二章、撃ち落されるその鳥の名は、
十五、
まるで幻のような光景だと思った。
夜闇に淡い光が幾千と浮いている。
浴衣を着てたたずむ少女の周りを光が舞い、木陰へと消える。ぶらぶらと川岸を歩きながら少女は歌を歌っているようだった。雪瀬は知らない旋律だから都かどこか遠い地方の歌なのだろう。雪瀬と違って少女はたくさんの地を旅していた。
川に集まった幾千の蛍を背景に少女がこちらを振り返る。団扇をはたく手を止め、そっと手招きをした。蛍が少女のすぐそばをすり抜け、彼女の優しく微笑む姿が鮮明に浮かび上がる。
川面のほうへ消える蛍を追って少女がまた歩き出す。
雪瀬は自分の足には少々大きい下駄をからんころんといわせながら走って、ぴょんっと少女の背に飛びついた。急に置いていかれるのではないかと不安に思ったのである。少女特有の骨ばった華奢な背に額を押し付け、腰に手を回す。
兄の背とは違う、もっと頼りなげで、なよやかな女の背。
雪瀬がぎゅっと腕に力をこめると、あらあらと少女は苦笑して雪瀬の回した腕に手を重ねた。香を焚き染めた浴衣からは淡い花の香が濃厚にくゆる。
――藍と言って真っ先に思い出すのは花の香である。
儚く、捉えどころがなく、されど幼い記憶に焼き付けられ、濃厚にくゆる。花の香のごとき少女である。
*
「久しぶり、きーちゃん。大きくなったね」
藍は何事もなかったかのように刀身を鞘に収めると、少し顎を上げるようにしてこちらを仰いだ。
言葉でひとを煙に巻き、言葉でひとを制するのが雪瀬である。言葉は雪瀬にとって道具であるといってよい。ひとを貫く矛であり、己を守る盾。
けれどこのときばかりはてんで、声というものが出てこなかった。
雪瀬は声をなくして五年前に別れた少女の姿を見つめる。あちらも静かな色を湛えた眸でじっと雪瀬を見つめていた。だがほどなくその花かんばせに明るい笑みが乗る。
「ふふ、前みたいに抱きついたりしないの? 私きーちゃんに飛びつかれるの、好きだったのになぁ」
「――……、」
「なぁに?」
「…黒羽織……」
しかし五年ぶりの再会は到底和やかなものにはならなかった。
雪瀬は少女が身を包む花紋の染め抜かれた羽織を愕然と眺める。
「ああ――」
藍は己を顧み、苦笑した。
「それがなぁに?」
「……なんで? 黒羽織ってなんで、藍?」
彼女の前では雪瀬は十歳の子供に戻ってしまう。冷静さを欠いた口調で繰り返し、少女の衣を握り締める。
混乱していた。何故、あのときいなくなった少女が今になって現れたのか。何故黒羽織を着ているのか。雪瀬にはわからない。
「決まってるでしょう。黎さまと一緒。私、今宮中にいるの」
「宮中?」
「そうよ。宮の中。――つまりね、きーちゃん。私は今帝や黒衣の占術師の命令を聞いて動いているということ。わかった?」
否や、藍は懐刀を薙いだ。
ひゅ、と風を裂き、刀は雪瀬の首元すれすれを走って背後の黒鳥居に浅く刺さる。
「上意に沿い、私は“桜”を連れ帰る」
ちらりと肩越しに視線を投げかけると、怯えた表情の少女と目が合った。不安げに眸を揺らしてやがてそれを伏せる。桜が宮中へ戻ることを望んでいないのはそれだけでようと知れた。
だって近頃ようやく自然に微笑えるようになってきたのだ。以前に比べて表情も言葉も格段に増えた。これからだってもっともっと彼女は人間らしくなっていくに違いない。それがまた『人形』に逆戻りなんてあんまりだ。
「断る。桜は宮中にはやらない」
「あら、そう。仕方ないなぁ……。――じゃああなたにはここで死んでもらうしかないわよね?」
鳥居から射しこむ斜陽の赤い光の中、少女は壮絶に微笑った。
雪瀬は絶句する。まさか死などという言葉をこの少女から向けられるとは思ってもみなかったのだ。そうですかと納得するにはあまりに幼い日の記憶が鮮明に過ぎた。抱きしめ、頭を撫ぜてくれた少女と目の前の女がきちんと結びつかない。
向けられた刀をただ見つめることしかできずにいると、藍は切れ長の双眸を細めた。
「どうして刀を抜かないの?」
研ぎ澄まされた黒曜石のような眸が非難がましく雪瀬を射抜く。
「憐れみ?」
「……ちがう、」
雪瀬は苦悶に眉を寄せ、弱々しく首を振った。
「じゃあ同情?」
「そうじゃない。そうじゃなくて俺……、」
何かを口にしようとするのだけど、こんなときに限って言葉は空回るばかりでてんで意味をなさない。真砂のときと同じだ。雪瀬は目を伏せ、奥歯を噛んだ。
「馬鹿ね」
嘲るように少女は言う。聞いたことのないような冷たい声音だった。
熱い感触が首筋に生まれる。
切られた、と思ったのは寸秒あとだった。
首を伝い、肩へ流れ落ちる鮮血を雪瀬は呆然と眺める。
「きーちゃんは知らないんでしょうけど。私ねぇ、ひどいの。ひどいことばかりやってるの。ひとの懐にもぐりこんでね、命じられればコトのあとに胸を刃で一突きしてやったりもする。ひとの血って熱くてね。キモチワルイ。私、転がる死体を見ながら後悔したんだ。すごく、すごく後悔したの。ああなんで、あのときあなたを生かしてしまったんだろうって。きーちゃん助けなければこんなことにならなかったのにって。後悔したよ。きーちゃん、私、後悔した」
ふ、と気配を感じて視線を下ろせば、いつの間にか自分と背丈がずいぶん離れてしまった少女はすがりつくようにこちらの胸へ顔をうずめていた。笑っているのか泣いているのか、その肩は小刻みに震えている。
「だってぜんぶ、きーちゃんのせいじゃない……。ぜんぶきーちゃんのせい。なのになんであなた、幸せそうに生きてるの」
泣き笑う声が不意に浮ついた哄笑へ変わった。
――どうして?
狂い笑う少女を愕然と見つめながら、少女の言葉を雪瀬は反芻する。
――こんなはずじゃ、なかった。
こんなはずじゃなかったのに。どうして? 何故? どこから狂ってしまった?
――俺のせい?
「……め、ん」
ようやく口をついて出たのは、自分でも思いもしなかったような、今さらにすぎる言葉だった。
「……めん…」
謝罪というよりは、許しを乞うようなその言葉は幾度となく紡がれては、中途で絡まって消える。ごめん。ごめん。そんな言葉ばかりが胸に沸きあがってはこぼれ落ちる。だって俺、凪、守れなかった。藍も守れなかった。だめだった。全部だめだった。絶望にも似た暗い感情が胸を塞ぎ、呼吸をすることすらおぼつかなくなる。普段どこかに押しやっていた何がしかが溢れて止まらなくなったみたいだった。雪瀬はきつく眉根を寄せた。苦しい、苦しくてたまらない。空気を求めて喘ぐ吐息が断続的にこぼれて落ちる。ずる、と柱に持たせかかっていた背が落ち、力をなくした手から刀が滑り落ちた。
落下音のせいだろう、藍は俯いていた顔をびくりと上げた。柳眉をひそめて足元に転がった刀を眺め、こちらにいぶかしげな視線を向ける。
「きーちゃんは」
耳朶を冷たい吐息が撫ぜる。
「軟弱ね、とても」
掲げられた刃が残照に鈍く輝き、一気に振り下ろされる。首元へめがけて走る懐刀を雪瀬は呆然と見つめる。急に時間が速度を緩めたかのようだった。刀が近づいてくる気配、押し寄せる空気の流れすら、感じられた。
死、という言葉が生々しく脳裏に浮かび上がる。
雪瀬は目を瞑った。
「やめて」
がちん、と歯に浮くような音が軋む。
迫り来る刃をすんでのところで黒い銃身が受けていた。
藍と雪瀬との間に半ば押し入るようにして飛び出した少女は庇いでもするつもりなのか自分の背に雪瀬を押しやろうとする。
「雪瀬にひどいこと、しないで」
「――ふぅん? 勇ましいことね」
藍は肩をすくめ、からかうような応酬を返した。桜ではなくこちらのほうへと視線を投げかけ、ほとりと小首を傾げる。その眸にあどけない、けれど嗜虐に満ちた色が乗った。
「ねぇ。もしもこの子が死んだら、きーちゃん泣く?」
雪瀬が答えるよりも早く、藍はためらいなく刀を振り下ろした。
*
覚悟はしていたけれどいざ刀を向けられれば身がすくむ。
懐刀の刃が眼前へと迫り、桜は反射的にあとずさりかけた。少年の胸に背が当たる。しかし空気はそのまま微動だにせず、予想していた痛みが身体を襲うこともない。そろそろと視線を上げれば、眼前に少年の腕が差し出されていて、そこには桜に向けられていたはずの刃が深々と突き立てられていた。
「別に殺しやしないのに」
藍は雪瀬の腕から懐刀を引き抜き、肩をすくめる。
たた、と赤い血痕が地面に乱れ散る。伝い落ちる血には頓着した様子もなく雪瀬は腕を軽く振って引っ込めると、藍へ冷ややかな一瞥をやった。
「これで、満足?」
「全然だよ」
応酬はどこまでも乾いたものだった。
鳥居と鳥居の合間に広がる夜の帳の降り始めた空を見上げ、藍は刀を無造作に鞘に納める。ぱさりと宵闇を引き連れるかのような色をした羽織を翻した。
「先約があるの。残念だけど、帰らなくちゃ。――……ねぇきーちゃん」
藍は振り返りざま、少し背伸びをして雪瀬の耳元へ唇を寄せた。
「私の“幻影”をそばに置くのはどんな気分?」
少女の黒眸がふとこちらを捉える。何かを試されているようであったが、とっさには言葉の意味がわからず、桜は呆けた表情をした。
憐憫の色を眉間に載せ、藍はやがて目を伏せる。鳥居にたてかけられた太刀を拾い上げて大切そうに抱きしめると、彼女は音もなく足を返した。
ふんわりと毒にも似た花の匂いが残り香のように濃厚にくゆった。
桜は黒鳥居の描き出した影にひっそり溶けいるようにして消えた少女を見やり、それから思い出して雪瀬を振り返る。切られた腕に軽く手を添えたまま、雪瀬は動かずにいた。濃茶の眸は伏せがちに下方へ落とされている。
「きよせ?」
桜は雪瀬の袖端を指先で引いた。けれどこれといった反応が返ってこない。
見れば、添えられた雪瀬の腕も首筋も血まみれだった。不安になって、桜はそろそろと傷口に指を伸ばす。だが触れるか触れないかのところでぱっと手をつかみ取られた。刹那、絡んだ視線は背筋が冷たくなるくらいに温度というものがない。手負いの獣が敵を威嚇するときに見せるような拒絶が、そこにはあった。桜は身体を強張らせる。怯えた表情になれば、つかんでいた手を下ろされた。桜は目を瞬かせ、離された手のひらを見つめた。
その手のひらにはたはたと雫が落ちる。
てひどい拒絶をされてしまった気がした。
それがこんなにも深く胸を抉るものだとは思わなかった。
小さな嗚咽が喉を震わせる。あとはもはやとめようがなく、桜は手のひらでこぶしを作ると、それを目元に当ててうわぁうわぁと泣き始めた。怖くて、悲しくて悲しくてたまらなかったのだ。
「――どうして泣くの……」
呆れにも似た響きを持った呟きが落とされる。
答えようにも声にならず、ただふるふると桜が首を振ると、不意に眦に指の背が触れてそっと涙をすくいとられた。もう一方にも丁寧に同じ所作を繰り返される。きょとんとする桜のかたわら、指先は頬を滑り、顎を軽くなぞり、それから。
ふと指先から伝わる熱が絶えたことに気付いて桜が濡れた眸を上げようとすれば、それを遮るように、そ、と身体を引き寄せられた。
――あ、と思ったのは一瞬だった。
弾みに後ろ髪に緩く挿してあった簪が落ちる。落ちる。堕ちる。地面を跳ね返り、からんと砕け散る鮮やかなまでの彩玉の音をふたりは意識の端で聞いた。
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