二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 六、


 毬街へ行く理由:和菓子を買いに行くため
           やっぱ病人を運ぶため。


 眼前に突きつけられた紙には蚯蚓ののたくったような字でそう訂正がされていた。横にずらした紙から青年の不敵な笑みがのぞく。

「というわけでっ。不肖慈悲深い俺さま、桜サンを毬街の瀬々木んところへ連れていってきます。異存はないな!?」

 耳元近くで騒がれ、雪瀬は少しばかりうっとおしそうな表情になりつつ文机から顔を上げた。

「……何のために?」
「だーかーらー。病気になった桜サンを運ぶためって書いてあるだろー? ほら、真礫も真砂って直したし」

 確かに橘真礫という署名にも墨が引かれ、代わりに“まさご”とひらがなで書いてある。だが問題はそこじゃない。

「……病気って、何の病気? さっき会ったときは全然普通だったけど」
「ああまぁそれは猫毛病、だからな」

 しれっと答えられ、雪瀬は動かしていた筆を取り落としそうになった。ネコゲビョウって、なんだそれは。

「ええーこの病にかかりますと、猫が毛玉をのどにつまらせるように三日三晩咳に喘いだあげく、しまいには窒息死してしまうんですよ。うん、無学な雪の字くんはご存じないと思いますが」

 不審げな顔つきになった雪瀬に滔々と説明し、真砂は申請理由を書いた紙をばんと文机の上に置く。

「これはひとの生き死にのかかった緊急事態である。――ゆえ、もちろん門を開けてくださいますよね、橘雪瀬どの?」
「……」

 よくもまぁ抜け抜けと、と言いたい気持ちを雪瀬はかろうじて堪えた。ちらりと紙へ一瞥を送り、筆を瓦の硯に置く。

「却下」
「はぁー!?」
「その病人ってのが怪しい。――桜、それほんと?」

 部屋の隅っこにちょこんと丸まっていた少女がびくりと肩を震わせてこちらを振り返った。しばし固まってから、緋色の眸にありありと動揺を滲ませて逃げるように目を伏せる。

「……ほ、ほん、」
「本当ですとも! はい判子!」

 しかしうっかり桜のほうへ気をやってしまったのがいけなかった。こちらのわずかな隙をついて、真砂が文机に置かれていた判子に手を伸ばしたのだ。

「あ!」

 気付いたときにはすでに時遅し。雪瀬の目の前でぽんと紙に許可印が押される。しっしっしと悪徳代官のような黒い笑みを浮かべて紙を取ると、真砂はひらりと脱兎のごとくきびすを返した。

「ほらズラかるぞ! 桜サン、おーいでっ」
「……、」
「毬街、行くんでしょ?」

 一時惑うようにこちらを仰いだ少女は真砂に問われて、にわか表情を揺らがせた。寸秒のためらいののち、桜が微かに顎を引いたのを見取って真砂は軽々とその小さな身体を抱き上げる。

「ふっふー雪瀬くん、俺たちが悦いことをしている間、きみはせいぜいこの屯所の中で一日中葛ヶ原出入記録と睨めっこでもしているがいい! じゃーな、負け犬っ」

 片腕を桜の腰に回し、ひらひらと手を振って真砂は屯所を出て行く。男の嫌味たらしい笑みを最後に扉が閉まった。
 扉の音がぱたん、どころか脳裏にばったーんっという重苦しさをもって反響する。ひとり残された雪瀬はしばらく呆然としてみてからふと我に返って窓のほうへ駆け寄った。だがそのときには真砂は門番に木鈴を見せており、うなずいた門番が門を開けている。

「待――」

 思わず制止の言葉が口をついて出るが、しかし真砂たちにはおろか、肝心の門番にすら届いていないようだった。窓の桟に手をついて地面に降り立ち、そちらに走って行っているさなか、門は閉められ、真砂と桜の姿が関所の外へ消える。
 ひゅうと寒々しい木枯らしが容赦なく身体に吹き付ける。
 空と風が嗤いながら言っていた。

 負け犬。

「う、うるさい」

 雪瀬はむっとして呟き、それも少々虚しくなってきて地面にしゃがみこんだ。膝を抱えて、はぁと深々と息をつく。のの字書きたい。今すごくのの字書きたい。

「あれ、雪瀬―? どうしたのこんなところに座り込んじゃってさ」

 と、背後から歩いてきた人影がこちらの肩を軽く叩いた。
 地面にのを半分書きかけていた雪瀬はひとつふたつ瞬きをして、馴染みの少年の顔を見上げる。

「……ゆき、今暇?」
「え、いや、全然暇じゃないんだけど。これ宗家のひとに届けに行く途中だし」

 透一は胸に抱えた風呂敷を示し、若干たじろいだ様子で身を引いた。

「それなら今俺が受け取った」
「いや雪瀬、俺が受け取ったって、ね?」
「だからゆき、俺の代わりにここで毬街へ出てくひとの検分しててくれない? 日が暮れる前にはきっと帰ってくるから」
「え、全然話が見えないんだけども」
「うん、ありがと。こういうときはゆきに頼るもんだよなぁやっぱり。おみやげ何がいい?」
「んー? それなら栗の屋の豆大福がいいかなぁってちょ、雪瀬―!?」

 蕩けそうな表情で答えてからしまったとなる少年に、「わかった豆大福ね」と返して雪瀬は身を翻す。そのまま駆け足気味に関所の門のほうへ向かっていると、

「お待ちを、雪瀬さま!」

 屯所から何かを抱えて、暁が出てきた。
 立ち止まった雪瀬へ、これを、と青年は一本の刀を差し出す。

「外は何かと危険が多いのでどうかご携帯ください」
「あーありがと」
「それから、差し出がましいかもしれませぬが、私もお供してよろしいでしょうか?」
「うん、いいけど……、」

 この青年にしては珍しく積極的な申し出だ。別に構わないことには構わないのだが、動機が不純なだけに雪瀬は言葉を濁す。

「だって雪瀬さま、真砂さまがたびたび毬街に行っていることをやはり不審に思い、調査なさることに決めたんでしょう。身内でさえも疑いの目を向けるとは見上げた心意気です。されど、宗家の方をお守りするのも私の役目でありますので」

 しばし――雪瀬は言葉を失った。

「……何か、妙なことを言いましたか?」
「いや、ううん。……暁ってさぁ……」
「なんでしょう?」
「馬鹿真面目というか、真面目な馬鹿だよね」
「は」
「いえ。そう、真砂が怪しいからあとつけることにしたの、そのとおり」

 口に出して言ってみてから、んん?と雪瀬は考え込む。
 よく考えたら、本当にそのとおりだ。第一、そうでなければいったい自分は何のためにふたりを追いかけるつもりだったというのだろうか。まさか負け犬、なんていうありがちな挑発に乗ったわけではあるまい。ましてや桜と真砂が一緒にいるのが気に食わなかったとかそんなこと、あるわけがない。ない。断じてない。天地がひっくり返り、空から矢が降ってきたってない。
 ないない、と十回ほど胸の中で繰り返し、雪瀬はきわめつけにぶんっと一回首を振って否定した。

「雪瀬さま?」

 不思議そうな顔をする暁の後ろで門が開く。
 とたん、扉の外から潮の匂いを多分に含んだ湿っぽい風が流れ込んできて、雪瀬の髪を巻き上げた。雪瀬は眸を細める。葛ヶ原内地とは異なる、外の風だ。海の匂いはいつも毬街を、果てはその港に集まる数多の異国船を思い起こさせ、得も知れぬ感慨を胸に呼び起こす。
 吹きすさぶ風の中、少し先を歩く青年と少女の姿へ目を向け、よくはわからないがやっぱりなんだか無性に面白くない気分になって、ああこれなら最初から屋敷に閉じ込めておくんだった、と雪瀬はそっとごちた。