二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 二十、


 黒羽織の男が入っていったのは、毬街の中でも富裕の商人や貴族が別宅を構える一角だった。つまり貧民窟とは反対の富裕層地区である。藤月邸というのはどうやらその中でも特に大きな屋敷を持っているらしい。石組の上に海鼠壁、さらに白漆喰壁がつくられ、堀のように屋敷を囲んでいる。角には物見窓のようなものも見えた。
 門構えがかなり立派であるところから見ても、藤月なる男の羽振りがよいことは想像がつく。貴族であるならばそこそこの家柄なのであろう。毬街は基本、来る者拒まず去る者追わず、の掟にのっとり、特定の一族や朝廷への肩入れをしないことを基本としていたが、中には朝廷と親密になる商人、貴族や反対に橘などに力を貸す勢力もいる。黒羽織をかくまっているところを見ると、藤月という者は朝廷と懇意にしているらしい。

「藤月って聞き覚えある?」
「さぁ……。異国船と取引する商人の中にそのような者がいたような記憶もあるような気はしますが」

 数年毬街で過ごしただけあって柚葉はその手のことに詳しい。
 ふぅんとうなずき、雪瀬は門に篝火の焚かれている屋敷へ目を戻した。門前にはふたりの門番が立っている。富裕層の邸宅であるならば、盗人などにも狙われやすいはずだから門番を置くのは至極当然であるが、何やら表情に険があるようにも見えた。

「何か、警戒してる……?」
「――兄さまにもそう見えましたか」
「うん、ぴりぴりしてる。もしかしたら当たりかもね」

 もし真砂をかくまっているのだとすれば、警備が厳重になるのもうなずける。

「でも外から見てるだけじゃ真砂が中にいるかわからないな」

 門番に聞くことができれば一番いいのだが、不審者と疑われて身元を調べられたら一発である。この際、顔が割れていない暁を連れてきたほうがよかったかな、と雪瀬は少し思った。

「いいえ、わかります。行きますよ兄さま」
「ちょ、柚?」

 ぐいとこちらの袖を引き、飛び出していった柚葉を雪瀬はいぶかしげな顔をして追う。何をやっているのだ。門番に気付かれたらどうするつもりなのか。

「もし、そこのお方」

 だがあちらが気付くよりも早く柚葉は自ら門番に話しかけた。その背にようやく追いついた雪瀬は目をぱちくりとさせ、「柚、」と鋭く叱咤するような声を発する。しかし柚葉は話をやめず、代わりにこちらの足をさりげなく踏んできた。

「だっ」

 どうやら静かにしていろ、ということらしい。
 槍を肩に置いていた門番が顔を上げ、じろりと奇声を上げた雪瀬を睨みつけた。愛想笑いをしてみせるが、門番は冷めた目をしている。

「……何用だ?」

 どちらに尋ねるべきかとしばし思案をしたあと、門番は雪瀬から柚葉へ目を戻した。

「はい。実は橘真砂さまというお方がこの館にいるという話をお聞きしたのですが」
「――どこから聞いた」

 門番は声を低くして柚葉の肩をつかむ。
 煩わしそうに顔をしかめて、柚葉は男の手を払った。

「乱暴をしないでください。本人からでございます」
「本人だと?」
「ええ。私、薬屋にて働いておりましてね。この薬を真砂さまに届けるよう仰せつかったのですが、そうでございますか。違いましたか」
「いや……」

 門番は歯切れ悪く言葉を濁し、背後の番所のほうをうかがった。それからひとつうなずいて、手を差し出す。

「出せ。渡しておこう」
「ありがとうございます。――おや」

 一度袂を探るようなそぶりをしてから柚葉は不意に手を止めた。

「どうやら忘れてしまったようです。失礼いたしました」
「なんだお前らは……」

 門番は呆れ果てたといった様子で肩をすくめる。柚葉はもう一度丁寧に頭を下げて、雪瀬の袖を引いた。退却、とのことらしい。もういいのだろうか。若干後ろ髪を引かれながら、雪瀬は歩き出してしまった柚葉を追いかける。

「おい」

 背中から険のある声がかかった。

「本当に薬屋だったんだろうな?」
「――マアカナウソナリグサをご存知で?」

 つと考え込んでみてから雪瀬がそう返せば、門番は眸を眇めて構えていた槍を下ろす。

「謎かけなどいらん。去れ」
「どーもー」

 ひらりと手を振って雪瀬は足を返す。
 マアカナウソナリグサ。真っ赤な嘘なり草、つまり嘘である。

「柚」
「……見つかりましたね」

 ひそひそと言葉を交わしあい、雪瀬は背後の大門を仰いだ。
 あそこに真砂はいる。






 夜は更ける。
 闇夜に溶け込むような足元へ視線を落としながら、桜は暁と一緒に行灯など占い屋で使ったものを柚葉の長屋まで運んでいた。通りが近くなってくるが、人の往来はなく、冷たい夜風が雨戸を震わせる音だけが響く。

「雪瀬、大丈夫かな」

 柚葉の部屋に上がって行灯を置くと、桜は七輪を温めている暁を振り返った。

「ええ。柚葉さまもいらっしゃいますし、無理はなさいませんでしょう」

 暁はいつもの穏やかな微笑を返し、桜に七輪の近くに来るよう言った。行灯に光が灯っただけの薄暗い室内で橙色の炭がぱちぱちと爆ぜる。手をかざしていると、冷たかった身体が徐々に温められてきた。

「ところで、桜さま。先ほど、雪瀬さまに何か言いかけておりませんでしたか……?」
「うん。これ、」

 桜は真砂から渡された紙を暁に見せる。紙には一文しか記されていなかったが、あいにくと漢字が読めない桜には何が書いてあるのかわからなかった。
 暁の青い眸が紙へ落とされ、すっと眇められる。青年のまとうた空気の微細な変化を読み取って桜は少し首を傾けた。何か、ワルイコトでも書いてあったのだろうか。

「中、何て?」

 暁の袖をついついと引いて尋ねてみる。

「――これは誰が?」

 だが、暁は桜の問いは無視して別のことを聞いた。この気立ての優しい青年にはめったにないことである。暁の空気に気圧され、桜はおずおず口を開く。

「真砂……」
「そうですか」

 そっけなくうなずくと、暁は紙をくしゃりと丸めて、七輪の炭へと投げ入れてしまった。桜は驚き、紙を拾おうとする。それを暁の手が遮った。

「桜さま。火傷をしてしまいます」
「でも、だって、紙、」
「案ずることはない。つまらぬことしか書いてありません」
「でも雪瀬に渡せって」
「雪瀬さまの目に入れるまでもない」

 暁は断じたが、桜にはそうは思えない。
 真砂はこれを雪瀬に、と言っていた。書いてあることが何であれ、それは雪瀬に渡されるべきものであって、暁や桜が勝手に取り上げてしまってはいけないのではないか。
 火がつき、見る間に小さくなっていく紙を眺めながら桜は暁に紙を渡してしまったことを後悔した。紙は直接、桜から雪瀬に渡すべきだったんだ、と思った。

「真砂さま、と仰りましたね。桜さまは真砂さまにお会いしたのですか?」

 暁の問いかけは続く。
 桜は戸惑いがちにこくんと首を振った。

「灰闇窟の近くの水茶屋で、真砂、樹の上にいて」
「そのあとは?」
「そのあとは、わからない」

 雪瀬にこれを渡して、と頼んで真砂はまたどこかへ消えてしまったのだ。
 そうですか、と暁は落胆の色をありありと滲ませて漏らした。意気消沈、という形容がぴったりとくる。

「真砂、何かあったの?」
「……いえ」

 不安になって問いかけると、暁は何か気にかかることでもある様子で言葉を濁す。額に手を置いてしばし瞠目すると、暁はこちらをうかがい、そっと声をひそめて囁いた。

「桜さま。差し出がましい口かと思いますが……。くれぐれも真砂様には気を許されますな」
「……どうして?」
「あの方はおそらく、橘宗家を憎んでいる」
「にくむ?」
「ええ」

 確然とうなずいた暁の顔を桜はのぞき見る。それから少し前に言葉を交わした、あのお喋りで自分勝手な青年のことを思い返して、そうだろうか、と考えた。

「――大嫌いって言ってた」
「は、」
「でも憎んでる、って言ってない」

 そう、真砂は桜に言ったのだ。
 橘雪瀬が大嫌いだと。ただ、嫌いなのだと。

「キライとニクイは、同じこと?」

 純粋に不思議に思って尋ねてみると、暁は虚をつかれた様子で眸を大きくした。

「――……さぁ、私にはどうも……」

 暁は曖昧な言い方をして話を切った。そのとき、長屋の扉が開く。雪瀬と柚葉が帰ってきたのだ。胸の中にわだかまりのようなものを残しながら、桜は七輪の中の燃えかすとなった紙を眺めた。