二章、撃ち落されるその鳥の名は、
二、
光は麗らかに葛ヶ原の空に満ち満ちる。
まだ夜が明けて間もない空を鴉が群れを成して飛び立っていった。
淡い蒼が一時黒斑に覆われ、けたたましい羽音とともに方々へと鴉が散っていく。出立に鴉とは何とも縁起が悪い、と空を仰ぎながら少女はぐちる。
南の、瓦町との境に設けられた関所。
その簡素な門構えの前に集まった一群の中にひとりの青年を見つけ出すと、五條薫衣(ごじょうくのえ)は馬を降り、颯爽とそちらへ向かって歩いていった。
青年のかたわらにたたずむ青毛の馬がぶるんと鼻を鳴らす。それでこちらに気付いたらしい、馬に荷を乗せていた青年は薫衣を見つけてふわりと微笑した。
「おはよう、薫ちゃん。見送りに来てくれたの?」
「まさか。見送りなら鴉百羽がそこかしこで騒ぎ立ててるじゃないか」
「それ縁起悪いって言うんじゃないかなぁ」
「さて、どうかな。――ん」
ほらよとばかりに薫衣は青年の鼻先に持っていた包みを突き出す。
「……何?」
「お弁当。感謝しろよ。おおいに感謝しろ。そして泣きながら食すといい。この多忙な私自らまだほの暗いうちに台所に立って作ってやったんだから」
「おや」
颯音(さおと)は手の中の包みに視線を落とし、少し首を傾ける。
「……薫ちゃん、料理できたっけ?」
少女の表情がみるみる怒色に染まった。
「無―っ礼な! 女子たる者、料理のひとつふたつできるに決まっているだろう」
「ああ、ごめんね。あまり見かけたことがなかったもので」
「だってだって、まずおにぎりだろー、それからたまご焼きにー、あとおにぎりとか、たまご焼きとか、な!」
「薫ちゃん。たくさん言ってるようで二種類しかあげられてないよ」
「ん?」
はた、と止まって、薫衣は折った指を見やる。
「だっておにぎりだろう? あとたまご焼きにー」
「あとおにぎりとかたまご焼きだよね。有難う」
じゃあ楽しみにしてるね、とにっこり微笑んでみせる青年の胡散臭さといったら。どうせおかずとごはん各一種類だよ、悪いか!
「い、いらないなら……、」
返せ、と口に出しかけるも、颯音は薫衣がもごもご言っている間にさっさと馬の背に弁当包みをくくりつけてしまったので、しぶしぶ言葉をおさめた。薫衣は頬をかき、そっぽを向いて腕を組む。男が笑む気配がしたのでますます不機嫌になり、目を伏せた。
橘颯音は今日、葛ヶ原を発つ。
目的地は隣の領地である、瓦町の百川諸家。あちら側にすでに話もいっている。護衛や案内役も連れた正規の訪問だ。
しかしながらこの訪問、表向きは百川諸家率いる刀斎(とうさい)の還暦を祝う、ということになっているのだが、実際は百川刀斎に兵を貸してくれるよう頼むのが目的である。内通者の存在を案じてこちらの事情は長老会にも秘されているため、今のところ知っているのは薫衣たち橘一門だけだ。
「刀斎さまのこと、頼んだぞ?」
「――薫ちゃんこそ」
言外に兵のことなどを含めながら囁けば、颯音は反対に内通者の件を釘刺した。こういうところ、この男は本当にぬかりがないなぁと少し感心まじりに思ってしまう。
颯音は馬の荷を結び終えると、こちらへ向き直った。
「葛ヶ原のこと、任せて、いいよね?」
「あなたがそう命じるのなら」
「じゃあ任せた」
橘宗家当主さまからのその言葉は思いのほか重く薫衣の肩にのしかかった。
うん、と己に確認するように薫衣はうなずく。うん、大丈夫。あなたの留守はきちんと私が守る。
「ああ、任された」
ふ、といつもは穏やかな色を湛えた濃茶の眸が細められる。鷹揚な微笑が青年の口元に乗った。橘颯音に時折のぞく支配者の顔だ。
颯音が目配せをすると、それに応じて門番たちが門の閂を外し、扉を押し開く。近頃閉じられていることの多い扉は重苦しい軋みを上げながら口をあけ、眼前に一本の道を出現させた。
「じゃあね、薫ちゃん」
鞍に手をかけたと思えば、青年は瞬く間に馬上のひととなる。
「いってらっしゃい」
あるじの邪魔にならぬよう薫衣は一歩後ろへのこうとした。だがそれを軽く肩をつかんで止められる。
「――お土産は何がいい?」
すれ違いざま、微笑を帯びた声がそっと薫衣だけに聞こえるように耳打ちする。ふらりとどこぞやへ遊びに行く放蕩息子みたいな台詞に、薫衣はひとつ眸を瞬かせたあと、小さく笑みをこぼした。
「無論噂に名高い百川の酒だよ。金持ちが」
悪態をついて返すと、はよ行けとでもいうように馬を軽く叩く。
馬が動き出す。了解、と笑みの含んだ声で返して颯音は走り出した。
「お気をつけて」
青年と一団を見送り、薫衣はきびすを返す。待たせておいた栗毛の馬が少し心配そうにこちらを見つめていた。優しい眼をした子だ。薫衣は少し笑って馬に飛び乗る。
後ろで門の閉められる音がしたが、もはや振り返ることなく薫衣は馬を走らせた。己は己のさだめの示すところに身を置くがため。
――この別れの意味するところを彼らはまだ知らない。
*
都の南殿に咲く桜の葉はひらひら、ひらひらとせわしなく舞い落ちて、落ち葉掃きの手をたいそう煩わせているのだそうな。一方、その隣に寄り添う常緑の橘は春夏秋冬、いつをもってしても色褪せることがない。
時が移ろうても変わらぬ常緑の葉を持つことから、橘は転じて『永久』を象徴する樹になった。二百年も昔、時の光明帝は即位式において常緑の橘と千変万化の桜を一連、南殿の右と左に植えたそうだ。この国のたゆまぬ変化と永久の繁栄を祈って、と書物には記されている。
「だけど、天はその願いを聞き届けなかったのよ」
少女は窓際に腰をかけ、視界に広がる寂れた裏路地を眺めながら呟く。
道端には乞食がひとりふたりと転がり、その頭を一羽の黒鴉がつついている。とても繁栄を約束された国とは思えない。
万緑の橘とてやがて枯れ落ちるように、国もやがては滅びるのだ。
「何してんのー?」
長い黒髪を風になびかせながら外を眺めていると、背後からおもむろに人影が近づいてきた。欄干に手をかけて軽く身を乗り出す。
「何か面白いものでも?」
「別に」
「ふーん」
「ただあのひと、いつ死ぬのかしらって。ずっと見ていたの」
藍(あい)は道の端に倒れた男のひとりを指差した。ぼろ布のような衣をかろうじてまとった男は地面に打ち捨てられでもしたように力なく四肢を投げ出している。一見死んでいるようにも見えるが、時折自分にまとわりついている蝿をわずらわしそうに払うのでまだ生きてはいるらしい。
「ふぅん。病んでんね」
淡白に呟き、青年は欄干から手を離した。
起き抜けだからか、その声は若干かすれて、喉がごろつくような響きが混じる。いつもは後ろで結われている濃茶の髪も今は肩にはらはらと振りかかっていた。それを紐でくくりながら、
「もう帰るの?」
窓の桟から腰を上げた藍へと青年は好奇の目を向ける。
「帰る」
「ふぅん?」
男は明らかに話の続きを藍に求めていたが、それを藍は意図的に無視した。しどけなくはだけていた衿を直し、藍は衣桁にかかっていた黒羽織に袖を通す。
「あぁそっか、月詠さまに言われたお仕事があるんだ?」
これでいてこの男はなかなか鋭い。
確かに藍はそのためにこの毬街へ来た。
「……さぁ、何のことかしら」
「つっまんないなぁ。もっとさ、親交をはかりましょーよ。夜だけじゃなくて」
「あなたの戯言は夜だけで結構」
「えー俺は夜だけじゃ足りないけどなー」
青年は藍の袖を引っ張って、下からこちらの顔をのぞき見る。
「ね。どこ行くん?」
「――早く葛ヶ原に帰ったらどう?」
「ふっふー、葛ヶ原の関守は遅起きだからまだまだ開かないのだよ」
くつくつと喉奥でせせら笑い、青年は窓の桟に腰掛けたまま懐からごそごそと煙管を取り出した。煎じ煙草を雁首につめると、火をつけゆっくりくゆらせる。独特の香を放つ煙が朝の空にふうわりと上っていった。
「あまり派手な動きをすると、疑われるよ」
「なぁーに、ばれないばれない」
「橘颯音は内通者を探し始めたんでしょう?」
「だけども残ってるのが雪の字と五條と蕪木ですから。俺のが上手」
「なら、いいけど」
一見軽薄そうな男であるが、今のところ藍のことはあちら側に伝わっていないようだ。上手、というのは真実かもしれぬ。
「――帰る」
藍は袖を捕まえる男の手を払い、黒衣を翻す。だが襖に手をかけたところでふわ、と微風が藍の黒髪を絡め取った。
この一族お得意の風術であろうか。
藍は柳眉をひそめ、構わず襖を開いてしまおうとする。
「ほんとつれないなぁ。ねぇ、藍サン。雪瀬今どうしてるか知ってる?」
踏み出しかけた足が止まった。
「……きーちゃん?」
「そう」
青年はもったいぶって煙をのんびり吐き出す。
「“きーちゃん”はね、今夜伽といるよ。月詠さまご執心の」
「……ふぅん」
「なんだ。知ってたん?」
「噂には」
何せ空蝉に夜伽を探すよう話を回したのは藍だ。
「――フクザツ?」
「別に」
「へぇー。複雑この上ないって顔してるけどねぇ? まぁいいや、」
婉曲的な言い回しでねちっこく攻めるのは飽きたらしい。青年ははずみをつけて窓の桟から下りると、煙管の雁首を煙草盆に打ち付け、灰を落とす。
「俺も帰ろうっと。きーちゃんがお待ちの葛ヶ原にさ」
衣桁にかけられた羽織をとりながら、橘真砂(まさご)はにやりと口端を上げた。
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