二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 四、


「毬街、灰闇窟、無名?」

 紙に無造作に書かれていた単語を読み上げ、雪瀬は眉をひそめた。

「――何これ?」
「うん。はいやみくつ、どこ?」

 うんと言いながら桜はまったくこちらの質問に答えてない。

「毬街の臙井地区のあたりだったと思うけど」
「まりまち」
「瀬々木のいたとこ」
「あぁ」

 それでようやく得心がいった様子で桜はうなずいた。
 雪瀬と桜は以前、瀬々木の家にふた月ほど置いてもらったことがある。

「それで、これ何?」

 紙を返してもらおうと手を伸ばした彼女からすいと紙を遠ざけ、雪瀬は繰り返す。内通者がうろついているこの時期に変な紙とくれば、疑いたくもなる。桜が直接何かを画策するとは思えないが、この少女はとかく利用されやすそうであるし、ついでにとても騙されやすそうだ。

「それ、私の」
「うん。灰闇窟って何?」
「私の」
「何?」

 ぴょこぴょこと背伸びをして桜は手を伸ばすが、雪瀬と桜の身長差じゃ到底無理な話だ。
 桜は恨めしそうにこちらの手にある紙を見上げ、しかし届かないとわかったのか、少し肩をしょんぼりさせて俯いた。だが、せめてもの抵抗とばかり口を引き結んだまま答えを明かそうとしない。

「桜」
「……」

 咎めるような声で名を呼んだが、桜は顔を俯かせたままだ。
 怒っているんだろうか。それとも、話すことをためらうような内容なのだろうか。雪瀬は不審を強める。さてどう吐かせてやろうかと、腕を組んで考え込んでいると、

「ちょっと雪瀬!」

 桜との間に険のある表情をして透一が分け入ってきた。

「いくら可愛くてたまんないからって桜ちゃん苛めるなんて大人げないよ! すんごく大人げないよ!?」
「……大人げなくないし、可愛くてたまんなくもないです」

 いったいどこをどう見たらそういう風になるのだ。
 少年の言をさらりと流し、雪瀬は小柄な透一の後ろであってもすっかり隠れおおせてしまえている小さな少女に向き直る。雪瀬は大男ではないので身長差といってもせいぜい頭ひとつぶんくらいであったが、それでも桜はびくっとなった。威嚇するみたいにじっとこちらを見上げてくる。なんだかつくづく小動物みたいな少女だなぁと思う。

「桜、灰闇窟って何?」
「……私の」

 睨み合ったまま、双方一歩も引かない。無言で睨み合いを続ける両者を困った様子で見比べ、透一は小さくため息をつく。ちょっとどいて、と雪瀬を押しやると、腰をかがめて桜に目線を合わせた。

「桜ちゃん、何かあったのかな? 飴あげるからねー、僕に教えてくれる?」

 まるで子犬かよくて幼子へ対する口ぶりである。
 てっきり憤慨するかな、と思ったが、桜は透一から包み紙に入った飴を渡されたとたん、鋭かった視線をふっと和らげた。手の中の飴玉に目を落とし、ともすれば見落としてしまいそうなほのかな笑みを綻ばせる。
 ――明らかに空気が軟化している。そうだった。忘れていたが、桜は子犬で幼子なのだ。透一の対応はある意味で非常に的を射ていたと言えよう。
 桜は包み紙を大切そうに巾着袋に入れると、そろりと透一を仰いだ。

「――あのね。毬街行くの、どうしたらいい?」
「あぁ毬街。そうだなぁまずは西の関所に行って通行手形を見せないとね」
「つうこう?」
「桜ちゃん、使ったことあるでしょう。ほら、木の鈴の。橘紋が表面に押された」
「あ」

 言われて思い出したらしい。桜は緋色の眸を大きく開いた。透一の袖をためらいがちに引いて、「それ」と消え入りそうな声で続ける。

「……その鈴、欲しいの、…どうしたらもらえる?」
「あぁなんだ、鈴が欲しいの? そんなのお安い御用だよー。えっとちょっと待ってね、」

 透一はごそごそと袂をあさってほどなく丸いつるりとした鈴を取り出した。表面には橘の紋が押されている。正真正銘、通行手形の木鈴である。

「それ、」

 桜は驚いたように眸を瞬かせたあと、みるみる顔を輝かせる。

「うん。はい、桜ちゃんどー――」
「どーぞ、なわけないでしょ」

 透一が鈴を差し出す。桜が手を伸ばす。あとちょっとで桜の手に渡る、というところで雪瀬は横から鈴をかすめとった。
 まさしくとんびに油揚げをさらわれたという構図。
 空に浮かせた手のひらを呆けた表情で眺め、桜はこちらを振り仰ぐ。

「雪瀬返し、」
「返すも何もまずあげてません。理由、葛ヶ原出入動機が不明確であるため。橘一族は申請者の申し出を却下します。――何か異論は?」

 それこそいっそ大人げないと言われそうな完璧さで雪瀬が切り捨ててみせれば、

「ひ、ひどいっ」

 と隣にいた少年が抗議の声を上げた。

「雪瀬! きみ、どうして桜ちゃんにそういういじわるするのっ?」
「いじわるってあのさぁ……」

 こいつはどうしてそう感情論で訴えてくるんだろう。
 桜に代わってこちらを睨め上げてくる透一と目を合わせ、雪瀬は呆れ返って言葉を切った。それから、俯き小さく肩を震わせている少女へ目を戻す。緋色の眸には涙がいっぱいにたまり、今にもこぼれてしまいそうだ。けれど泣いたら負けだとでも思っているのか、桜は眉根を寄せて苦しそうに嗚咽を飲み込もうとしている。
 ――そういう表情は反則だ。
 雪瀬は深々と息をつき、桜に目線を合わせるようにした。

「――……鈴がいる理由は?」
「……弾、なくなった、から」
「そう。それで、どこの誰のとこに行くの」
「毬街の……」

 そこまで言いかけてから、桜はふと口をつぐむ。思いあぐね、考えあぐねた様子で視線をめぐらせてから、結局口を引き結んでしまった。代わりにふるりと小さく首を振る。

「そう? じゃあ却下。この話終わり」

 雪瀬は鈴を自分の袂にしまってしまうと、紙だけを桜のほうへ返した。桜はこちらに目をあわせずにそれを受け取る。指先が微かに震えていた。さなか、垣間見た表情はもはや泣く一歩手前といった風で。……ほんとどうしてそういう表情するかな。
 雪瀬はきびすを返しかけた足を止め、桜の額をつんと指で弾いた。きょとんと緋色の眸が瞬く。つん、つん、と弾く。よたたた、とふらつき、桜は濡れた眸で何をするのだとばかりにこちらを睨め上げた。
 雪瀬は笑って少女の顔を覗き込む。ゆらゆら涙に揺れる眸がこちらに焦点を結んだ。

「桜あのね、しばらく屋敷にいて」
「……どうして?」
「どうしても」
「……?」
「今そこかしこに人間の顔をした化け物がいるので。見分けられないようなひとは取って喰われてしまうのです」

 言葉が抽象的に過ぎたろうか。怪訝というよりはむしろ不思議そうな顔で見上げてくる少女に苦笑し、雪瀬はぽんとその頭を軽く叩くと今度こそ足を返した。




「そこかしこにひとの顔した“化け物”がいる、かぁ…」

 透一は道端に残された少女がいまだに気にかかっているらしい。何度も背後を振り返りながら、のろのろと雪瀬の後ろをついてくる。

「言い得て妙かも、今の状況。――ってちょ、雪瀬―、待ってってば」

 歩みの遅い透一を置き去りにしてさっさと雪瀬が行ってしまうと、あちらは慌ててからころ下駄を鳴らしながら追いかけてくる。

「今日もこれから毬街の屯所?」
「そうなるね。そっちは?」
「んー、薫ちゃんを手伝って内通者の件、探るつもりだけど……」
「うまくいってないんだ?」
「まぁ、……そうだね」

 透一は歯切れ悪くうなずいた。

「範囲は狭まれているはずなんだけどね。なかなか……。第一、あちらはいったい何が目的でうちの情報を朝廷に流しているんだろう」
「怨恨、とか」
「何に対する?」
「……さぁてそれは」

 答えかねて雪瀬は視線をよそに逃した。

「きみってさぁ本当、淡白だよね」

 他人事めいた態度が気に食わなかったらしい。呆れた風に呟き、透一はこちらをくるりと振り返る。

「どぉしてそうなっちゃったんだろ。昔はもっと可愛かったのにさー?」
「淡白は昔からでしょうが」
「嘘、それないっ。雪瀬、ちっちゃい頃はお漏らししたくらいで大泣きしてたし、あのときなんて僕、凪くんと……」

 そこまで言ってから、透一ははたと口を閉ざした。

「……ごめん」
「別に。何で?」

 しゅんとしょげ返る少年を見やって雪瀬は一笑する。それは自分としては心からの言葉であったのだが、透一は小さく首を振って、何でもない、と呟いた。