二章、撃ち落されるその鳥の名は、
三、
人は驚きすぎると、声を上げることすら忘れてむしろ茫然自失としてしまうというが、その日の彼女などはまさしくその通りであったといえよう。
――無い。
箱の中へ視線を落とし、桜はゆっくりひとつ瞬きをした。いやいやそんなことはありえないと首を振り、封切り済みの小箱にかぱっとふたをする。大きく深呼吸したあと、今度は祈るような気持ちで今一度ふたを開いた。だが、それですべてが元通り……なんてことになっているわけはなく、やはり中身は空っぽのままだった。無い。中身が無い。
「――……、」
もっぱら表情が乏しい少女なので表面上はひどく落ち着いているように見えたが、その実かなり焦っていた。
どうして? どうして?
桜は文机の上やら引き出しの中やらをあさり回る。衝立の奥に畳んであった夜具を引っ張り出し、行灯の中を覗き込み、はては花瓶をひっくり返して畳を水浸しにした。けれど、無い。いくら探し回っても無いのだ。銃弾が!
桜は部屋の真ん中で途方に暮れてしばし呆然とたたずむ。それから足元に転がった銃に気付いておずおずと拾い上げた。
握っていつものように引き金を引いてみるも、かちり、となんだか妙にそっけない、乾いた音が鳴るだけだ。銃口からいつものように鉛の弾が吐き出されることはない。
桜はほてりと夜具の上に顔をうずめた。
「ない……」
少し前に確認したときはまだ小箱ひとつ分の弾が残っていたはずだ。なのに、それらが消えたばかりでなく、封切り済みの箱すらも空っぽになっているという始末。誰かが持っていってしまったのだろうか、と考え、桜はうーんと眉根を寄せた。銃弾だけを持っていっても何の役にも立たないと思うのだけども。
考えあぐねた末、ぽて、と寝返りを打ち、桜は深く息を吐き出す。
猫かな。猫が持っていってしまったのかなぁ。
ともかくも弾がなければ銃を撃つことはできない。
近頃はあまり使う機会がなくなってきたとはいえ、刀が使えるわけでも弓が使えるわけでもない桜だから、銃が使えなくなってしまえば爪をなくした猫とおんなじだ。心もとない。
そもそも桜が逃げるとき一緒に持ってきた弾は小箱三つぶんだったので、ゆくゆく弾は切れてしまうに決まっていたが、けれどこんなに早く、しかも思いも寄らぬ形でなくなってしまうとは。
うー、と桜は唸って夜具をばふばふ叩いた。思い悩んでいるのである。
と、はずみ左手に握っていた小箱が畳に落ちてしまった。桜は夜具から顔を上げて小箱を拾い、目の前に掲げて未練がましく中をもう一度のぞきこむ。
はらりと顔面に一枚の紙が落ちてきた。
「……?」
なんだろう。桜は額についた紙をとって、ふたつ折りにされているそれを開く。中にはおっきな字で、
まりまち はいやみくつ むみょう
毬街 灰闇窟 無名
と書かれていた。丁寧に読み仮名まで振ってある。
「まー、い、ま……ち。は、い、か、み、」
桜は覚えたてのひらがなの知識を総動員しながら文字を一字一字読み上げていく。
「むみょう。無名!」
途中はともかく、最後の名前は心当たりがあった。
ひっくり返すと、十四とか四とか言う数字がごちょごちょ書き連ねてある。もしやこれはこの男の居住地を示しているのだろうか。そこに行けば銃弾が手に入ると。
とりあえず都合のいいほうへ解釈しておき、桜はぐっとこぶしを握る。さすが無名だ、頼りになる。
紙を衿元に入れて外へ向かおうとしてから、一度箪笥へ引き返して、桜はよそ行きの淡い紅の巾着袋を引っ張り出した。そこに小箱と銃を入れる。巾着袋には縮緬の小鳥と鈴がついていて、振るたびにちりりんちりりんと鳴る。桜、お気に入りの巾着袋である。
これで準備完了。桜は部屋を片付けるのも忘れて、軽い足取りで外へ出た。
*
ぬくぬくした部屋から外へ出れば、まだ朝の気配の抜けない冷気の容赦ない攻撃が襲う。そこでしゃんと身を引き締めずに、「うー…さむ…」とすかさず背を丸めてしまうのはやっぱり日頃の修練がなってないからだろうか。
とはいえ、寒いものはやっぱり寒いわけで。
「さむい。さむい。すごくさむい。さむい」
周りに誰もいないのをいいことにこれでもかと主張し、雪瀬はかじかんだ手にほぅと白い息を吹きかけた。雪瀬は根っからの寒がりなのである。どれくらい寒がりなのかというと、朝、布団にくるまれながら二度寝、三度寝をするのが至福のときだと胸を張って主張できるくらい寒がりである。
だが、今朝はまだ空が明るむ前に扇に叩き起こされ、布団から引っ張り出された。寝起きの雪瀬は忘れかけていたが、本日は明け六つというすばらしく早い時間から長老会があるのだ。
老人は朝が早いからね、と半ばげんなりしながら雪瀬は所定の席に座る。
議題はおもに当主が不在の間どのように政務その他の雑務などを分担するかについてであった。
颯音がいないとなれば、当然当主代理は弟の雪瀬になってしまう。けれど雪瀬はまだ幼い。ゆえ、長老会全体が代理となり、諸事にあたるのが望ましかろうというのが全体の意見だった。雪瀬もこれを受諾し、あとは常日頃と同じく五條・蕪木家が補佐をする方向で、ということで話がまとまった。
颯音が帰ってくるのは半月から一ヶ月先だという。都へ赴くときなどは行き帰りで三月ほどはかかる旅になるので、それに比べれば今回は短いほうだ。何せ目的地が隣の領地なのである。
颯音兄今頃あっちへはついたのかなぁと遠い空へ思いを馳せながら雪瀬はてくてくと屋敷の中庭を歩いていく。長老会の開かれる座敷は宗家の敷地内にあるのでこのまま自室のほうへ戻ることもできるのだが、雪瀬は門のほうへとまっすぐ向かった。今日はこのあと毬街の関所で“仕事”があるのだ。
「あー! いた、雪瀬!」
ばたばたと慌しい足音が耳をついたのはそのときだった。
「早い…、きみ歩くの早すぎ…っ」
おそらくは急いで追いかけてきたのだろう。透一はこちらの腕を取ると、息を細切れにさせながら、しんどそうに膝に手をついた。
「おはよう、ゆき。――何かあったの?」
「あのねっ、例のひぇんなんだけどねっ、」
勢い余って舌まで噛んでいる。例のひぇん。例の件か。
周りを歩く長老たちにちらと一瞥をやり、雪瀬は少年がいらぬことをまくしたて始める前に、「あぁ」とぽんと手を打った。
「そうそう、例の。梅こぶ茶の件」
「ほぇ? うめこぶ……? ――違うよー、ほら例の毬ま…、ぐほっ」
“ち”、と言いかけた少年の脇を肘で小突くと、雪瀬は己の口元あたりに人差し指をやって暗に制止を促す。
「ちょ、雪瀬何す……、」
文句をいい募ろうとしてから、しかし抜けているにしろ、本来賢い少年はすぐさまこちらの意図を汲み取って話を切り替えた。
「ってあぁーそうだ、そうでした! 毬街の梅こぶ茶の件なんだけどねっ。どうやら思ったより楽に手に入りそうなんだー」
「へぇ、梅こぶ茶がそんなたやすく言うことを聞くとは思わなかった」
「うん、もとから朝廷を快く思っていない梅こぶ茶だからね」
「そーそー荒くれ者の梅こぶ茶だから」
梅こぶ茶の部分をやたら強調して応酬しながら雪瀬と透一は屋敷の表門を出、壁伝いに外を歩く。不思議そうな表情で見守る門番をよそに、雪瀬は内心そっとほくそ笑んだ。どうやら“アレ”は意外にも早く手に入ったらしい。
――いってらっしゃいませ。
と、門番の声が後ろからして、雪瀬は眸を瞬かせた。
自分たちにかけられたものにしてはずいぶん遅い。家の住人でない長老たちに「いってらっしゃいませ」もないだろう。
少しばかりいぶかしく思いながら振り返って、件の門番から横へ視線を移すと、門の隅っこあたりに馴染みのないひとから不意打ちで声をかけられて驚いています、という感じで身をすくめている少女を見つけた。
いつものように無表情を決め込んで通り過ぎようとしてしまってから、何やら思い直した様子で足を止め、桜は門番の青年を仰ぐ。おそるおそるといった様子で彼に何がしか――おそらくいってきますとかそんなところだろう――を返し、小さく手を振った。
そうして門を出てきたときは、先より少しばかり弾んだ表情になっている。
こんな風にきちんと眺めていると、最初のときの印象が嘘みたいに彼女はくるくるとよく変わる表情の持ち主であることがわかる。
たぶん、もとから感受性が豊かなのだろう。今まではそれがうまく表に出せなかっただけで、これからだんだんと、徐々にいろんな表情を見せるようになるに違いない。
楽しみだ、と思った。思ってしまった。何の気なしに。
雪瀬は桜の姿に未来(さき)を見る。
「あ」
足を止めて待っていると、まもなく彼女はこちらを見つけて小さく声を上げた。
「いた、雪瀬」
別に逃げやしないのに、桜は透一並みの落ち着きのなさで一目散に駆け寄ってきた。こちらの袖端をちょんと握りしめ、そこで小さく安堵めいた息をつく。
「……何かあった?」
「あ、あのね、」
「わぁー! 桜ちゃんだー!」
と、形になりかけた桜の台詞をとるような形で透一が顔を出す。
無論悪気があってのことではない。単純に桜と会ったのが嬉しかったらしく、透一は子犬のような人懐こさで「久しぶりー」と少女の肩をぱしぱし叩いた。
「元気だった? 相変わらずほっそいなぁ、ちゃんと食べてるよね? 最近会ってなかったらどうしたかなって思ってたんだよー!」
「……、」
けれどその手のおおらかな感情表現が慣れてない彼女は戸惑った様子で口ごもり、しまいには身体をすくめさせてしまう。そんな少女に気付いたのか、透一はふふーと安心させるように柔らかく微笑んだ。
「あ、ごめんね。びっくりしちゃった?」
「……ううん」
少女はふるふるっとかぶりを振る。
「そっか、よかった。はい仲直りー」
透一は桜の手を取って握手すると、えへへーとにっこり笑った。つられて、桜もほんのりと表情を綻ばせる。
「何かあったのかな?」
「うん。あのね、これ、」
桜は衿から折りたたまれた紙を出すと、どちらに渡そうか少し惑うてから結局こちらのほうへ紙を差し出してきた。
雪瀬はいぶかしみながらそれを開いた。
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