二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 十七、


 暗い室内で蜜蝋の明かりがゆらりゆらりと揺れている。

「それでは、真砂さまが内通者であった可能性が高いと」

 あたりを気にしながら柚葉は声をひそめて尋ねた。
 雪瀬はうなずく。

「黒羽織と話してるの、見た。わからないけど、何か関係はあるんだと思う」
「そういえば私も今日真砂さまのお部屋で奇妙な端書を見つけたのですよ」
「端書?」
「はい。そこには氷鏡藍と会うとの由が何度も記されておりました」
「藍……?」

 思いも寄らぬ名前が上がり、雪瀬は目を瞬かせた。
 雪瀬の首と腕には今包帯が巻かれている。帰りがけに瀬々木のところに寄って手当てをしてもらったのだが、首につきたてられた刃の感触は未だ生々しい感覚として肌に残っている。あのとき、藍は自分は宮中にいるのだと言っていた。また黒衣の占術師の命で動いているのだと。その藍と真砂が通じているということは、真砂もあちら側の陣営に通じていると見たほうがよかろう。
 というようなことをかいつまんで話すと、柚葉は複雑そうな表情をした。

「このこと、明朝にも薫衣さま透一さまにお話しし、関守にも真砂さまが葛ヶ原に現れ次第、宗家に引き立てるよう命じておきましょう」
「……真砂は帰ってくるかな」
「さぁ、どうでしょうか……」

 答える声は頼りない。
 真砂とて雪瀬に悟られたことには気付いているはずだ。ならば、おめおめ自ら葛ヶ原に帰ってくるとは考えがたい。むしろ二度と帰ってこないという可能性のほうが高いかもしれない。

「柚、俺……」

 眼前でちりちりと揺れる灯心を眺め、雪瀬は濃茶の眸をす、と眇めた。

「探してくる真砂」
「――兄さま」

 柚葉は眉をひそめてこちらをたしなめるような表情をする。今さら探してどうなるのだと言いたげである。――確かに、もしも真砂を見つけ出したとしても真砂が己で考え、己であちらに通じることを決めたのだとしたら雪瀬にはどうにもできない。
 だが、このまま放っておくにはあまりに後味が悪い。何せあいつ、雪瀬の問いをはぐらかしたままなのだ。

「危ないです」

 こちらの身を案じて柚葉が言った。
 雪瀬は一笑する。

「大丈夫。刀、ちゃんと持っていくし」
「――それに私もついて参ります」

 今まで背後で沈黙を守っていた青年がおもむろに申し出た。柚葉と雪瀬は一様にきょとんとして青年に目を向ける。その視線を受けて、暁はこちらへ膝を寄せた。

「柚葉さま、私からもお願い申し上げます。今一度毬街へ行かせてくださいませ。雪瀬さまは私が命に代えてもお守りいたしますので」

 暁は青の眸に揺るぎない意志を宿して、楚々と頭を下げる。穏やかな青の眸によぎるのは静かな炎のようなものだった。
 
「仕方ありませんね……」

 暁の様子に心を突き動かされたのか、鉄面皮を脱ぎ去り、柚葉は苦笑した。

「私もできる限り尽力いたします。どうか真砂さまを探し出してくださいませ」
「――ん」
「ありがとうございます」

 暁の表情にも明るいものが載った。軽く礼をすると、ほんの少し浮き足立った様子でからになった急須と茶器を持って部屋を出て行く青年を見送り、柚葉は深色の眸を弓なりに細める。
 湯上りのためか、妹はいつもは結んでいる濃茶の髪をしどけなく垂らしていた。蜜蝋の光を受けると琥珀色にも似た髪が光の粒をまとってはらはら煌く。柚葉は十三歳である。数年後にはたいそうな美媛になるのだろうな、というのは瀬々木の言だが、如何せん雪瀬には淡白な感慨しか沸いてこない。女でありながら女でない。妹というのは不思議な生き物である。
 だが柚葉にとってはそうではなかったようで、この少女はつい数年前まで本気で颯音の妻になる気でいた。

「――時に兄さま」

 伏せがちだった睫毛が震え、彩度を高めたような琥珀色の眸がこちらを見やった。膝を押し進め、雪瀬のすぐそばに寄ってくる。

「白雨一族のことなんですけども」
「ああ、どうだった?」
「昼に調べてきました……が。めぼしい事実は見当たりませんでしたね。ただ黎どのには鵺のほかに槊という兄がいたようです。行方知らずとなっているので生死すら不明でございますが……」
「サク、ねぇ」

 その名は聞き覚えがない。

「ええ、それで気になったのですが。藍さまなんですけども、あれですよね」
「あれ?」

 柚葉が言葉を濁そうとするので雪瀬は眉をひそめた。柚葉はやはり気まずそうに目をそらす。

「思うに、桜さまの面影を若干……」

 ――私の“幻影”をそばに置くのはどんな気分?
 少女の嘲笑を含んだ声音が耳奥に蘇った。

「いえ、年齢的に考えますと桜さまが藍さまの面影を持っているといったほうが正しいのかもしれませぬが、桜さまが“人形”であることをあわせるとどうなのか……。兄さま、桜さまはいくつです?」
「十と幾つか」

 本人は詳細を覚えていないようだったが、十二か十三か、せいぜい十五程度だろう。

「そして外見自体は十五、六に見えますから、足して二十五から三十でございますね。白雨黎の妹であることを考えれば、二十六、七が妥当ですか。人形はひとの屍をもとに作ると聞きます。桜さまが白雨一族の鵺の身体に魂をこめられたものだとすれば、藍さまは……」
「……何がいいたいの?」
「いえ、もしや藍さまも白雨に何がしかの関係があるのやも、と思っただけです。黎どの……月詠が引き連れていたくらいでございますからね。鵺とも何か血縁の繋がりがあるのかもしれませぬ。それゆえの面影の近さかと」

 ふぅんと雪瀬は少し考え込む。
 そういえば雪瀬は藍の両親について彼女自身から聞かされたことがなかった。ただ引き取り手がいなかった自分を黎が引き取ってくれたのだとそんなことを言っていた気がする。

「兄さまは思わなかったんですか?」
「……何を?」
「桜さまを見つけたとき、藍さまに似ているって」
「――……」

 雪瀬は顔をしかめて口を閉ざす。
 ――実際、思いはした。
 春の朝、路地裏で壁にぐったり背を預ける少女を見つけたとき、もしやこれは五年前に別れた幼馴染なのではないかと。けれど眸が開かれた瞬間にそんな淡い期待は打ち砕かれた。虚無にも似た淡さを湛えた硬質な緋色の眸は雪瀬の知る少女のものとはあまりにもかけ離れていた。
 軽い失望のあと、それでも幼馴染に似ている少女というものに心惹かれて、連れ帰ったというのも事実である。彼女のように微笑わせてあげたいと心の隅で思っていたのも事実。だが、それらを口に出すことははばかられた。どうしてか後ろめたい気持ちが胸に沸き起こった。

「……今日、藍に会った」

 沈黙の末、雪瀬は呟いた。
 柚葉は目を瞬かせる。

「藍さまに?」
「うん」
「どう、でしたか?」
「別に。もう全然俺の知ってる藍じゃ、なかったよ」
「兄さま……」

 自分を見つめる濃茶の眸がゆらとさざめく。首を傾けるようにしてこちらをうかがい、柚葉はおもむろに雪瀬の頬に手を添えた。

「藍さまにはもうお会いにならないほうがよろしいかと」
「……?」
「兄さまがそんな表情をなさるのを見るのは切ないです」
「そんなって」

 いったいどんな表情をしていたというのか。
 雪瀬は思わず苦笑して、頬に添えられた手を離さんと身じろぎする。
 心配そうにこちらを見上げてくる柚葉の頭に手を置き、帰るね、と言った。




 部屋に戻ると、敷かれた褥の上にひとりの少女がころんと丸まって眠っていた。胸に草紙を抱えているので、どうやら本を読みながら雪瀬を待っているうちに疲れて眠ってしまったらしい。
 すやすや寝息を立てる少女を眺めながらあんなことあったあとによくひとりで自分のところに来れるなぁと雪瀬は少し感心する。それだけ肝が座っているのだろうかと考えてみたが、違う。たぶん理解してないだけだ。桜は何もわかってないのだ。その証拠に彼女が自分に向けてくる眸の色は出会った頃と変わらず、まっすぐであどけない。
 絶対の信頼がそこにある。雪瀬にはそれが少し重かった。

 さらりと髪を押しやると白いうなじがあらわになる。
 行灯の微光の照り返しを受けて透け入るような色を帯びる首筋には浅い切り傷があった。雪瀬はかがみこみ、そ、と傷口に唇をあてがう。花の香とは違う、薄荷のような澄んだ香がした。儚くくゆる馨りに雪瀬は目を細める。
 腕の中で少女が小さく身じろぎした。彼女を起こしてしまう前に身体を離し、雪瀬は桜の手の中にある草紙を取り上げる。代わりに布団を身体の上にかけていれば、ん、とか細い声を上げて桜は緋色の眸を薄く開いた。

「……きよせ?」
「うん」
「瀬々木のとこ……、」

 桜とは瀬々木の家に向かう前に別れたので、ちゃんと行ったのか心配だったのだろう。うん、と言い、雪瀬は気を配しながらいつもの微笑を浮かべるようつとめた。

「うん、平気。――おやすみ」

 瞼の上に手を載せれば、睫毛が閉じ入る気配が伝わる。
 彼女がすぐにまどろみ始めてしまったことに雪瀬は安堵した。
 行灯の明かりを落とすと、褥にぽふんと横たわる。鈍く頭に疼く痛みを追い払うように目の上に腕を載せた。身体の力を抜いて細く息を吐き出す。
 夜の深淵のはざまで、緩くたゆとう淡い薄荷の香が心地よかった。甘い花蜜の香とは違う、澄んだ匂いである。
 不意にその香りを抱きしめたいような衝動に駆られた。
 腕の中に閉じ込めて、余すところなく触れて口付けをして。
 劣情である。
 そんな欲に彼女がさらされるのかと思うと。すごく嫌な想像だと思って雪瀬は目を閉じた。