二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 十八、


 毬街では三日にわたり、紅葉を愛でる祭が催されていた。
 川端に並ぶ楓の葉はみな仄赤く染まり、流れる川のせせらぎに唐紅の葉を万と散らす。さながら川へ絵筆の朱を流し込んだかのようだった。紅月、と俗にひとびとに言われるゆえんである。

 川には小船が浮かべられ、どこぞやの貴人と見受けられる男や女が遊覧にふけっている。石積みで護岸のなされた川べりでは渡し守が船を引き上げていた。

「濃茶の髪に濃茶の眸の長身の男、ねぇ……」

 渡し守はあげ連ねた言葉を反芻し、首を傾ける。

「知らねぇな。濃茶なんてあんま特徴ねぇ色だしよ」
「そう……」

 雪瀬は心なし肩を落とし、手を差し出してきた男へ銅貨を一枚握らせた。

「しけてんなぁ」

 不満もあらわに舌打ちし、渡し守は船着場のほうへ戻っていった。どーも、と雪瀬は男の背に詫びを入れる。この時期と花見の頃が、彼らにとっては大切な稼ぎ時なのである。冬になれば、川には氷が張り、船を出すこともままならない。

「――だめだった」

 雪瀬は船着場の危うい足場から岸に上がり、上で待っていた青年に声をかける。

「こちらもでした」

 暁は申し訳なさそうに目を伏せる。気にするなというように雪瀬は軽く暁の袖を引き、黒塗りの酒蔵の間を歩き始めた。
 一昨日からふたりで手分けして真砂を探しているのだが、初手の和菓子屋がすべて空ぶりだったこともあって、真砂探しは困難を極めていた。あの男、軽薄で浮ついた態度を取っていながら意外と用心深い。なじみの和菓子屋も十日ほど前に現れたきり、訪れていないのだという。
 ひとつ、つい数日前に真砂をもてなしたという水茶屋を営む親子を見つけたが、一緒に黒髪で緋色の眸の“隠し子”がいたという話からどうやら桜と出かけた日であるらしいことがわかった。雪瀬が追いたいのはそのあとの真砂の足どりなので、水茶屋親子には丁寧に礼を言って足を返した。

『あの方、何か悪いことでもなされたんですか』

 帰りぎわ、心配そうな顔で少女が聞いてきた。

『とても悪いひとには見えなかったけれど……。ねぇ父さん』

 話を向けられた店のあるじはすっかり真砂に惚れてしまったらしい娘を若干複雑そうに見つめながら、そうだなぁと顎をかく。

『あのひと、薬頂戴って言ってたもんな』
『くすり?』
『一緒にいる子が足、怪我してたらしい。よく気付いたもんだ』

 それは雪瀬も気付かなかった。あのときのことを思い出しても桜が別段びっこをひいていた記憶はない。しかし店主が言うのであるからそうだったのだろう。
 真砂は昔からやけに気のつくところがある。そして自身も五年前に右足に深い傷を負っていた。今は雪瀬たちと変わらぬ調子で歩いているが、一時期は褥から出られず、床を這って歩いていたほどだ。
 ひとり死に物狂いで歩く練習をしながら真砂は何を考えていたのだろうかと雪瀬は思いをはせる。父と母を弟に殺された青年である。自身も殺されかけ、その弟は雪瀬が殺めた。

「……真砂は俺のことを、」

 口にしかけて、雪瀬は緩く目を伏せる。
 俺のことを恨んでいるのだろうか、と思ったのである。けれど口に出すにはどうにもはばかられた。わからない。真砂は五年前のことをどう思っているのだろうか。五年の間に積もり積もった“何か”が青年を月詠のもとへ走らせたとでもいうのか。

「雪瀬さま。あまり己をお責めなさいませぬな」

 川の市場で競られる魚を眺めて歩きながら、ふと付き従う暁が呟いた。雪瀬の髪に絡まった紅葉の葉を指で取りながら、暁は優しく目を細め、行きましょうと囁き、角を曲がった。






「船がまだつかなくてな、もう少し時間がかかるらしい」

 三日後、銃弾を取りに灰闇窟へ向かった桜へ告げられたのはそんな無名の言葉だった。まだ、と桜は繰り返し、表情を暗くする。木箱に座った桜へ柑橘系の香りのするお茶を差し出しながら無名は悪いな、と謝った。

「もしも半月後でよいのなら俺から届けに行くが。だめか?」
「無名が?」

 さらりと言い放たれた言葉に、桜は眉をひそめる。いぶかしむ気持ちもあったが、心配のほうがよりまさった。このひとも桜同様、今ではお尋ね者の身だ。

「へいき? 葛ヶ原に来れる?」

 心もとなさに押される形で問いを連ねれば、あぁ、と男は軽く顎を引いてうなずき、袂から一枚の書状を取り出した。
 促され、桜はおずおずとそれを受け取る。文面を読みとることはまだできなかったが、そこに今首にかかっている木鈴に刻まれていたのと同じ紋が押されていることに気づいた。ちなみにこの鈴は透一にこっそりもらった。

「先日、橘から内々に誘いがあった。で、俺たち灰闇窟の職無し組一同、あちらに仕えることになってな」
「……そう、なんだ」

 誘いとはいったいどんなものだったのだろうか。気にはなったが、何とはなしに喋りたくなさそうな気配を無名から感じて、桜はとりあえず知己であるこのひとが葛ヶ原に来るのだ、ということだけを喜んでおくことにした。知り合いが近くに来てくれるというのはやはり嬉しい。桜はほんの少し表情を緩めて、茶に口をつける。甘酸っぱい香が胸に広がった。
 ――だが、この男の来訪がのちに雪瀬に絡んでちょっとした波紋を呼ぶことになるとはこのときは思いもしなかった。



 お茶を一杯ご馳走になると、桜は灰闇窟をあとにし、黒鳥居を出て例の水茶屋へ立ち寄った。この前親切にしてくれたお礼を言いに行こうと思ったのだ。――閉じこもり体質の少女からすれば、ずいぶんな心境の変化であった。

「……こ、んにちは、」

 水茶屋の軒先から若干びくつきながらも顔を覗かせれば、茶釜で茶を沸かしていた店主がおやと眉を上げた。

「この前のお嬢さんじゃあないですか。灰闇窟には無事たどりつけましたか?」
「うん」

 桜はこっくりうなずき、へっついの内側にいる店主を仰ぐ。店内には小料理などに使うものであろう、燻製にされた魚や鳥が縄で吊るされていた。

「お茶と、あんみつ」

 桜は店主に告げて、自分は外の床机に座る。かたわらには紅葉の樹が一本あり、床机や地面にたくさんの落ち葉を積もらせている。
 店のほうから白い煙がゆるりとたゆとうた。桜は膝に手を重ねて、舞い散る紅葉を眺めたりなどしながら餡蜜が運ばれてくるのを待つ。――と、頭上の樹ががさごそと激しく打ち鳴った。猫か何かかなぁと思ってそちらへ視線をやり、桜は眸を大きくする。
 樹上に見知った青年がいた。

「ご機嫌よう、桜サン。驚いた?」
「……びっくりした」

 樹に腰掛け、青年はひらひらとのんびり手を振る。

「何してるの?」
「見てわかりませんか。紅葉を愛でておるのですよ」
「紅葉見るの、ここじゃなくても、できる」

 真砂はずっと葛ヶ原に帰ってきてないのだという。理由は知らないが、どうして帰ってこないの、という意味をこめて桜は言うと、真砂は意味深に笑って身じろぎした。青年の動きに伴ってはらはらと楓の葉が落ちる。頭上に降りかかるそれをうっとおしそうに手で払いやっていれば、不意に伸びた手が葉を取り去って、それから桜の髪をひと房つかみやった。

「秋は紅葉、春は桜。双方の饗宴とは何とも風流な。これで冬の椿が揃えば文句なしなんだけどね」

 いったい何がどうして花の話になるのだ。
 まるで茶化されているような気分になり、桜は少しばかり剣呑な空気をまとって眉をひそめる。

「うひゃああ、こわやこわや。桜サン、そんな恐ろしい形相しないでよ。そのうち鬼婆になっちゃうぜー?」

 くつくつと忍び笑うような笑みを漏らし、真砂は桜の髪から指を離した。
 代わりに袂をあさって、一枚の紙を抜き取る。

「はい、これ。桜サンへの恋文」
「鯉……?」
「うん違うからそれ。雪瀬に渡しといて」

 桜はますます不審の色を深めた。一度畳まれた文に目を落としてから、真砂の上着の袖端をついと引く。

「どうして、真砂、渡さないの?」

 どうして自分で雪瀬に渡さないのか、という意味である。
 だが真砂のほうは桜の言葉などてんで聞いていないといった様子で紅葉の柄をくるくる回してみたりしている。

「ふっふー、さぁねぇ。何ででしょうーか!」
「……真砂」
「だからそんな顔してると鬼婆になっちゃうってば。――あのねぇ俺ねぇ、雪の字に嫌われてるんよ今」
「きらわれてる?」

 そんなことない。雪瀬はひとを嫌いになったりするようなひとじゃない。
 根拠もなく、だが確かな自信を持って桜は首を振った。ぱたぱたと黒髪の毛先が一緒に揺れる。

「――真砂、雪瀬、嫌い?」

 ふと思いついてそんなことを問うてみた。以前、真砂がそう呟いていたのを桜は覚えていた。

「うん嫌い。とっても嫌い」

 本当はあのときとは違う答えが返ってくるかもしれないと少し期待していたのだが、それは儚くも散り去った。それはそうである。桜だって数ヶ月程度で嫌いだったものが好きに変じたりはしない。好きなものだって嫌いに転じたりはしない。
 ただ、あのときは気付かなかったのだが、このひとの言葉には負の湿り気というものがあまりない。きらい、という言葉に付きまとう陰湿な響きがないのである。それが桜には不思議であった。

「あーでも俺、桜サンは好きですぜー? 椿餅くらい好きっ」
「……うー、ん?」

 それがどれくらいの好きであるのかはいまいち想像つかなかったが。
 好きなどと言われ慣れていない桜がほけっと呆気にとられていると、真砂はするりと樹を下り、地に降り立った。

「じゃあな! 恋文よろしくぅ!」

 こちらの肩をぽんと叩くと、真砂は軽い足取りで身を翻す。引き止めるべきか桜が惑うているうちに青年の背中は瞬く間に紅葉にまぎれて消えてしまった。
 
「餡蜜とお茶、お持ちしましたよ」

 ほどなく店のあるじがお盆を持って顔を出す。
 あるじはたたずむ桜をうかがい、「どうしましたか?」といぶかしげな表情を向けた。