二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 十二、


「障子戸は四回叩けって書いておいただろう」

 桜が泣きやむのを待って衣を離すと、その男――無名(むみょう)は槍を壁に立てかけ、机代わりにしているのだろう木箱に腰を下ろした。
 桜は泣き濡れた眸をこすりながら、首を振る。紙には四と記されているだけで、『障子戸』とか『叩け』なんて言葉はひとつも見当たらなかったではないか。

「それくらい察しろ」

 それくらい書いて。
 じろりとする表情で桜の心中が読み取れたのか、無名は苦笑し、切りかけになっていた茄子と小刀を手に取った。一口大くらいに切って、足元に無造作に置いてあった竹かごの中に放り込む。中には小さな黒い虫がいた。

「しかしよくここまでたどりつけたな」
「……ん」

 桜は竹かごへ向けていた視線を上げ、少し自慢げに胸を張る。今日は桜、わりと頑張ったと思うのだ。男は眉間を和らげ、そこへ座れとでもいうようなそぶりをした。

「――それでここに訪ねて来たということは何かあったか」
「じゅうだん」
「……ああ、切れたか」

 桜の単語だけを並べるわかりにくい言い回しからも無名はすばやく意図を汲み取ってうなずく。このひとが洞察力に優れているということもあるのだろうし、宮中にいた頃――今よりさらに言葉がつたなかった桜の相手を楽々とこなしていたという経歴ゆえもあるのだろう。

「わかった。ここで少し待ってろ」

 無名は茄子と刀を置いて腰を上げると、奥に引っ込んでいった。


 ――無名との付き合いは二年ほど前に遡る。
 縫(ぬい)という青年が桜の前に世話係として現れて、それから当時朝廷御用達の武器職人をやっていた無名が友人である縫に会いにちょくちょく訪ねてきたのがきっかけだった。

『ほら、無名。この子が今僕がお世話しているお嬢さま』

 桜の髪に花飾りを添えながら自慢げに言った縫を見て、無名はほんの少し顔をしかめる。それからずずいと桜の鼻先へ顔を寄せ、

『これは、女か?』

 と言った。桜がぱちくりと目を瞬かせると、『女だ』とひとり得心がいった様子でうんうんうなずく。桜が言うのもなんだが、そういうどこか変わっているというか浮世離れしたところのあるひとだった。
 縫が死んだあと、桜に宮中から逃げ出すよう言ったのも無名であり、実際に外への手引きをしてくれたのも彼だ。仕事を片付けたら彼自身も都を去るのだと言っていたが、どうやらこちらへ居を構えたらしい。

「しかしよかった。あと十日ほどでここからも引っ越そうと思っていたところだったんだ。お前は運がいい」

 何かをひっくり返したりあさったりするような物音を立てつつ、無名が奥から声をかける。竹かごに額をくっつけるようにして虫を見ていた桜は、「引越し?」と奥に向かって尋ねた。

「あぁ。ここは昔から使っている仮住居みたいなものだからな」
「かりじゅーきょ」
「隠れ家みたいなもんだ。訳ありの奴が集まる。――出入り、やけに厳しかっただろう?」

 問答無用で槍を振ってきた青年のことを思い出し、うんと桜はうなずいた。

「中央の監査が入ったらひとたまりもねぇからな」

 無名は腕に抱えた刀剣類を一度畳に置くと、また奥へ消えた。
 それきり会話が途絶え、木箱に腰掛けたまま桜は手持ち部沙汰に足を抱え、あたりへ目をやる。昔から、という言葉だけあってかなり古い家であるようだった。畳は色褪せ、藺草がほつれてしまってる。箪笥なども傷がたくさんついていた。

「だめだ、残ってないな」

 ほどなく頭をかきながら男が戻ってきた。

「ない?」
「ああ。だが、明日都から商船が来るから――数日あれば手に入る」
「すうじつ」

 数ヶ月といわれたわけではないのでよいほうなのだろう。
 わかった、というようにこくりとうなずくと、桜は襟元から蘇芳の財布を取り出す。桜の今の全財産だ。

「おかね」
「ほう、よくそんなもん持って来れたな」
「物買うときはお金払うって教わったの」

 押し付けるようにして財布を差し出すと、無名は乾いた表情でちらりとそれへ一瞥を送る。その眸にほどなく苦いものが滲んだ。

「……なぁ桜」
「うん?」
「その教えてくれたひととやらは貨幣の価値については教えてくれなかったのか?」
「かへー?」
「銅貨二枚と、鉛一枚」
 
 財布がひっくり返されれば、貨幣が木箱の上にばらまかれる。赤茶色をしたものと燻し銀に似た色をしたもので、あわせて三枚。
 無名はそれを丁寧に拾い上げながら、複雑そうなため息をついた。

「これでは茶を一杯と菓子ひとつくらいしか買えないぞ」
「……お菓子より銃弾、高いの?」

 きょとんとして問い返せば、「は?」と無名は呆けた表情でしばし絶句した。
 桜からすれば、食べられるしおいしいお菓子のほうがずっと高価であるような気がするのだが。うーんと考え込んでいると、ああ銃弾は食べられないもんな、と無名は失笑した。

「わかった。昔のよしみだ。茶と菓子で請け負った」
「……ほんとうっ?」
「ああ。約束はたがえない」
 
 男はきっぱりとうなずく。ほっとして桜が笑みをこぼすと、「……茶と菓子でも食べていくか」と無名は頬傷をかきながら言った。




 熟れた桃を丸ごとひとつと、どんぶり茶碗になみなみと満たされたお茶が差し出される。何と豪快な、とこれが雪瀬あたりだったならば若干眉をひそめたであろうが、あいにくと桜にはその手の常識なるものは存在しなかったので、ただ、ぜんぶ飲めるかなぁとどんぶりを見つめて思った。

「今、どこに身を寄せているんだ?」

 両手でも手に余りそうな桃に口をつけていると、対面で煙管に火をつけながら男が問うてきた。

「くじゅがひゃら」
「飲み込んでからでいい」
「ん、――……葛ヶ原。むみょう、知ってる?」
「知ってるも何も、隣だからな。そこでよいひとに世話になったか」
「うん、雪瀬。大切。大好き」

 桜は脳裏にかの少年を思い描いてぽつぽつと説明を加える。
 そうか、と何やらくすぐったそうに無名は頬傷をかいた。頬傷をかくの、このひとの癖らしい。

「ちゃんと食わせてもらってるか」
「うん」
「よいものも……着させてもらってるな」
「うん?」
「髪も肌も綺麗だ」

 無名は仏頂面に少しだけ優しい笑みを載せる。綺麗、というがそれは少女に対する純粋な賛辞というよりも犬猫の毛並みがよいとかそういうほうに近い。どちらにせよ、それで恥ずかしがったり嬉しがるような年頃の娘らしさを桜は持ち合わせてはいなかったので、「うん、キレイ」と髪をひと房持ち上げながらうなずいた。
 葛ヶ原では宮中よりもたくさん湯浴みができるのだ。それに寝るときはいつも温かい布団に横になれる。眠れないときでも雪瀬のもとへ行くと、決まって背中に腕を回して安心させるようにぽんぽんと叩いてくれるのだ。桜は少年の胸に額をくっつけて、水とお日さまの匂いを感じながら眠りにつくのが好きだった。
 ――そういえば雪瀬、最近一緒に眠ってくれない。

「よかったな」
「え、」

 一拍遅れてから、無名が先の話について呟いたのだとわかった。おもむろに大きな手が伸ばされわしゃわしゃと桜の頭を撫ぜる。桜は身を強張らせてから、やがて眸をうっすら細めてくすぐったそうな表情をする。髪を撫ぜてもらっているうちに胸に沸いた疑問は氷解してしまった。桜はこくんと首を縦に振る。とにかく、“よかった”のだ。


 時間をかけつつ桃をひとつたいらげてしまうと、桜はありがとうとお礼を言って木箱から腰を上げた。

「帰るのか」
「うん。三日後?」
「わかった。待ってる」

 それにしても今回は真砂が機転を利かしてくれたから外に出られたが、次はどんな理由を使えばいいだろうか。そんなことに一抹の不安を覚えつつ、まぁどうにかなるだろうと存外楽観的に考えて桜は障子戸を引きあけた。

「次来るときはあいつも何も言わずに木戸を開けてくれるはずだ」
「うん」
「じゃあ、気をつけてな」

 ぽん、と背を押されて外に出される。

「無名」
「おう」
「ありがとう」

 男を振り返ってふんわり微笑むと、無名は灰色の眸をひとつ瞬かせた。それから自嘲気味の笑みを口元に浮かべて、眩暈でも起こしたようにこめかみに手をあてがう。

「……似てるな」
「にてる?」
「縫に。微笑い方」

 朴訥と答えると、「――そんな顔をするな」と表情を変えたこちらを見て無名が言った。

「よかった。これで縫も浮かばれる。……そう思っただけだ」

 そう言い添え、無名は早く帰れというように後ろ手を振って障子戸を閉めた。



 何百もの黒鳥居の連なる道は複雑に曲がりくねっているせいで、すぐには出口を見通すことができない。
 改めて眺めるとどことなく不気味な様相を呈している道である。無名の家から小道を引き返した桜はちらと背後の木戸番の青年を振り返ってから、覚悟を決めると鳥居の入り口へ足を踏み入れた。

 光が遮られているせいで中はいっそう暗い。
 黒塗りの鳥居から差し込む光がまだらに足元に影を落とす。どこかひんやりした空気のたゆとうている鳥居の中を桜は足早に歩いていった。閉塞感のようなものが胸を覆い、早く出てしまいたい、とひたすら思う。

 ――そこかしこに人間の顔をした化け物がいるので。
 見分けられないようなひとは取って喰われてしまうのです。

 そんな言葉がふと脳裏に蘇った。どうしてこんなときに、と桜は眉根を寄せ、ぶんぶんと彼の言葉を追い払うように力いっぱい首を振る。大丈夫、あれは雪瀬のいつもの“嘘”だ。化生なんて出ない。大丈夫。

 気付けば、息がずいぶんと上がっていた。黒鳥居は走っても走っても同じように並んでいるだけで未だ終わりが見えず、まるで迷路に迷い込んでしまったかのような気分になる。心臓が早鐘を打ち、うっすら眦に涙が滲んでくる。ちりんちりんと巾着についた鈴を鳴らしながら、桜は鳥居の下を走った。
 さっと日が翳った。視界が急に暗くなり、足元の影すら闇にのまれて消える。桜は身を強張らせ、鈴と金魚のついた巾着袋をぎゅっと抱きしめた。
 ひぃ。ふぅ。みぃ。
 自分を落ち着かせるように胸の中で数え上げていく。だが、とぉまでいっても何かが起こる気配はなかった。ほっと息をつき、桜は肩に張っていた緊張を解く。

「奇遇、とはまさにこのことかしら」

 緩みかけていた背が張り、心臓がずくんと跳ね上がった。耳朶に冷えた吐息がかかる。背後から肩を引き寄せられ、桜は身体を震わせた。

「や、――」

 身をよじって肩をつかむ手を払い、背後の相手へ向けて銃口を突きつける。
 眼前を漆黒の羽織が翻った。黒の地に白く染め抜かれた花紋――帝を表す紋様だ。鮮やかな対比をなす黒の衣に身を包んだ少女は胸に突きつけられた銃口へ視線を落とし、眸をすっと眇めた。

「おやおや、可愛らしいお顔で恐ろしいことをなさる」

 恐ろしいと口にしながらもその表情はてんで変わらず、どころか紅を刷いた唇には未だ微笑の残滓が浮かんでいた。少女の面影に既視感を覚えて眉をひそめ、桜は思わず息を呑む。

「あ……」

 既視感など。否、忘れるわけがない。艶やかな濡れ羽色の髪も、黒羽織の間からのぞく白磁のごとき肌理細やかな肌も。長い睫毛に縁取られた眸はどこか虚ろな光を宿し、それが弓なりに細められるといつも背筋がぞっとした。

「どうやら覚えておられたご様子」

 こちらの表情を見取ると、少女は紅の唇をゆがめて微笑う。
 にわかに身体から血の気が引いていくのがわかった。


 瞼裏にかつての光景を思い描く。
 光のない部屋と、湿った床。牢の錠が落ちる生々しい音がすると、老帝のお呼びがかかったことを告げる女官が決まって蜜蝋を持って現れる。――あのひとだ。