二章、撃ち落されるその鳥の名は、
九、
「あー、おっかしー! あいつの不機嫌そうな顔が目に浮かぶようだっ。邪魔ぁみろ負け犬!」
「……あいつって?」
「えー? そりゃああのお馬鹿な餓鬼んちょですよ。俺はそいつに逆恨みされて追われているのでーす」
そんな説明ではわかるわけがない。首を傾げる桜をよそに、真砂はぐいぐいと桜の手を引っ張って毬街の裏通りを駆けていく。
後方へ過ぎ去っていく景色を必死に目で追いつつも、あちらへこちらへ振り回されるうちに、いったいどれほど走ったのか、自分が今いるのが毬街のどのあたりなのか、よくわからなくなってくる。どこいくの、と何度も真砂に訊いてみるのだけど、あちらは「さぁねー」と適当な言葉を返すだけだ。
もとより体力のないことが災いしてか、次第に呼吸が乱れ始め、今は息をするたびに胸が軋む。それに足もじくじく痛んできているようだった。
いい加減歩く速さを落として欲しいと思うのだけど、このひとの前で弱音を吐くのは嫌だったので、桜はぐっと我慢して、もつれがちの足を動かした。
「そろそろいっか」
そうして四半刻ほど走り続けただろうか。
真砂は用心深くあたりを見回すと、よし、とうなずいてようやく足を止めた。角にあった水茶屋を見つけ、その縁台に腰をかける。その隣に桜も座り、へにゃへにゃと自分の膝の上に突っ伏した。
「お疲れですなー。何か食べる?」
「いらない……」
「うん、餡蜜ね。じゃあ俺、団子三つー!」
どうして桜の好きなものをこのひとは知っているんだろうか。
いぶかしげになる桜をよそに、真砂は涼しい顔をして奥の店主に呼びかけた。
まもなくお下げを垂らした可愛らしい少女が冷えたお茶をふたつと、みたらし団子、餡蜜を持って現れる。
「うっわ。さっきのガマみたいな店主からよくお嬢さんみたいのが生まれましたなー?」
真砂は少女のお下げを引っ張りながら呟き、くすくすと彼女の笑いを誘った。
鼻緒で擦った足の指をさすっていた桜はさっき似たようなことを和菓子屋の娘さんにも言ってなかったろうか、と怪訝もあらわな顔つきになる。どうやら真砂の褒め言葉は朝起きたらぽこぽこ卵を産んでいる鶏のごとくそこかしこで出てくるものらしい。
「ねー、桜サン。これ、なぁんだ」
真砂はみたらし団子三本を早々に平らげると、団子の棒で地面に何かを描き始める。
丸が三つに、線が一本。
「おだんご?」
「当たりー。じゃあこれ」
今度は丸がひとつ中央にあり、囲うようにして楕円形の丸が五つある。
うーん、と桜は難しい表情になって考え込んだ。
「お日さま?」
「残念、ハズレー」
「……目玉焼き?」
「橘宗家の食卓はこんな芸術的な目玉焼きがのぼるのかね?」
「うー……」
「“月に叢雲、花に風”」
真砂は歌を詠むがごとく、典雅な物言いをした。あ、とそれで桜は気付く。
「花?」
「アタリ。では、木にツ、女と書いて――」
桜
「さくら。自分の名前くらい漢字で書けるようになりませんとね桜サン」
真砂はにやりと笑い、団子の棒を皿に置いた。
ひらがなとしては知っていたけれど、漢字を見るのは初めてだ。桜は小さく感嘆の息を漏らし、名前の前に座り込んだ。桜、桜、と何度も覚えこむように真砂の文字をなぞる。
ちょうど店からお皿を下げに出てきた少女がふふふと口元に手を当てて笑い、「ご兄妹さまですか」と尋ねた。
「いーえ隠し子です」
「隠し……」
「あ、そういや桜サン。その銃弾売ってるお店のこと、聞かなくていいの?」
真砂に話を向けられ、そうだったと桜は本来の目的を思い出した。
すっかり真砂とくつろいでしまっていたが、別に桜は毬街に遊びに来たわけではないのである。
「――何か?」
「うん。あの……、」
桜は衿から紙を取り出し、優しい目を向けてくる少女へそれを渡す。
「ここ、行くの、どうやって?」
途切れがちに、それでもなんとか言葉を繋げば、少女は考え込むように受け取った紙へと目を落とした。
「灰闇窟。あら、灰闇窟ならすぐそこですよ。ねぇ、お父さん」
「うん?」
「ほら、お父さん。灰闇窟って」
「ああ、灰闇窟ですか。ここから黒い鳥居が見えるでしょう。その先が灰闇窟ですよ」
店から出てきた男は少女から片付ける皿を受け取りながら説明してくれる。それからこちらへ少しいぶかしがるような視線を向けた。
「だけども、お嬢さん。本当にあそこへ?」
「うん……?」
「そうですか。どうか、くれぐれもお気をつけてくださいね」
何かまずいことでもあるのだろうか。
やけに心配そうに言われ、桜は首を傾げながらうなずいた。
「さーて、んじゃそろそろ行きますか!」
話が終わったところで真砂が立ち上がり、ごそごそと財布を取り出す。
「銅貨三枚でございます」
「はいよ、と。あ、そういやついでだから教えて欲しいんだけども――」
真砂は声をひそめ、店主に何がしかを耳打ちする。いったい何を聞いているんだろうと不思議に思いながらも、桜は縁台に座りなおして彼の話が終わるのを待った。
「お嬢さん、本当に気をつけてね?」
暇そうに足をぶらぶらさせていれば、片づけを終えた少女が店から出てきて桜の隣に腰掛ける。
「灰闇窟って、ならず者が多いっていう噂だから。裏では妙な武器の取引もされているって聞くし……」
「みょうな武器……」
だとしたら逆に幸先がよいのではないか。
取引されている武器の中に桜の求めている銃弾があるというの可能性も高い。心なし明るい表情になると、「本当に、本当によ」と少女は心配でたまらないといった様子で念を押した。
「桜サン、お待たせー!」
話が終わったらしい。真砂の呼び声がしたので、少女は桜から離れ、軽い会釈のあと店のほうへ戻っていく。
出てきた青年は手に小さな包みを抱えていた。
「じゃ、ゴチソウサマでした」
「毎度あり」
店主の威勢のいい声を背中に聞きながら、真砂と桜は歩き出す。
「……それ、」
「ん? はい、どーぞっ」
包みへ目を向けて尋ねると、真砂はそれを桜の頭に載せた。危うく取り落としてしまいそうになりながら桜は包みを受け取る。
「……何?」
「軟膏。足に塗っておいたらいかがでしょう」
桜はきょとんとして自分の足元へ視線を落とす。鼻緒で作った擦り傷。もしかして、気付いていたのだろうか。
包みを抱きしめながら、桜はおずおずと真砂の横顔をうかがった。彼のほうは別段何ということもない様子で鼻歌などを歌い始めている。ほどなくこちらの視線に気付いたのか、つと横目をやってにやりとほくそ笑んだ。
「ふっふ、優しいでしょう俺。どきってした?」
それはない。それはないのだが。
ほんの少しためらったあと、桜は真砂の袖端をそぅとつかんだ。
「――……ありがとう…」
消え入りそうになりながら、それでも最後まで紡ぐ。短くてひねりなど皆無だったけれど、精一杯心から口にした言葉。
「いーえ、どういたしまして?」
若干意外そうに眉をひそめてから、真砂は珍しくまともに過ぎる応対を返して口元に笑みを載せた。それが逆におかしい。張り詰めていた緊張の糸が解けたからだろうか、つられたように淡い微笑が零れる。閉じ込めていた感情が緩やかに流れ出るように、自然と桜は微笑った。
「……やだなー、桜サン。それは猫じゃなくて、またたび」
「またたび?」
「猫を悶絶死させるブツですな。――そうだ、“またたび”。最後にいいことを教えてあげよっかー?」
「いいこと?」
問い返した桜の顎をついと指で捕らえ、真砂はこちらの顔を上向かせた。
「さっきのお話。お前は銃弾を手に入れに行くんだっけか。ちなみに俺はね、女のひとに会いに行くんよ」
「女のひと?」
「そう。アナタと少し似た、とびきりの美人さんを誘惑に、さ。――これは俺の“賭け”」
口端を上げて薄く笑うと、真砂は桜の顎をなぞり、頬にかかった髪へ指を絡めた。桜は目を伏せ、ぱっぱと蝿でも追い払うように青年の手を落とす。
「あ、ヤなんだ」
おかしがるように真砂は呟いた。
「雪瀬にして欲しい?」
どうしてそこで雪瀬が出てくるのだ。
桜はぱっと顔を上げ、ぶんぶんと折れそうになるくらい首を振る。
からかわれたのだとわかったのは青年の愉悦を含んだ双眸を見てからだ。
「……真砂」
「ふっふーん、いいじゃんしてもらえば。――さぁって、俺、もう時間だ。じゃーなっ」
真砂は軽く手を上げると、くるりと後腐れもなくきびすを返す。
とおりゃんせの鼻歌なんかを唄いながら、角へと消え行く男の背中をしばし眺めやってから、桜もまた自分の向かうべき場所へと歩き出した。
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