二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 八、


 真砂はいろんなところで立ち止まる。
 それはときに黒壁の酒蔵の並ぶ問屋であったり、大きな呉服屋であったり、はたまた鉢植えの鬼灯であったり、どこからともなく聞こえてくる三絃の音であったりした。
 店の売り子の綺麗な娘を冷やかしている青年の横顔を眺めながら、それにしても本当によく笑うひとだなぁと桜はぼんやり考える。
 雪瀬も無表情ではないけれど、あのひとの場合、どちらかというと苦笑や微笑といったものが多くて、声を立てて笑い転げている姿なんて見たことがない。雪瀬に桜が見るのは静である。たゆとう木漏れ日のような、あるいは雨上がりに吹く涼やかな風のような、優しさを含んだ静けさである。
 反対に真砂に見るのは動だ。草木を震わす青嵐のような強さだ。
 雪瀬と真砂は確かにあわないのかもしれない、と桜は少し思った。

「おおっ、おいしそうな団子―!」

 団子を焼く匂いに引き寄せられ、見る間に目の前から消えてしまった真砂を桜はもはや慣れた様子で追いかける。

「あんこ、みたらし、醤油のりかぁー。桜サン、どれがいいっ?」
「んー……?」

 屋台の店先には三種の箱があり、味の異なる団子がたくさん並べられている。桜は三種の団子を見比べ、悩ましげに眉を寄せた。

「どれ……、甘いの?」
「甘いのね。桜サンたらお子様ですなー」

 真砂はわざとらしく肩をすくめ、桜の額をつんつん指でつつく。またよろけてしまい、桜はむぅっとした表情で真砂を仰いだ。あちらはとたんけらけらと笑い出し、桜の額を思い切り弾いて指を離す。
 な、何をするのだ。少し面食らってから、じわじわと痛む額をさすって桜はもはや怒るというよりは不思議そうな表情をした。

「たの、しい?」

 基本たいした反応をしない自分にちょっかいをかけてそんなに面白いものなのかなぁと思ったのである。

「うん、楽しいっ」

 けれど返されたのは、いっそ鮮やかなまでの笑顔だった。
 まさかそんな風に素直に答えられるとは思ってもみなかったので桜が少しばかり驚いている隙に、真砂はこちらの頬にかかった髪をひと房、戯れのように絡め取った。すくい上げ、そこにつぅと口付けを落とす。
 はてな、という顔になった桜の耳元に唇を寄せ、真砂はくつくつと忍び笑いを漏らした。

「とーっても楽しいぜぇ? “嫌がらせ”はさ」

 刹那、背後からたち起こった疾風が青年の手元すれすれを突き抜ける。

「ほぅら、釣れた」

 真砂は口端を吊り上げ、桜の頭越しに視線をよこす。

「こんなんで釣れちゃうなんてさぁ。へっへー安い釣りにすぎるぜ? 雪の字くん」

 網を手繰る漁師さながら何がしかを引っ張るような仕草をしてみせると、真砂はいったい誰に向けてなのか、にんまりと意味深に目配せした。それから桜だけに見えるよう、金銀の房飾りのついた筆を取り出す。

「でもま、これにて鬼ごっこは終了―。悪いけど、真砂さまは多忙だし、飽きっぽいんよ。“冗長な余興ほど、つまらぬものはない”ってな」

 有名な格言なのか、それとも自作のものなのか、何やら得意げに言い放つと、真砂はぐいと桜の腕を引いて脇道へ入った。
 角から顔だけを出して通りのほうをうかがいつつ、帯に下げていた携帯用の墨壷の蓋を回す。白い筆先を中に浸すと、真砂は背後の壁へ向き直った。×印をひとつ描き、同様の印を対面の壁にも施す。数歩進んで、左右にまたふたつ。計四つの×印がつけられたことになる。

「さて、ここからが見所」

 真砂はその場にかがみこむと、筆を地面につけた。音を外した鼻歌まじりに、つらつらと落書きまがいの文字を描いていく。
 
「と…お、りゃ…せ…?」
「“とーぉりゃんせ とおりゃんせー こーこはどこの細道じゃー 真砂様の細道じゃー”」


 ちょっと通してくだしゃんせ
 ご用のない者 通しゃせぬ

 行きはよいよい 帰りは怖い 
 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ


 墨汁は見る間に地面に吸い込まれ、ほどなくぼんやりと淡い群青の光を宿した。唄を切って、真砂は筆を離す。瞬間、群青の文字が地面に燦然と浮かび上がった。

「了」

 筆が横に引かれれば、地面に浮き出した青光が火花を散らして弾ける。とたん文字の色が急激な風化でも起こしたように色褪せていき、寸秒後には地面は元の状態に戻っていた。

「よーし、忠犬。走るぜ?」

 返事をするまもなく、次の瞬間には手を引かれている。うわ、と桜は足をもたつかせながら真砂に引っ張られて走り出した。
 名残風に絡め取られたのか、しゃらんと後ろ髪に挿された簪が澄んだ音を立てて揺れた。




 ふたりが動いた。

「暁」
「はい」

 小道に入り込んだふたりを追って、雪瀬と暁は身を潜めていた角から抜け出る。が、そこで真砂がおもむろに立ち止まり、こちらを振り返った。油断しきっていた雪瀬は、げ、と思わずたたらを踏み、暁とぶつかる。
 米俵を積んだ荷車に花売り、どこぞから流れてきたしゃぼんの玉、行きかう人々と、そんな雑多な風景の中、愉悦を含んだ濃茶の眸と確かに目が合った。
 真砂は確信犯的に口端を上げてにやりと笑うと、ひらひらと手を振って角へと引っ込む。どうやらこちらの動きなど最初からお見通しだったらしい。いちいち挑発的な、と雪瀬は思い、少し眉根を寄せた。何ならもう一発、風でも放ってやればよかったか。そのお花が咲いてそうな脳天あたりに。

「雪瀬さま」

 こちらの不穏な思考を知ってか知らずか、暁は気遣わしげな目を向け、参りましょうと軽く雪瀬の袖を引いた。あちらにばれてしまっているのなら、もはやこそこそしていている意味もない。雪瀬はうなずき、人ごみを縫うようにして通りを抜け、路地へと足を踏み入れる。

「……?」

 瞬間、何故かあたりの空気が異質なものに変わるような妙な感覚を覚えて、雪瀬は眉をひそめた。何だこれ。微かな違和感の正体を探るように視線をめぐらせると、突き当たりに漆喰の壁がたちはだかっているのが見え、そこで道は二股に分かれていた。だが肝心のふたりがどこにもいない。

「ええ?」
「これは、まずいですね……」

 どうやら早くも見失ってしまったらしい。
 暁は深刻そうな表情で呟き、とにかくも先を急ごうと歩き出そうとする。だが、二三歩いったところで突如、青年の身体が何かに阻まれるように弾かれた。危うく体勢を崩しかけ、暁は数歩後ずさる。

「暁?」
「はぁ、何でしょう、何か壁のようなものが……」
「待って」

 首をかしげた青年が今一度前へ手を差し伸ばしかけるのを制し、雪瀬は刀の鞘を抜いて、それを宙へと放り投げた。緩やかな弧を描き、空へ投げ上げられた鞘はしかし中途で見えない壁にぶつかりでもしたように弾かれてしまう。
 
「どういうことでございましょう……?」

 不可思議な現象を目の当たりにして首をひねった青年をよそに、雪瀬は転がった鞘を拾い上げ、それを今度は反対方向、自分たちが今しがた入ってきたほうへと投げた。
 が、やはり同様。
 大通りの誰がしかの脳天を叩く前に、またも何かにはばまれたように鞘は何も無いところで跳ね返って地に落ちる。

「これは……。もしや閉じ込められた、ということですか……?」
「おそらくね」

 焦燥を帯びた面持ちになる暁にうなずき、雪瀬は大きく息をつく。
 あの男のことだ、今頃しめしめと得意げに笑っているに違いない。その顔を想像するとどうにも気分が悪くなった。