二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 十四、


 この国の最高権力者さまのもとへ行くときは必ず赤い襦袢を着せられた。
 どうせ褥に入れば無理にでもはがされるのだから着飾っても意味がないだろうと桜は思っていたが、嫌がろうとするとかの女官に老帝さまは血のように赤い色がお好きなのだとたしなめられる。そして、あの方はお前の血のような眸の色をたいそうお気に召しているのだとも教えられた。

『血のような、ひとみ』
『そう、美しい眸をした小鳥ね』

 女官は籠の中に入った金糸雀を指で撫ぜながら桜に甘い笑みを向けた。たおやかな指先が桜のほつれた髪を丁寧に整える。不意に垣間見た虚ろな、それでいて悲しみを沈めた黒い眸がひどく胸についた。
 桜は女の眸に手を伸ばす。何故かはわからないが、ただ女の眸に心惹かれたのだ。“ウツクシイ”眸だと思った。触ってみたいと、できたら悲しみに沈む眸の色を明るいものにしてあげたいと。だが、届くことが叶う前に気付いた女が桜の手を取り、参りましょうか、と腰を上げる。桜はその手を握り返した。
 まいりましょう。
 ――他に行くべきところもない。



「お久しぶりね。お変わりないようで何より」

 少女は黒眸を弓なりに細めて、笑みらしきものをうっすら花色の唇に浮かべた。けれど透一のぱっと綻ぶような笑顔と異なり、そこに明るい色合いはない。微笑みを浮かべているにもかかわらず、まるで能面のごとき薄っぺらい表情であるように桜には見えた。このひとはまるで人形のよう、と桜は思う。

「あら、どうなさったの?」

 言い知れぬ恐ろしさのようなものを感じて、桜は近づいてくる少女から後ずさった。しかしすぐに鳥居の柱が背に当たる。
 桜は背後に視線をやってから、逃げ道を探して来た道を振り仰ぐ。無名のところに行けば、助けてもらえる。あそこまでたどりつくことができたらどうにかなるはずだ。
 及び腰になっていた心持ちを奮い立たせ、桜はたっと足を返した。が、しかしあと少しで少女の腕をすり抜けられるというところで手首をぱしりと取られ、背後の鳥居に縫いとめられる。固い鳥居に背をぶつけ、桜は小さく呻いた。

「桜さまは相変わらず勘が鋭いこと。私の思惑が読めていると見える」

 思惑なんて、読めているわけがない。ただ、恐ろしいものを感じたのだ。そしてこういうときの己の勘はよくあたることを桜は身をもって知っている。自分の生命と結びついた危険察知能力が桜はずば抜けて優れていた。
 いやいやとかぶりを振ってつかまれた手首を放そうと苦心していると、少女は苦笑し、流れるような綺麗な動作で懐から出した短刀の鞘を抜く。手首を放される代わりに、ひたり、と首筋に刀身があてがわれた。
 戯れのように刃を傾けられる。切っ先が肌に食い込み、鮮血が一筋流れ落ちた。
 ちりりと首に走った痛みに桜はわずかに表情をゆがめる。

「いくら探しても見つからなかったというのに、こんなところでよもやあなたと相見えるなんて。――さぁ都へ帰りましょうか、桜さま」

 問いの形を取っていながらもそれは脅しに近かった。
 嫌だ、と口にしようとしたが、震える吐息がこぼれるだけで喉にはりついたように言葉が出てこない。桜は小さく首を振った。刃がさらに食い込み、ちりちり疼く。

「かたくななこと」

 呆れの滲んだ息をつき、少女は刃がさらに傾ける。桜は首が落ちることを覚悟するが、けれどそのまま薙がれるかと思った刀は何故か外されてしまった。

「……?」
「――ねぇ桜さま。ふふ、覚えておられる? 老帝さまは」

 少女は抜き身の刀を鞘に納めながら底知れぬ笑い方をした。
 急な話の転換に頭がついていけず、桜はひとつ眸を瞬かせ、少女を仰ぐ。

「酒と女とに耽溺されていたあの方も、最近はめっきり塞いでいらっしゃる。立ち上がることままならず、床(とこ)に臥せり、うわ言ばかり。侍医の話ではそろそろ寿命も近いのだとか」

 月詠、ひいては帝に仕える女官であるというのに女の説明はずいぶんと味気ないものだった。

「死期の間近いご老体は亡き后の名前ばかりを呼んでいるのだそう」
「――……」
「何も感じない? そうね、そうでしょうとも。あなたにとっては羽切りをして籠の中に閉じ込めた張本人ですものね。――私も何も感じない」

 少女は淡く微笑み、桜の耳に唇を寄せた。

「早く、しんでしまえばいいのにね」

 ぞくりと冷たいものが背筋を伝う。
 それほどまでの昏い感情を桜はひとに対して抱いたことがなかった。もしくは抱くほどに精神が成長しきれていないともいえる。桜は未だ、愛の激しさも憎しみの深さも知らぬ幼子である。
 向けられた負の感情は刃のごとく胸の奥を深く抉り、その痛みに驚いてただ目を瞬かせることしかできないでいると、不意に白い手のひらが目を覆った。耳元で何がしかが囁かれる。言の葉は脳裏に甘やかにしみいり、急速に抗いきれないほどの眠気に襲われた。
 桜は重くなった瞼をゆるゆると閉じる。このままねむったらきもちいいな、と思った。抗う意思を奪われ、従属すら心地よいと思ってしまえるようなその感覚はまるでしらら視の声のようでもあって。
 優しい手つきで髪を梳かれ、かき集めようとした意識の束はするする解けていく。身体の力が抜けた。浮遊した身体を少女の腕が抱き止める。


「悪いけど。それに妙な勧誘しないでくれない?」


 淡とした少年の声が聞こえたのは刹那だった。
 麻痺しかけた意識を呼び覚ますような、冷ややかな温度の声。
 桜はうっすら眸を開き、少し喘いでから新鮮な空気をいっぱいに吸い込む。

「――……き、」

 声をうまく出せなかった喉が震える。
 視界が精彩を取り戻す。
 おぼろげだった人影が焦点を結ぶ。

「雪瀬!」

 桜はあらん限りの声でそのひとを呼んだ。
 少女が背後へ向けて懐刀を払ったのは同時だった。
 ぎん、と金属音が鳴り響き、打ち合った二刀が跳ね返るように離れる。数歩後ろに退いて軽く間合いを取り、雪瀬は振り返った少女へと視線を上げた。それからふと何か、驚いたような顔になって眸をひとつ瞬かせる。

「藍……?」

 そう呟いたきり、残りの言葉は融けいるように消える。
 どこまでも透明なその眸に映り込んだ鮮烈な何がしかの色を、桜は見た。