二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 十、


 ここが結界内である、というくらいのことは瞬時にぴんと来た。
 が、それが何であるのかわかるのとそれを解くのとはわけが違う。
 四隅の×印を見つければ、手っ取り早く済ませられるのだが、あいにく目立つ色の墨汁で描くほど相手も阿呆ではない。ぐるりとあたりを見回すが、やはり目当てのものは見つからず、雪瀬はやれやれと首の後ろに手をやった。

「ああもー何でこんな面倒なことに……」
「とても深刻な事態だと思いますよ」
「そうだよ、深刻なことこの上ない。このままじゃ俺と暁、数日後には餓死しちゃうしね」
「いえ、真砂さまを見失う、という意味で」
「……知ってマス」 

 律儀というよりは、ほとんど天然の真面目さで返答してくる青年に、こんな奴が子守役であったのにどうして自分たち兄妹はああもひねくれたんだろうと、少しばかり不思議な気分になった。やはり環境かなぁ。
 よいしょと雪瀬は腰をかがめ、未だ転がったままの鞘を拾う。
 と、不意に青年がけほけほと小さく咳を繰り返し始めた。

「暁?」

 振り返れば、暁は苦しげに眉根を寄せ、脇腹を手で押さえている。暁、ともう一度声をひそめて呼びかけると、だいじょうぶです、と青年は弱々しく笑みを返した。

「もしかして月詠にやられたとこ?」
「……ええ。普段は支障ないのですが、いまだに急激に走ったりなどいたしますと痛む」
「平気?」
「平気です」
「――……つき合わせて、ごめんね」
「私の望んだことですから」

 壁に背を預け、暁は緩く首を振った。
 死者を大量に出した空蝉襲撃のあの夜のことはいまだ思い出すにつけ、苦い気持ちが胸にうずく。あれだけの護衛をつけていたにもかかわらず、あの場で生き残った者といえば、自分と暁くらいだった。

「私は運がいいほうです。あのときは、……本当にたくさんの同胞を失いましたから」
「……ん」
「そんな顔をなさらずに。本当に運がよかったと思っているのですよ。あのときの襲撃のおかげで今こんな仕事につけているわけですし」

 内通者は空蝉の元へ月詠を手引きできえた人物であり、また混乱に乗じて月詠をあの場から逃がせた者であると考えられていた。そのため当初は暁もまた、あの場に居合わせたという理由だけで候補にあげられかけたのである。だが、彼の場合は月詠に襲われて深い傷を負ったという事情を考慮して外された。

「人生、塞翁が馬とはまさにこのことですよねぇ」
「確かに」

 拾った刀を腰に佩きながら、雪瀬はほぅと嘆息する青年の横顔をちらりとうかがう。伏せがちの深い青の眸には隠しきれない悲哀の色が滲んでいた。雪瀬は苦笑する。

「……大丈夫なんて全然思ってないくせに。暁は優しいな」
「さぁ、そうでしょうか」
「ん。それで素直。俺には無い部分だ」

 心のままに悲しむとか。喜ぶとか。怒るとか。雪瀬の感情は雪瀬自身からは一枚壁を隔てたような遠い場所にある。
 別に悲しまないわけでも、喜ばないわけでもないのだ。それでもそれらは強く雪瀬の胸を揺さぶるということがない、どこか冷めた感情であることも確か。もしや心が鈍くなったのだろうか、自分は。

「雪瀬さまは嘘吐きですからね」

 暁は老成じみた一笑を返した。投げかけられた言葉の真意がつかめず、雪瀬はいぶかしげに眉をひそめる。

「きっと自分をごまかすのもお上手なのですよ」
「……そうかなぁ」

 ごまかすなんてまるで素直でないだけのようではないか。
 何やらその言い草が腑に落ちず、むぅとなったまま返す言葉を考えていると、ちょうど先ほど拾い上げた鞘の影になっていたあたりに微かな地面の凹凸を見つけた。
 図形――いや、筆筋だろうか。
 わずかなくぼみを指でなぞり、雪瀬はそこに書かれていた文字をたどる。

「と、お、り、…や……?」

 何やら頭の片隅にひっかかるような文字並び。五文字目を読み取ったところでそれが何であったか思い当たり、あぁと呟く。自然、失笑じみた笑みが口端に載った。

「ほんと好きだねぇ、こーゆーくだらないもの使うの」
「は?」
「“とおりゃんせとおりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ”?」

 ――ちょっと通してくだしゃんせ
 ――ご用のない者通しゃせぬ

「暁。この歌問答、このあとどう先が続くか知ってる?」
「はぁ。いえ、私はあまり……」
「そっか、そうだよね」

 雪瀬とは違い、人形である暁がこの手の遊びを知らないのは仕方あるまい。

「俺はね、子供の頃よく遊んだ。これ、門を通りたい人間とその門を守る鬼とのかけ合いなんだけど、人間がこう続けると鬼は門を開けてくれるんだよ」

 ――この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります

 地面にそう文字を書き綴り、効果を試すように寸秒待つ。
 沈黙を続ける文字に、もしや間違えたろうかと疑心が頭をもたげかけるが、しかし次の瞬間、描かれた文字が燦然と群青色に閃いた。すぐ足元に風が巻き起こり、ぱんと空間が弾けるような軽い衝撃が空気を震わせる。

「やり、ましたか?」
「だといんだけども」

 雪瀬は風が吸い込まれていく方向へ鞘を放った。鞘は何に阻まれることなく綺麗な放物線を描いて地に落ちる。結界が解けたのだ。暁が控えめに感嘆の声を上げた。

「さすがですね、雪瀬さま」
「んー。それにしても……」

 袴についた埃を払い、雪瀬はあたりへと首をめぐらせた。運が悪いことに突き当たりから道は左右ふたつに分かれており、結界を解いたところでいったい桜と真砂がどちらへ行ったのかてんで見当がつかない。先に駆けていった暁も途方にくれた様子で首を振った。

「困りましたね。どちらでございましょう……?」
「しょうがない。暁、左で。俺右」

 ここはもう二手に分かれるしかあるまい。こうなったらとことん探してやる、と半ば意地になってきて雪瀬は言った。

「じゃあ夕暮れ前に臙井地区の門で落ち合うってことで」
「承知しました。――あの、雪瀬さま」

 言うや否や身を翻しかけた雪瀬を暁がためらいがちに呼び止める。

「うん?」
「桜さまのこと、心配ですか?」
「……全然。まったく」

 つい心にもないことを返してしまえば、暁は青の眸を弓なりに細めてくすくすと笑みを漏らした。

「素直になられればよろしいのに」
「俺はいつでも素直です」
「おや、てっきり雪瀬さまは嘘吐きなのかと思っておりましたが」
「時と場合によってはね」
「で、ございますか。――では、参りますね」

 恭しく頭を下げ、暁はさっと足を返す。いったい何が言いたかったのだか。若干呆れながら青年の背を見送り、別に心配なんてしてない、とこっそりごちて、雪瀬もまた歩き出した。
 つい風を放ったのはあれだ、真砂が道端で恥ずかしいことをやるからだ。






「刀を受け取りに参りました。名義は月詠」

 その名を告げた瞬間、店のあるじである男は顔色を変えてそさくさ店の奥へ引っ込んでいった。それを冷めた目で眺め、黒羽織に身を包んだ少女は人知れず息をついた。黒衣の占術師の名前はこのような都から離れた地でも効果覿面と見える。
 研ぎ直した大太刀を抱え、ほどなく駆け戻ってきた男に、彼女は法外ともいえる代金を払って太刀を受け取った。持参した布にくるんで、大事に抱え直す。

「月詠さまのご側近ですか」
「そういうことにも、なるのかしら。直接に仕えているのはこの国の帝になっているけれどね」
「帝……!」

 男は目をみはり、畏敬の念をありありと浮かべて彼女を見た。いちいち大仰な態度が鼻につく。彼女は柳眉をしかめて、これ以上不快な気分にさせられないうちに店を出ることにした。

「以後もどうかご贔屓に!」

 地面に頭がつかんばかりに深々とお辞儀をする男に背を向け、彼女は足早に歩き出す。――このような下賤な男のいる店、二度と訪れまいと今決めた。

 凍てつくような外気にさらされ、店の火鉢で温めていた身体は瞬く間に熱を奪われる。彼女はかじかんだ手へ白い息を吹きかけ、刀を抱え直した。少女の手に余る大太刀はずしりと重い。さりとて他ならぬ月詠の刀を他の者に取りに行くよう頼むわけにもいかない。


 とおりゃんせ とおりゃんせ
 ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ


 ふと無邪気な子供たちの歌声が耳朶を撫ぜ、彼女は目を上げた。
 隣接する裏長屋に空いた雀の涙ほどの土地に井戸があり、その前で小さな子供たちが遊んでいる。ふたりが手を上げて門を作り、ひとりがその前に立って歌問答を繰り広げていた。眩しそうに目を細めてそれを眺めていると、

「お姉ちゃんも入るー?」

 こちらに気付いたひとりの少年がとことこと駆け寄ってきて彼女の袖を引いた。年の頃は十かそこらであろうか。屈託のない笑顔に懐かしい面影が自然重なり、彼女はふわりと笑みをこぼす。

「……私もよく、遊んだわ」
「じゃあ歌い方わかるね! やろー!」
「ううん。ごめんね」

 首を振れば、少年は見る間にしゅんと肩を落としてしまう。彼女は苦笑し、ありがとうと言って少年に輪に戻るよう促した。少し惑うた様子でこちらを振り返りつつ、後ろから呼び声がかかると、少年はやがて輪のほうへ駆け足で戻っていく。それを見送って、彼女は歩き出した。そう、のんびりとはしていられない。このあと、彼女は馴染みの男と落ち会う約束がある。――“内通者”の青年だ。
 知らず沈む胸のうちを振り切るように固く目を閉じ、彼女はぎゅっと太刀を抱きしめる。
 そのとき、黒鳥居の向こうから微かな足音が聞こえた。
 何気なくそちらへと視線をめぐらせると、見覚えのある少女がそわそわあたりへ不安そうな目を向けながら歩いてくるのが見える。少女の予想外の登場に彼女は目を瞬かせ、やがて薄く、嫣然と笑った。


 行きはよいよい帰りはこわい
 こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ


 役者は揃った。
 さぁて、門鬼に捕らわれて帰れなくなる子供は誰だろう?