二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 十三、


「おっかしいなぁ……」

 雪瀬は膝に手をつき、ふへーとどうにも情けない息をつく。
 暁と別れ、毬街の裏通りを文字通り“東奔西走”したが、あいにくも真砂の姿は影も形も見当たらない。結界は四半刻ほどで解いたはずなのでそう遠く離れてはいないと思うのだが、入り組んだ毬街の小道は迷路のようで、そこから真砂を見つけ出すのは困難であるようにも思えた。

 一休み、と壁に背を預け、雪瀬は暮れてきた陽を仰ぐ。
 蒼い空はいつのまにか薄曇に覆われ、赤光がどう屈折したのか、空は不気味な紫色へ染まりつつあった。
 日が完全に沈みきってしばらくすれば、毬街の臙井地区の門は閉ざされ、夜明けになるまで毬街から外へは出られなくなってしまう。そうなれば必然宿を探さなくてはならなくなるし、何かと面倒だ。今日のところは諦めて引き上げたほうがいいのではないかという考えが先ほどから何度も脳裏をよぎるのだが、いまだどうしても踏み切れずにいるのはひとえに奴の隣にかの少女がいたせいかもしれない。
 桜は夜になると門が閉じることは知っているのだろうか。葛ヶ原への帰り方は? 万が一門が閉じたときは宿に泊まることは思いつくだろうか。もしも野宿なんかして前みたいに人買いに捕まったら、と思うとそわそわと落ち着かない気分になってくるのだ。いったいどれだけ過保護なのだ、とここに扇がいたらば笑っていたであろうが、雪瀬は真面目である。というか、桜のほうに心配をさせるだけの前科があるのだから仕方ない。

「お兄さん、女難の相が出てるね」

 いつの間にやら思考に没頭していた雪瀬は「……へ?」と間の抜けた声を漏らして、伏せがちだった顔を上げた。

「女難?」

 声のしたほうを探せば、立ち食い蕎麦屋のような小さな屋台に老婆がちょこんと立ち、薄笑いを浮かべてこちらを見ていた。

「そう、お兄さん、業が深い。ひとの繋がりが切れないたちだね。これではなかなか幸せにもなれなかろう」

 出会いがしらになんとも不吉な占いをしてくださるものである。雪瀬は壁から背を離して道に立つ老婆のほうへ足を向けた。屋台にはうらない、と書かれた行灯がおざなりに置かれていた。光は灯っていない。

「ふぅん、それで? 探しものは見つかるかな」
「見つかる」
「へぇ?」

 言い切るか。
 雪瀬は口端に薄く笑みを載せる。これはよほど腕のある占い師か、あるいは相当のほら吹きのどちらかであろう。面白い。

「でもお兄さん、今日はこのまま帰ったほうがいいね。よくないことが起こるよ」
「よくないこと、ねぇ……」
「おや、信じてないね」
「半々かな」
「まぁいい、あとでわかるから。お兄さん、今日はよくないよ」

 老婆は黄色い歯を見せ、ひっひと嗤った。
 占いごときで心を乱すほど素直ではないが、とはいえ、よくないよくないと言われたらさすがに愉快でもなくなってくる。む、と雪瀬が眉をひそめていれば、老婆は笑いを止めて長い指を遠方へ指した。

「さぁてお兄さん、最初の災いが来た」
「……あのねぇ、」
 
 これはほら吹きで決定だ。付き合いきれなくなってきて嫌々老婆が指差し方向を肩越しに振り返れば、狙ったとしか思えない頃合で人影がひとつ現れた。男の羽織った衣の色を見て雪瀬は表情を消す。――漆黒衣。よりにもよって朝廷直属の兵だ。災いどころか、雪瀬が橘一族であると露見すれば即お縄である。

「お、おばあさん、隠して」

 雪瀬は腰に佩いた刀を取ると、慌てて店の内側に回って腰をかがめる。ふぅ、と屋台に背を預けて老婆を仰いだところで雪瀬は危うく後ろに飛びすさりかけた。――ない。あるはずの足がない。
 霊だったのである。この老婆。
 こちらの驚きぶりが見て取り、ひっひと薄気味悪い笑い声が頭の上からした。こいつ、と老婆をつねってやりたくなるが、肝心の身体がないのでどうしようもない。まぁ霊ならば間違っても黒羽織を呼び止めたりもできないので好都合といえば好都合だったかもしれない。雪瀬は屋台の中で小さく丸まると、黒羽織が通り過ぎるのを待つ。
 すぐに隠れたことが幸いして、男がこちらに気付く気配はなかった。どうにかやり過ごせそうだ。ほっと安堵の息をつく雪瀬のかたわら、まるでつかの間の平穏を打ち破るかのようにその歌は聞こえてきた。

 ――とぉーおりゃんせ、とおりゃんせー。こーこはどぉこの細道じゃ、真砂さまの細道じゃー

 とっさ雪瀬は吐き出しかけた息をつまらせた。誰が歌っているかなんて見なくてもわかる、だって名乗ってるもん。
 膝立ちをして屋台に手をつき、雪瀬はそろりと黒羽織の背中へ目をやる。その対面から真砂がのんびり鼻歌を歌いながら歩いてきていた。
 ――気付いてんのあいつ。
 雪瀬は苛立ち、なんとか屋台の中から青年に黒羽織がいることを身振り手振りで知らせようとする。だが、だめだ。全然こっち見てない。

「――……あの馬鹿、」

 黒羽織が真砂に気付いたとき何が起こるか、想像はたやすい。どうかただの変人と素通りしてくれればいいのだけども。
 万が一のために雪瀬は刀を引き寄せ、柄へと手をかけた。

「あ」

 黒羽織とあと数歩の距離となったとき、初めて真砂が驚いたような顔をする。そこでどうしてそういう大仰な表情をするのだ、と雪瀬がはらはら見守っていると、

「おーっす、こんにちはー」

 真砂はぱっと笑みをほころばせ、親しげに黒羽織に向けて手を上げた。
 ――馬鹿だあいつ!
 衝動的に叫びたくなってしまってから、雪瀬はふと怪訝の強い色合いを眉間に載せる。いくら真砂とはいえ、黒羽織に挨拶などするだろうか。何かが噛みあっていないような違和感が胸によぎる。

「待ち合わせ場所、ひとに聞いたんだけど見つからなくてさぁ。ずっと探してたんよ。会えてよかった。――それで、“彼女”は?」
「所用があって遅れていると伝えるよう言い付けられた」
「ふぅん。あっそう」

 真砂は腕を組み、壁に背を預ける。

「なんだ、せっかく雪瀬まいて駆けつけたのになぁ。ざーんねん」

 ――いったい真砂は何を話しているのだ。
 雪瀬は目の前で展開される状況についていけず、不審を増すばかりだ。これではまるで真砂があちら側と面識を持っているかのような口ぶりではないか。
 そこまで考えが至って雪瀬は細く息をのんだ。まさか本当に面識があるのか。だとしたら真砂は。

「じゃあまた夜に。――邸で」

 何かひとの名前のようなものが交わされたらしいが、あいにくそこまでは聞き取ることができなかった。
 真砂は終始無愛想のままできびすを返す黒羽織をいつものにやついた表情で見送ると、やれやれと頭をかいた。それから気を取り直したようにまた鼻歌を口ずさんで歩き出す。
 青年が眼前を通り過ぎていく。

「真砂」

 その足がぴたりと止まった。

「おーや、誰かと思いましたら……」

 屋台から出てきた雪瀬を見やって、真砂はひとつ眸を瞬かせる。ほどなくいつものにやついた笑みを口元に宿すと、屋台に腕をついた。

「なぁーにやってんの? かくれんぼ?」
「真砂。今の、何」

 対する雪瀬の声は硬い。

「何って聞かれてもなー。雪の字くんは俺の交友関係にまで口を出しますか。詮索好きやね」
「それとこれとじゃ話が違う」
「あぁもしかして桜サンのこと根に持ってんの? 見苦しいぜー、男の嫉妬って」
「そうじゃなくて、」

 どうしてこいつはいちいちこちらを苛立たせるようなことを言うのだろう。相手の調子に乗せられないよう言葉を切り、雪瀬は慎重に切り出し方を選んだ。

「真砂は毬街に何しに来たの?」
「――新作和菓子を買いに来ただけですが?」
「さっきの黒羽織は何」
「さぁ」
「夜、なんとか邸に行って何するの?」
「さぁて」
「――……真砂は。橘一族だよな?」

 どこかすがるような声が出た。舌打ちして雪瀬は口をつぐむ。そんなこちらの仕草を見て、真砂は一笑した。

「で、ないと言ったらどうしマス?」
「どういう意味……」
「べっつに。んじゃ俺、忙しいんで、もう行くぜー」

 真砂はひらりと手を振ってきびすを返す。

「待、」

 歩き去ろうとする真砂の腕をとっさに雪瀬はつかんだ。待った、という言葉はしかし口に上ることなく、胸のうちで消える。いったい何を言って、どうやってこの従兄を引き止めればいいのか。雪瀬は途方に暮れて、腕を握り締めたまま目を伏せた。
 そのとき、視界端で筆が動いた。
 とん、と筆先がこちらの左胸にあてがわれる。
 雪瀬は愕然とそれを見た。答えを求めて真砂を仰ぐ。真砂に表情はなかった。常に湛えられている笑みはするりと消えうせ、翳りを帯びた琥珀色の双眸が冷たくすがめられる。その気配には覚えがあった。――月詠である。男の面影を従兄に見た瞬間、まずいやられると雪瀬は直感した。そして何の疑いもなく間合いに入られた己を悔いた。
 筆先がすっと胸をなぞる。

「ばっきゅーっん」

 張り詰めた空気をぶち壊すような大きな声だった。
 
「隙あり、一本! へっへー、そんなんじゃあだめだめだねぇ雪瀬」

 きょとんと目を瞬かせたこちらへ真砂は不敵に笑う。

「ていうか、待ってって何。俺いなくなるのそんな寂しい? なぁ寂しいの雪瀬?」

 なぁなぁとうるさく騒ぎ立てて真砂はこちらの顔を覗き込んだ。うるさい、と雪瀬は逃げるように視線をよそにやる。とんだ失言をした気がしてきた。
 
「ふっふーん、雪の字は素直じゃないですなー。まぁいいや。――あ、そーだ。愛しの桜ちゃんは灰闇窟に行ったぜー? お迎えよろしくっ」

 筆をしまうと、真砂はすれ違いざまこっちの額を指で弾く。不意打ちを喰らい、ぱちくりとせわしなく瞬きをする雪瀬の顔を見てまたけらけら笑い、真砂は足を返した。

「真砂っ」
「――そう騒がずともお土産くらい買ってきてやりますとも」

 じんじん疼く額を押さえて、雪瀬は真砂を追う。と、思いっきり顔面を空中にぶつけた。っうー、と声にならない呻き声を上げて、雪瀬は地面にへたりこむ。
 やられた。また結界だ。
 
「いつのまに……、っておい、真砂これ解け!」

 力の限りに叫ぶが、真砂はひらひらと手を振って曲がり角の向こうへ消えてしまう。地面に膝をつき、雪瀬は歯噛みした。
 ――あいつ、結局何ひとつ教えてくれてないじゃないか!