一章、夢の痕
二十八、
風向きが変わった。指先に止まっていたとんぼは透明な翅を動かすと、不意に飛び去っていってしまう。
あ、と顔を上げ、桜は群れの中に戻っていくとんぼを眺めた。暗くなり始めた群青の空をとんぼの群れが横切り、山のほうへと去っていく。それを追うようにふらふらと歩き出そうとすると、くい、と背後から飾り紐を引かれた。
「おつかい、ご苦労さま」
微笑まじりに軽いねぎらいの言葉をかけられる。けれどさっきの気分を尾に引いたまま、不機嫌そうな顔でなんとなく俯いてしまうと、
「だからもー可愛いってば」
と適当そうなかんじで言われた。それで嬉しいわけがない。
「ごめん、ほら機嫌直して」
とはいえ、そうやってなだめるように頭を撫ぜられるとだんだん表情が緩んできてしまうのはやっぱり現金というものなのだろうか。
憮然としているのに耐えられなくなって桜はきゅうっと目を瞑ると、撫ぜられるがままになる。――だって早く帰って雪瀬に会いたかったのだ。褒めてもらいたかったし、頭を撫ぜてもらいたかったのだ。
「あのね、」
桜ははい、と大事に抱えていた包みを雪瀬に渡す。符二十枚。今日のおつかいである。
「ん。ありがと」
そう言葉をもらったとたん、胸が温かいもので満たされた。うん、と桜は夕暮れの優しい空気に融けいるように淡く微笑をこぼす。
「ただ、いま」
その言葉は帰ってきたんだという安堵の中、ごく自然に漏れた。
ひとりで雨の中毬街を歩き回っていたときは本当にもう帰れないかと思ったのだ。すごく不安だったし、心細くてたまらなかった。だから、今こうして雪瀬のもとへ帰れたこと、とても嬉しい。
「ただいま。雪瀬」
「――……え、あぁ、うん。…おかえり」
顔を上げて目を合わせれば、雪瀬は虚をつかれたようにひとつふたつ眸を瞬かせた。その表情が見慣れないものだったので、桜は何かおかしいことを言ってしまっただろうかと考える。ただいま、がいけなかったのかな。使い方、間違ってたかな。
失言をしてしまったのかもしれないと思うとどうにもいたたまれず、桜はぎこちなく視線を彷徨わせてから、困って身を翻してしまおうとする。
しかしそれを遮るようにそっと腕を取られ、引き寄せた肩にふと頭を乗せられた。さわさわと足元で揺れる曼珠沙華と一緒に、柔らかな濃茶の髪が風にそよいで首筋をくすぐる。
「雪瀬?」
いつもとは異なる少年の様子に驚き、桜はおずおずと袖端を引いてみる。
「どうしたの?」
「うん」
「……からだ、具合、わるい?」
「……うん」
朴訥と呟かれた言葉に、桜は「ほんとに?」と声を上げた。どうしようと意味もなくあたりを見回してから、まず身体を離そうとすれば、それを嫌がるように腕に添えられていた手が下りて、桜の手を握りしめる。
「嘘、悪くない、ごめん」
すぐ耳元で聞こえた声は身体にじかに響くよう。どこか落ち着かない気分になって、桜はせわしなく眸を瞬かせた。花の咲き殻をそっとすくいやるような優しさで指を絡められ、思わず息すら、ひそめてしまう。
風がふわ、と残滓を置いて止まった。
「おかえり。おかえり、なさい」
息がぜんぶ、止まる。
思わず戸惑ってしまうほど、かけられた言葉はまっすぐに過ぎた。
何故だろう、胸がひどく痛む。そんな悲しそうにおかえりなんて言うひと、桜は知らない。
「雪、」
「――さて、と。じゃあ帰ろっか」
繋がれた手は握り返すことが叶う前に、ぱっと離されてしまう。顔を上げたときには雪瀬はすでにいつもの調子に戻っていて、さっさと足を返してしまった。
夕影に染まるその後姿を目で追ってから、桜は手のひらへ視線を落とし、そっとこぶしを作る。手の中に残った微かな体温を失いたくなかったのだけど、桜の気持ちとは裏腹にそれは次第薄らぎ、儚く融けて消えた。
睫毛を伏せ、桜はうっすらと頬を朱に染める。そのとき確かにくゆった甘い香り。固く閉じた蕾がはずみ綻びかけたときのような。
幼い少女はまだ胸焦がすその想いの名を知らない。
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