二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 七、


 葛ヶ原を出たのは、雪瀬に頼まれたお使いぶりだった。
 桜は目の前に広がる今までと少しばかり異なる景色を見渡す。あのとき、煙る雨のせいであまり見通しのきかなかった視界は今は澄み渡り、青空の下、一面のすすきの綿穂が押し寄せる風に颯と波立つ。
 風が流れる。
 風、きもちいい。
 風を身体いっぱいに受けていると、なんだか開放感溢れる心持ちになってくるのだから不思議だ。

「――なぁなぁ桜サン桜サン。兎と亀ってさ、競争すると、亀が勝つの知ってた?」

 だが、真砂のほうはどうやらその手の情緒はまったく持ち合わせていなかったらしい。

「うさぎとかめ?」

 桜は怪訝な表情になって聞き返した。

「そう。普通走ったらどっちが勝つと思う?」
「……うさぎ?」
「ふっふーん、ところがどっこいそうはいかねぇの。兎は己の力を慢心するあまり眠りこけ、最終的にはのろまな亀さんが地道な努力で勝つのだよ。これはそんな美しくも残酷なお話。――しかしよかったねぇ桜サン?」
「うん?」

 いったいどうして桜が“よかったねぇ”になるんだろう。うーん、とどちらかというと血の巡りの悪い頭で考え込んでいると、

「だって桜サン、のろま葛ヶ原代表でございましょ?」

 と非常に失礼なことを言われた。
 桜はむっとなって青年を睨めつける。

「おや」

 真砂は器用に片眉を上げて意外そうな表情を作ると、不意にこちらへ人差し指を突きつけてきた。それをゆっくり右へ動かす。桜は右へ目を移した。左へ指が動く。桜も左を目で追った。

「……?」

 ゆらゆら左右へ行ったり来たりさせられたあと、額を指で弾かれる。
 驚き、桜が声のない悲鳴を上げると、真砂はやにわに吹きだした。

「やっぱり桜サンってお馬鹿ですなー!」

 そんな風に笑って言われればいくら桜とて腹が立つ。思わずこぶしを握るが、しかしそれを振ろうとする前におっとと真砂は身を翻した。こぶしが空を切る。うっとなった桜を肩越しに振り返り、「馬鹿だ馬鹿だ」と真砂は冷やかしをかけてまた歩き出した。
 その背中を足早に追いかけ、桜は腹いせまじりにぺしりと青年の背を叩いた。




 街の門の後方に高くそびえる火の見矢倉があった。
 門番に呼び止められ、真砂が木鈴を見せる。葛ヶ原のとき同様、またも容易に門を通されてしまい、どうにも拍子抜けした気分になりつつ、桜は青年の後ろにくっついて歩いた。
 そうしてひとたび門を抜けてしまえば、一気に視界が開ける。

 まず、大きな通りがあった。
 通りの両脇にはさまざまな店々が立ち並び、その店棚に立ち寄る客や通行人、彼らを目当てに菓子や花を売り歩く行商人たちが交差して大いに賑わっている。

「毬街の通りはなー、歩けば仕立てたばかりの衣も夕暮れには擦り切れているんよ」

 口元ににんまり笑みを載せて、真砂が本当だか嘘だかわからぬことを語った。けれどそれにもうなずけてしまうほどのひとの量である。

 たらいから秋刀魚を取り出して女たちの前でさばいてみせる男がいれば、その前を米俵をのせた荷車ががたごとと通り過ぎ、駕籠やひとがせわしなく行き交う通りの真中では紅傘をさした男が街の子らにしゃぼんを吹いてみせている。葛ヶ原とは異なる、華やいだ街の空気を感じ取って桜はほぅと感嘆の息をついた。
 目の前へ男の吹いたしゃぼん玉が流れてくる。ふわふわと浮遊するそれらを目で追って、桜はつと指を伸ばした。けれど薄い虹色の膜は触れた瞬間、弾けて消えてしまう。
 声には出さずにびっくりしていると、隣からくつくつと笑う声が漏れた。

「……真砂はここ、何しにきたの?」

 宙に浮いた手を下ろしながら、ばつの悪さを繕うように問いを向けてみると、「ヒミツー」と青年は口元に人差し指を当てて底知れなく笑った。

「桜サンは? どうして毬街なん?」
「……毬街に欲しいもの、あるの」
「へぇぇぇ? 何?何?」

 こういうところ、このひとは無駄に詮索好きだなぁと思う。少しわずらわしさのようなものを感じながら、桜は答えることを拒んで眸を伏せた。
 
「ちぇ。つまんねぇの」
「じ、」
 
 自分も秘密って言ったくせに。

「ふぅん、そう。じゃあさ!」

 真砂は何か名案でも思いついたようにぽむっと手を打ち、こちらを振り返った。

「教えっこしようぜ。桜サンが教えてくれたら、俺もどこに何しに行くか教えてあげる」
「……んー?」
 
 真砂がどこへ行こうと桜はあまり興味ない。

「桜サンあのね。そんな淡白なところだけあの雪の字馬鹿に似なくて結構。こういうときは目を輝かせて答えてやるのが“人付き合い”ってもんなんだぜ。 ――はい、何買いに行くわけ、お前」
「――ん、と、」

 この青年独特の、相手を無理やり引っ張り込んでさも当然といったような空気にのまれてついつい口を割ってしまいそうになる。せめてもの抵抗とばかりに桜は空へ視線を逃してひと呼吸置くと、しぶしぶ口を開いた。

「……銃弾」
「ふぅん? つまんない」
「つ……」

 率直といえば率直すぎる物言いに、桜は少なからず傷ついた。
 よくわからないけれど、“人付き合い”というのならこういうときこそ、顔を輝かせてうなずいてくれるものではないだろうか。

「――……真砂は?」
「俺はねー…っと、何あれ! うっわーすげーっ!」
 
 考え込むように視線を横へやったとたん、真砂は急に目をきらきらとさせて歓声を上げた。

「なぁ見ろ! あれあれ!」
「あれ?」
「あれ!」

 急な話題の転換にすっかりついていけなくなっていた桜の手をぐいと引っ張って、真砂は通りの人だかりを指差した。
 だが長身の青年とは異なり、女子の中でもさらに小さいほうに分類される桜は群衆にあっけなく視界を阻まれてしまい、すぐには真砂が何のことを言っているのかわからない。それでも一生懸命爪先立ちをしていると、ほどなくひととひとの合間から茶色い毛玉が動いているのが垣間見えた。
 観客の音頭に乗ってぴょんぴょんとあたりを飛び跳ねる。

「……あれ、なぁに?」
「猿芸ですよ」
「さるげい」
「あの茶色いのが猿。あれが芸すんの」
「ふぅん……」

 芸をする猿のいったい何に周りの人間たちが興奮しているのか、桜はいまいち理解できず、小首を傾げた。首に紐を付けられて、飛び跳ねさせられて、なんだかかわいそうだ。桜はむしろそちらの気持ちほうがまさってしまう。
 つまんなくなってひとだかりから離れ、桜は地面に木の棒で落書きをした。

「ってああー! あれはっ!」

 しばらくの間、真砂は夢中になって小猿の芸を見ていたようだったが、しかしそれも一時と続かず、また顔をぱぁっと輝かせ、向かいの露天商のほうへ飛んでいってしまう。

「おい、忠犬。こっちこっち」

 真砂が手招きする。人通りの激しい道を縫うようにして抜け、桜は長身をかがめて物色している青年の肩越しにひょいと露店をのぞきこんだ。
 地面に敷かれたわらの上には、色鮮やかな簪やら櫛やら飾り紐やらが所狭しと並べられている。異国の品もいくつかあるようだった。
 見慣れぬ形の髪飾りや、縮緬の花、鼈甲の櫛などを眺めてから、桜は端っこに置いてあった簪を手に取る。淡紅の彩玉を何連にも連ねてあるそれは振るとしゃらんと玲瓏とした音を奏でた。玉に陽光が射し込み、ぼうと明けの空のような光を帯びる。
 きらきらだ、と桜は呟いた。きらきら。キレイ。
 
「――それ欲しいの?」

 つい見とれてしまっていると、真砂はこちらの袖を引いて尋ねた。
 桜はきょとんと眸を瞬かせる。欲しい?、と問いの意味自体をつかみかねて繰り返し、ようやくこの青年が桜に簪を買ってくれるつもりらしいことに気づいた。慌ててぶんぶんと首を振る。だって、桜は雪瀬にだってほとんど物を買ってもらったこと、ない。以前、餡蜜をおみやげに買ってきてくれたのと、夏祭りのときに風鈴を買ってくれたのだけだ。
 ひとに何かをもらう、というのは桜にとってすごく大きなことだった。
 
「欲しいんでしょー? 貸してみっ」

 だが真砂はとにかく強引なのだ。絶対こっちの言うことなんか聞いてなさそうな感じで、桜の持っていた簪を抜き取ってしまった。
 後ろに回られ、さらと髪が持ち上げられる。ひやりとした手のひらの感触に首をすくめていると、器用な手つきで髪を結われたあと簪が挿された。

「ほーら、すごく似合いますぜー、お嬢さん。――どうでしょ、お気に召されました?」

 店の売り子よろしく青年は嘘くさい賛辞をふっかけてくる。
 前にいた本物の店主がおかしそうに眸を弓なりに細めた。

「ええ、お似合いですよ、お嬢さん」

 のんびり声をかけられ、桜は困って真砂と店主とを見比べる。しゃらしゃらと簪の彩玉が揺れる。綺麗だなぁと思って欲しかったのは本当、だけども。

「よしっ、じゃあこれちょーだい」

 桜が迷っているうちに真砂は懐から財布を取り出し、店主にすばやく銅貨を払った。

「お金払う。わたし」

 お釣りをもらって腰を上げた真砂を追い、桜はついついとその袖を引いた。

「あーそう? じゃあ利息つきで金貨五枚な!」
「きん……」

 さっき店主に渡していたのは銅貨ではなかったか。
 しれっと言われて、桜は少し眉をひそめる。とはいえ、ここにきて払わないというわけにもいかない。
 巾着から財布を取り出し、中を確かめてから桜は肩を落とした。
 ――銅貨二枚と鉛しかない。

「家、」

 家に帰ってから払う、と言いかけたところで、ふと隣の青年がけたけたと笑い始めた。

「まっ真面目だ、さすが忠犬……!」

 さっきからそればかり。桜は犬じゃないのに。
 憮然となった桜をよそに真砂は腹を九の字に折って、あぁおかしいと息も絶え絶えに笑う。前から思っていたけれど、このひと絶対笑い上戸だ。

「まぁいずれ畑から金塊でも掘り当てたらたんまり返してもらいますよ。期待してるぜ、犬!」

 いっそ嫌味なくらいの晴れ晴れとした笑顔でこちらの肩を叩き、真砂は歩き出した。
 少し考えてから遠まわしにこちらの申し出を断ったのだとわかって、桜は眸をひとつ瞬かせる。首を傾けるようにして後ろに挿された簪に手をやり、一度にぎにぎとしてみた。簪に下がった彩玉の軽やかな感触が指先をかすめる。
 桜はほんのりと人知れず微笑を綻ばせ、それからもうずいぶんと離れてしまった青年の背を追った。