二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 十六、


 閉ざされていく視界の中で、簪の砕け散る音だけが鮮明だった。
 涙に濡れた睫毛を震わせ、桜は眸をひとつ瞬かせた。
 それは抱きしめられる、なんてそんな生易しいものではなかった。背中に回された腕は身体を壊されるんじゃないかと思うほど強い。さらに身体を引き寄せられ、桜はか細い悲鳴を上げた。驚いてしまったのだ。このひとはこんな烈しさを持っていたひとだったろうかと。
 桜の声に気付いたのか、不意に抱きすくめていた腕の力が緩められ、寄り添っていた身体が離れた。側にあった温もりが消えると急に心もとなくなってしまう。いやいやするように首を振って桜は思わず相手へ手を伸ばそうとした。それを無理やり肩をつかんで引き離される。俯いているせいで雪瀬の表情は見えない。桜は小さくしゃくりあげ、ぽろぽろと涙をこぼした。

「……なかないで。泣くの、やめて」

 そんなことを言われても、胸はきつく締め付けられるようで苦しさを増すばかり。身じろぎすることも、声を出すことすらもできず、ただ持て余した熱に苦しげに喘ぐと、雪瀬はあやしでもするようにひんやりした手のひらを桜の目元にあてがった。その手に促されるように眸を瞑れば、手のひらは頬に滑り、濡れた瞼をしっとりと押し当てられた唇で吸われる。身体が小さく跳ねた。
 ほどなく影が離れ、桜はしぱしぱと目を瞬かせる。

「……ああ簪、」

 戸惑いがちに向けられる視線をさらりとかわして、雪瀬は桜の足元にかがみこむ。砕けた薄紅の彩玉がぶら下がるだけの簪の残骸を拾い上げ、「あーあ」と呟いた。

「割れてる」

 立ちすくむ桜にそれを差し出し、雪瀬は腰を上げる。

「今度、ちゃんとしたの買ってもらって。……ごめん」

 簪を桜の手の中へ落とし、雪瀬は包み込むようにして五指を閉じ入らせた。それから今度は転がったままになっている自分の刀を拾い上げる。それを慣れた手つきで腰に佩くそのひとの横顔にすでに先の烈しさを感じさせる表情はなかった。






 瓦屋根の上を天心が昇る。
 月の映る庭は静かで、さながら鏡面のようだ。
 雨を呼ぶという紺の露草が揺れる庭で男はひとり月琴をかき鳴らしていた。三絃とは異なる少しばかり異国調の旋律が秋の夜に響く。
 かた、と微かに障子戸を揺らせば、男は月琴をやめ、こちらを振り返った。

「おおー、藍ちゃん。おかえりー」

 にっこり微笑むその顔の胡散臭いこと。
 藍はわずらわしげに顔をしかめ、黒羽織を衣桁にかけた。先ほど雪瀬に会い、帰れば、それと若干面影の似通ったところのある青年が迎えるとはもはや嫌がらせだ。

「何の用」
 
 つっけんどんに尋ねると、真砂はこわやこわやと肩をすくめる。月琴を濡れ縁の板敷きに置き、障子戸の前に立つこちらへ近寄ってきた。
 藍が思わず身を引けば、退路に回りこんで障子戸に手をつく。
 青年の指先が顎を取った。

「今日はまたいつになくご機嫌が悪うございますねぇ? 何かヤなことでも?」
「別にいつもと変わらない」
「へぇ?」

 翳りを帯びた琥珀の眸が真意を探るように眇められる。――この目は、苦手だ。胸の奥底まで見透かされていそうな気分になる。

「あ、そだそだ。今日毬街の老舗でおいしい羊羹(ようかん)買ってきたんだぜー? 食べない?」

 ぱっと視線を解くと、真砂は濡れ縁に戻っていそいそと包みを持ってきた。

「栗がいっぱい詰まった羊羹。あんこは疲れにもきくんよ。もうおいしいったらなんの!」
「……」
「一緒に芋羊羹も売り出されててさ。こっちも非常に捨てがたかったんだけども……、いや、やっぱり気になるっ。明日買ってきて食べ比べしよっか!」
「……」
「……あのさぁなーに?」
「――楽しそうだね、あなたは」

 果てしなく続きそうな長口上をだまらせたかったのか、ついそんな言葉が口をついて出た。否応なしに含まれてしまった皮肉に口先だけは達者な橘一族がどんな嫌味を返してくるかと思ったら、意外にも真砂は「うん、楽しいぜ?」と素直に答えた。

「いかなるときも、今が一番、今が最上、今が極楽! これ、俺の信条なり。ゆえに生きてて楽しくなかったことなんざ一時たりともないねっ」
「……それは羨ましい限りですこと」

 冷め切った口調で返し、藍は苦く笑う。けれど口にしたあとでどうしてか本当にそう思えてきてしまい、どこかばつの悪くなった気持ちを押し込めるように笑みを消した。確かにいつ何時も今が一番、今が最上、そう思って生きることができたのならそれはこの上ない果報者ともいえる。
 藍は紙の包みを開く青年をよそにそっと目を伏せた。

「……そんな気持ち、私は全然わからないよ」
「おや、そーお?」
「生きていても楽しくない。嬉しくない。全然幸せじゃ、ないもの」

 そんな風につらつらと無意味な繰り言をつらねてしまったのは何故だろう。
 長いこと顔を合わせることもなかった幼馴染なぞに再会したからだろうか。それとも聞いているのがこの男だからだろうか。

「どうだかね」

 ふっとあきれ返ったようなため息がつかれる。
 眸をひとつ瞬かせ、藍は真砂を振り返った。
 
「俺にはアナタが自分で自分を不幸にしてるようにしか見えませんけどー。ちなみに俺ねぇ、そういう馬鹿、大っ嫌いなんだよな。だって藍サン、生きとし生けるもの、うじ虫だって一生懸命地を這って生きてるんですぜ? つまりあなたはうじ虫以下ってこと」

 うじ虫とはひどい。
 晴れやかな笑みをもってして嘲罵され、藍はきつく柳眉を寄せた。
 別に甘い慰めやこれみよがしの同情を期待したわけではないが、ここまでてひどい言葉を返されるとも思わなかった。
 そう、と呟き、藍はふいと男から顔をそむける。
 そうデス、とうなずき、真砂はにんまり笑った。

「ああそういや、藍サン」
「……何?」
「俺、雪瀬に黒羽織と繋がってるのばれちゃったからさぁ。もう葛ヶ原帰れねぇや。かくまって?」

 よくもそんなことを抜け抜けと言えたものである。
 藍は表情を険しくして、男の胸倉をつかむ。

「ばれたって、どういうこと?」
「だからさ、黒羽織さんと話してるのを雪瀬が見ちゃったんよ。俺きっと葛ヶ原戻ったら捕まっちゃう」
「黒羽織……」

 ひとまずすべてが露見したわけではないことに安堵の息を漏らしながら、藍は改めて青年に向き直る。

「でもあなた側の落ち度でしょう。どうして私がそれを庇ってあげなくちゃいけないの」
「えー、藍サンたらつめたーい。ああまぁ別にいいけどね? 捕まって拷問にかけられたら、か弱い俺ってばぜんぶ吐いちゃうけどまぁ藍サンがそれでいいっていうなら――」
「いい加減になさい」

 この男、藍を脅す気である。

「そう来なくちゃ」

 真砂はにやりと口端を上げ、切った羊羹のひとつを藍の口に放り込む。もうひとつを自分の口に入れながら、

「じゃあかくまう場所の手配はよろしく。相棒!」

 ぽん、と気安い所作で藍の肩を叩いた。