砂ぼこりを手で払った。
「毬街からはるばる葛ヶ原まで帰還されたわけは?」
「桜さまをお送りしようと思いまして。扇に聞きました。人身売買にあいかけたそうですよ、あのふたり」
「え、嘘、何それ?」
あまりにとっぴな言葉に唖然となってしまう。
「さぞや心細い思いをなされたでしょうねぇ」
柚葉は遠目に桜と扇の姿を見守りながら呟いた。
「それで、大丈夫だったの?」
「扇が機転を利かせたそうで」
「……よかった」
知らず安堵の息を漏らしてしまいながら、雪瀬はやはり彼女にひとりでお使いはちょっと早かったろうかと後悔する。
もともとひとに対してどこか恐怖心のようなものを持っているような少女である。最近はそれも徐々になくなってきたような気はしていたが、それでもきっと怖い思いをしたに違いない。
雪瀬は考えながら、桜のほうへ目を向ける。
扇がちょうどその頭上を飛んでいくのが見えた。夕影に吸い込まれるようにして消えていく白鷺を見送ると、桜は地面にひとりかがみこんで、あたりを飛ぶとんぼに不思議そうな視線を上げる。おもむろに指を差し出せば、とんぼが近寄ってきて翅を休める。それを見取って桜は少し楽しそうに表情を和らげた。
おや、と雪瀬は目を瞬かせる。
意外と平気そうだ。
「――……なんだ」
どうにも拍子抜けした気分になり、雪瀬は脱力して桜から目を離した。考えてみれば、拾ったばかりの頃ではもうないのだ。知識や所作や言葉や表情など目に見える部分だけでなく、彼女は少し大人になったのだろう。
わかっているはずなのに、どうしてもたまに忘れてしまう。
「兄さま。実は私、しばらく毬街の占い屋は閉めようかと思っているのですよ」
雑草を抜きながら柚葉はぽつりと口にした。
「――あぁ、そうなんだ?」
「驚きませんね」
「だってまさかアレを送るためだけに帰ってきたわけじゃないでしょうに。その荷物、明らかに大きいし」
少女の手に持たれた風呂敷の膨らみを指差せば、柚葉は意外そうに眸を瞬かせたあと、さすが、とくすりと微笑む。
「何かあったの」
「ええ少々……」
さりげなく周囲に視線をめぐらせて桜以外の人影がないことを確認してから、少女は声をわずか落として囁いた。
「どうやら、中央に不穏な動きありとの由」
「不穏?」
「はい。公にはされておりませぬが、中央周辺では徴兵が始まっている。市井の情報ですが、出所は確かです」
「……つまりあちらは葛ヶ原に兵を向けるつもり、ということ?」
「可能性はありかと」
否定を避けつつも柚葉は確然とした口調で返す。
「大兄さまにはすでに報告済み。そろそろ人手もいるであろうと帰ってきた次第でございます」
「じゃあ、……これからはずっと葛ヶ原?」
「厄介者が増えてお嫌ですか?」
「いいえー? 颯音兄もしばらく留守にするって言ってたから。助かる」
本心からの言葉を口にすれば、柚葉はくすぐったそうに首をすくめた。
「では、私はこれで。うふふー大兄さまとあつーい抱擁を交わして参りますっ」
「はいはい、いってらっしゃい」
雪瀬ははよ行けとばかりにしっしと手を振る。今ではしっかり者かつ冷静で通っている妹だが、未だに兄離れだけはできていないのである。しかも颯音限定だ。柚葉曰く、『兄さまは大人げなさすぎて兄よりは弟ですよ』らしい。
少女は相好を崩すと、脇に置いていた編み笠を拾ってかぶり直す。淡い縹色をした風呂敷を抱え直し、歩き出そうとしてから、途中でふと何か気を引かれた様子で足を止めた。
「あぁそういえば兄さま」
今までとは少しばかり毛色の異なる声音で呼びかけ、柚葉はすっとこちらを振り返る。
「私、桜さまの肩のおしるしを見ました。先ほど、おめしかえのときに」
「ふぅん?」
「あの意味を兄さまはご存知ですか」
「意味? と、いうと?」
「『夜』と『鳥』、すなわち『鵺』。鵺とは十三年前、死んだ白雨一族の娘。月詠こと、白雨黎の実妹です。おそらく、――ここからは私の推測ですが、今は亡き空蝉が鵺の遺骸を使って人形を作り、“桜”と名づけた。私、人形のことには明るくありませんが、彼女は鵺の記憶は持っておるのですか? あるいは人格は?」
「いや、持ってない。たぶん、だけど」
人形を作る際には、ひとの骸に水子霊を入れるのが常であると聞いたことがある。水子、つまり母体から生まれることなく流れた赤子。長く生きたひとの魂と異なり、水子は無垢ゆえに骸に入れやすいのだと。
桜もおそらくはそのようにして生まれたのだろう。
「兄さま。重く重くお考えましね。このこと」
柚葉はそっと声をひそめ、忠言めいた言葉を口にする。
「彼女自身が白雨と何の関係もないといえど、ひとは呪われた血が残ることを嫌がるでしょう。まして彼女が月詠と血縁を持つ者となりますと……ゆくゆく何か悪いことが起こらぬといいのですが」
柚葉は物憂げに睫毛を伏せる。
そうだね、とそっけなくうなずけば、少女は顔をしかめた。
「忠告はしましたからね。あとはもう知りませんよ」
「あれれ。颯音兄に報告しなくていいの?」
「そう踏んでなければあの子を私のもとにはよこさないでしょうが。――大兄さまに秘密を作るの嫌なのに」
兄贔屓の妹は頬を膨らませる。歳相応の幼い所作に雪瀬は苦笑した。怒り心頭の妹から視線を逃すようにして遠くを仰ぐと、不意に宵刻を告げる鐘が鳴り始める。群青の山々はなだらかな稜線を描き、空に居残った最後の光も山の向こうに消え去ろうとしていた。山々を鐘の残響がこだまする。
「柚、あのさ。それに関してひとつ調べておいて欲しいことがあるんだけど」
「何です?」
鐘が止んだ頃、おもむろに切り出せば、柚葉はいぶかしげな顔でこちらを仰ぐ。
「白雨一族の系譜、一度あさってみてくれない?」
「兄さまがなさればよろしいでしょうに」
「俺、しばらく手が離せなさそうなんだよ」
「……まぁ別にいいですけど。何故です?」
「さっき沙羅、――空蝉の奥さんなんだけどさ、そのひとが言ってたんだよね」
――白雨黎には兄と妹がいる。
兄は槊。妹は鵺。
「“その血縁を探れ”って」
「それ、信用にたる言葉なんですか?」
「たぶん」
「そう簡単に言われますけどね。……滅びた一族の系譜ですよ?」
「頼りにしてマス」
表情の固い少女が苦言を呈す前に先回りをかければ、「そういう言葉はもっと他の人に言ってあげて下さい」と柚葉は肩をすくめ、嘆息した。
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