二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 十一、


 そこは別名葛ヶ原文庫とも呼ばれる。
 橘分家の屋敷内にある書庫のことだ。所蔵する本の量は宗家のそれをも上回り、広い部屋には整然と書物の収められた棚が並んでいる。これは先代の高早が武よりは文を尊び、各地からありとあらゆる書物を集めていた遺産ともいえよう。今の代の真砂はあまりその手のことに興味がなかったようで、資料収集はやめてしまったようだが、書物庫だけは屋敷の奥に変わらず放置されていた。
 書物を調べるなら、ここへ赴くのがまず基本である。

「ごめんくださいまし」

 柚葉(ゆずは)は分家の門を叩くと、書物庫に通して欲しいとの旨を家人に告げた。

「書庫ですか」
「ええ。実は『系書』を探しておるのですが、心当たりあります?」
 
 系書というのは、かつて楽城一族が編纂した各地の一族にまつわる系譜が掲載された書物である。雪瀬に白雨一族について調べるよう頼まれた柚葉は原典である『系書』を求めて分家に足を運んだのだった。

「系書ですか。それなら確か当主さまが持っていらしたかと……」
「真砂さまですか」

 真砂が朱表紙以外の本を読んでいるとは珍しい。
 そうですか、とうなずき、柚葉は真砂の部屋に案内してくれるよう家人に頼む。勝手にあるじの部屋に通してしまってよいものか、と家人はしばらく考えたようであったが、「真砂さまには前もって許可をとってありますゆえ」と柚葉が可愛らしく微笑って告げると、鼻の下を伸ばしてへこへこと頭を下げた。この家人、あるじと似て女好きと見ゆる。



 それにしても、橘真砂というのは柚葉の中でも飛びぬけて不可思議に部類されるひとだった。
 幼い頃、一度かのひとに手を引かれ、異国船見物に連れて行ってもらったことがある。昔から面倒見がよいとは言いがたいひとであったのでいったいどういう風の吹き回しだったのかいまだに謎なのだが、そのときの記憶は今も柚葉の脳裏に鮮明な色合いをもって蘇った。

『これが――』

 目の前に広がる海原を見渡し、小さな柚葉は細く息をのむ。
 青い海にぽっかり浮かぶ大きな船があった。陽の光に白い帆が反射し、水面を映してきらきらと輝く。それを小高い丘からひとびとが集まって見ていた。ひそひそと交わされる言葉には好奇や恐れの感情が入り混じっている。柚葉も例にもれず、もしもこの船が襲ってきたらどうしようと幼心に不安に思い、真砂の手をぎゅっと握り締めた。

『あれに乗ったらどこまで行けるかな』

 ふと独り言めいた呟きを少年が漏らした。
 柚葉は目を瞬かせて、少年を仰ぐ。真砂は濃茶の髪を風にそよがせながら、目を細めてまっすぐに異国船を見つめていた。
 どこまで行けるだろう、ともう一度呟く。
 彼ひとりが周りと違うものを見、違うことに思いを馳せていた。柚葉は上の兄とは違う意味でこのひとはひととは違う道をたどることになるのではなかろうかと何とはなしに考えた。



 件の系書は飴玉だの朱表紙だの鳥笛だのが散乱している文机の脇にひっそり置いてあった。朱表紙〜人妻の章〜とかいうなんだかいたく卑猥そうな題名の草紙をどけると、柚葉は文机の前に座って系書を開く。
 五年前に一度欠損した系書は、当時の長老たちによって復元がなされていた。橘、百川、網代などの一族を飛ばし、柚葉は白雨一族と書かれた項で手を止める。
 家系図には初代白雨とあり、二代、三代、と八代までいったところで途切れていた。ここで白雨一族は当時の朝廷により討たれたのであろう。
 末は白雨黎(れい)、鵺(ぬえ)、槊(さく)とある。
 槊が長子であるようだが、一族の当主についたのは弟の黎であるらしい。鵺と黎は十四と十五で死んだことになっており、槊という人物に関しては消息不明となっていた。

「消息不明、ですか……」

 そういう書き方もまた珍しいな、と思う。黎が当主についたことも考えると、槊はその前に行方をくらましていた可能性が高い。ではまさか今も生きている、ということはありえないだろうか。
 ふぅむ、と柚葉は思考をめぐらし、しかしこのような情報の断片だけではどうにも考えがまとまらず、頭を振った。とにかくありのままのことを兄に話そうと思って系書を閉じる。本をもとの場所に戻そうとするが、誤って積み重ねられた書物を倒してしまった。

「もう、こんなに積み上げますから……」

 柚葉はぐちりつつ、書物を積み直す。と、朱表紙〜人妻の章〜と書かれた本から一枚の紙が滑り落ちた。

「風見月二十日、氷鏡藍……?」

 紙には汚い蚯蚓ののたくったような真砂独特の字で端書がされていた。いぶかしみながらそれへと目を落とし、柚葉は眉をひそめる。
 紙には細かに、次の月の十五日夜、長雨月五日、十七日、紅葉月一日などの日付が連ねられている。そのどれもに氷鏡藍の名があった。日付だけを見れば、三月ほどに渡って真砂は彼女と会っていることになる。

「それにしても藍さまとは……」

 氷鏡藍は五年前、黎とともに行方をくらました少女だ。兄の雪瀬がひどく懐いていた少女。何故彼女に今頃真砂が会っているというのだろうか。
 柚葉は首を傾げ、紙を系書へ戻した。






 連なる黒鳥居を抜け、やがて目の前に現れたのは、縦に並ぶふたつの長屋と、その間を通る路地を塞ぐようにたたずむ木の柵だった。桜が一歩踏み出そうとすれば、柵の前で番をしているらしい青年が槍を突き出し、ぎろりと鋭い視線を桜へ向ける。

「その名は?」

 低い声で尋ねられ、桜はきょとんと眸を瞬かせた。

「その名は?」
「……わたしの名前?」
「その名は?」
「さくら?」

 答えたとたん、青年が無造作に槍を薙いだ。驚き、桜はとっさに後ろへ飛びのく。ひゅ、と空を切り裂き、それまで桜のいたところへと槍が大きく弧を描く。当たればひとたまりもなかったであろうが、青年にとっては桜の命など取るに足らないことなのか、むしろ口惜しそうに舌打ちし、空ぶった槍を地面に付けた。
 数歩先で居すくまりながら桜は青年を仰ぐ。青年はそれ以上は攻撃してこなかったが、警戒を解いていないのはいからせた肩を見ればわかった。どうやら近づいたら攻撃は辞さないということらしい。

「あの……、」

 しかし今日の桜はそれくらいでたやすく引き下がったりはしない。せっかく外に出られたのだ、目的地を目の前に背を向けてたまるか。
 果敢にも青年に向き直り、桜は口を開いた。

「通して、……くだ、…下さい?」

 ひとにものを頼むときには敬語を使うもの、という知識を思い出して、ぎこちなく“下さい”を続けると、青年は少し眉をひそめた。けれどそれっきり何も言わないし、動きもしない。何なのだろう、このひとは。人形ではない、よね?
 考えたところで思考はすぐに行き詰まり、もういいや強行突破だ、と桜は猛然と走り出す。だが、男の間合いに入ったとたん、また槍が薙いだ。

「その名は?」
「んと、」
「その名は?」
「……わから、」
「その名は?」
「…ない……っ」

 頭上から振ってくる槍から逃げながら無我夢中で叫ぶと、ぴたりと攻撃がやんだ。男は無表情のままに槍を下げ、柵についた木戸を引き開ける。その先には昼にもかかわらず薄闇に包まれた細い路地が続いていた。
 何故開けてくれたのだろうか。青年と道とを交互に見比べ、首を傾げていると、彼はまた木戸を閉じてしまおうとする。時間制限つきだっ、と桜は慌てて青年の横をすり抜けた。
 背後でかたんと閉じられる木戸の音を聞きながら、桜は握り締めていた紙に目を落とす。


 まりまち はいやみくつ むみょう
 毬街   灰闇窟    無名


「む、みょう……」

 名(みょう)が無い。すなわち名無し。
 青年の謎かけの意味を理解し、桜はほとりと手を打った。
 ――難しい。無名ももっとわかりやすく書いてくれればいいのに。
 紙を裏返し、今度はただ、十四と四とだけ記された文字を見て桜は眩暈がしてくるのを感じた。じゅうし、と、し、というのは読める。けれどいったい十四と四がなんなのだ?

「住所、かなぁ……」

 瀬々木の家にも番号のようなものがついていたのを思い出し、桜は呟いた。下水の流れるどぶをよけて歩きながら、左右の長屋についた腰高障子へ視線を走らせる。何か手がかりはないかときょろきょろ見回していれば、手前からちょうど十四番目の障子に「無名」と書かれていた。
 紙を取り出して確認する。むみょうだ!

 駆けて行って障子戸の前で息を整えると、桜はそろそろと薄汚れところどころ破れたりしている腰高障子を仰いだ。動物的な勘で、あ、と思う。ひとの気配、ある。

「むみょ――」

 刹那、障子戸に張ってあった和紙が破られ、槍がぬっと飛び出てくる。声のない悲鳴を上げて桜はあとずさった。いくら桜とて、障子から槍が出てくるとは思うまい。

「誰だ」

 障子戸を隔てたせいで若干くぐもった声が尋ねた。しかしその朴訥とした、低い男の声には確かに聞き覚えがある。

「むみょう」
「ああ?」
「無名でしょう?」
「――……おまえ」
 
 槍が一度引っ込んだ隙に桜は障子戸を引き開け、中へ駆け込む。硝煙の匂いがむっと鼻についた。木箱に置かれた蜜蝋だけが唯一の光源であるその狭い室内には三十がらみの巨漢の男がひとり槍を持って立っている。

「無名――……」

 普段はあまりはっきりとした表情の乗らない桜だったが、そのときばかりはありありとした喜びの色が宿った。くしゃりと表情を崩し、桜は男に飛びつく。

「むみょう」
「おい、くっつくな」
「むみょう」
「くっつくなと言っている」

 ふぇ、と嗚咽を漏らしてからあとは手放しに泣き始めてしまう。
 だってこのひとに会うのももう半年くらいぶりなのだ。
 無名。
 ――かつて桜を宮中から手引きし、逃がしてくれたひと。