二章、撃ち落されるその鳥の名は、



 二十一、


 鐘が鳴る。続けて九つ。
 暁九ツ、子の刻、深夜である。
 藤月邸の正面門では篝火が絶やすことなく焚かれ、ふたりの門番が槍を持って門の前に立っている。門の脇にある番所にも幾人か寝ずの番が詰めていることは一目瞭然であった。
 
「もし――」

 闇夜からそんな声がかかったのはちょうど九回目の鐘の残響が消える頃であった。被衣をかぶった少女の白い顔がぼうと浮かび上がり、門衛はひっと短い悲鳴を上げた。のけぞり、思わず少女の足元へ視線を走らせる。下駄を履いた足が二本、きちんとあるのが確認できた。
 ひとだ、霊ではなく。

「……何用だ」

 必要以上に驚いてしまったことへのばつの悪さを滲ませながら、門衛は槍を少女のほうへ差し向ける。

「こちらは藤月さまのご邸宅でございましょうか」
「いかにも。それが何だ」
「昼に参りました薬師です。ご注文の薬を届けにうかがったのですが」
「くすし……?」

 門番はいぶかしげな表情になって少女の顔を覗き込む。大きな濃茶の眸が男を見返した。まるで吸い込まれそうな妖気を孕んだ眸だ、と男が思っていると、不意にその瞳孔がすっと細められる。
 ううっと小さく呻いて少女はその場に座り込んだ。

「ど、どうした?」
「いえ、持病の癪が……」

 乾いた唇から苦しげな息を漏らし、少女は胸を押さえる。肩はせわしなく上下し、顔色は死人のように悪く、まるでこのまま卒倒しかねん勢いだ。

「お、おい……」

 門番は困り果て、あたりを見回した。

「どうした?」

 相方が不思議そうな顔をして近寄ってくる。

「いや、この娘さんがな。体調が悪いと」
「本当に? い、医者を呼んだほうがいいかな」
「しかし薬師だというし……」

 おろおろと顔を見合わせる男ふたりへ少女は弱々しく首を振り、大丈夫ですから、とかすれがちの声で言った。

「すぐに治ります。ですからほんの少しだけ……」

 柚葉は俯き、そっとほくそ笑んだ。






「んしょ、」

 雪瀬は暁に肩車をしてもらって塀をよじのぼる。瓦屋根に手をかけ、そちらに移ると屋根に股をかけた。手に持っていた縄の鉤を屋根に引っ掛け、暁のほうへ放る。ぎしぎしと若干危うい音を立てながら暁が縄を使って屋根に上ってきた。鉤を外し、暁に続いて屋敷の内側へひょいと降りる。塀はさほど高くはなかったし、ちょうど植え込みになっていたのであまり衝撃はなかった。
 
「広い、ですね」
「宗家とどっちが大きいかな」

 目の前には橘の宗家にも負けず劣らずの広大な庭が広がっていた。その先に見える何棟にも分かれたお屋敷を仰いで、さてどうしたものかな、と雪瀬は腕を組む。
 藤月邸は昨晩見た門衛の様子や屋敷の外観から警備に抜かりがないという印象を受けた。だが、突破できぬほどのものでもない。宗家に比べればてんで手ぬるいと見た。
 なので柚葉が門番を引き付けている間に雪瀬と暁が藤月邸に忍び込むという計画を立てたのだが、しかし宗家並みの大きさの敷地から真砂を見つけだすというのは結構難しいかもしれない。あちらの家人に見つからないようにすることも考えると、骨の折れる作業になりそうだった。
 一時も無駄にはできない。
 そう考えると、雪瀬は暁を伴い、極力足音を立てぬよう細心の注意を払いながら歩き始めた。

 少しすると左方に下っ端の家人などが寝泊りする長屋が見えてくる。
 それにしても長い。栗羊羹がどんと闇に鎮座しているみたいだ。みな寝ているらしく、明かりは見えない。

「真砂さまがここにおられるということは……」
「いや、ないと思う」
 
 もしも真砂が藤月邸にいるのだとしたら、長屋ではなく、客人などが通される座敷に隠されるようにしているはずだ。それにあの我侭な男が他人と共同生活など送れるわけあるか。
 悪態をつきつつ、雪瀬はひっそり静まり返っている長屋の側壁を素通りする。
 脳裏に宗家の屋敷を思い描いてみた。もしも自分が家のあるじであったのなら、懇意にしている客人はともかく、得体の知れない男を母屋に置いたりはしない。寝首をかかれるともしれないからだ。さらにそれが人目を避けたい客人であるならば――、と雪瀬はいつの日か桜を宗家の屋敷に隠したときのことを思い出した。
 おそらくは離れ。離れにある客間の一角だ。
 雪瀬は西と東にたたずむ館を仰ぐ。

「とりあえずあそこに狙いをつけよう。暁は西、俺は東で」
「了解しました」
「……気をつけてね」
「ええ、雪瀬さまも」

 西へ進路を取る暁の背中を見送り、雪瀬も東の館へと向かう。

 秋の庭には紺色の花が群れ咲いていた。
 雨を呼ぶ花、とひとびとに呼ばれる草である。足元に咲く花々を踏みしだきながら進むと、次第に袴の裾がしっとりと湿り気を帯びてきた。草の葉に夜露が降りているらしい。少し視線を上げると、樹の間に張った蜘蛛の巣にも雫が宿って、月光をきらきらと弾いていた。

 ――もしも仮に真砂を見つけられたとして。
 足音を忍ばせて庭を進みながら雪瀬は思案する。
 真砂に自分は何を言えばよいのだろうか。本当に内通を働いていたのかをもう一度問うたにしても、……だけどもそうだとうなずかれたら雪瀬はどうすればよい。殺めるのか。凪のように真砂をも殺めればよいのか。わからなかった。ぐるぐると回る思考を抱えて雪瀬は庭を彷徨い歩く。

 静かな月琴の音がどこからともなく流れてきた。秋の夜に溶け入りそうな、どこか物憂げな、静かな音色だ。――ひとがいる。雪瀬は月琴の旋律に惹かれるように茂みを掻き分けて行った。
 頭上に張り出した蔦を押しのけると、視界が一気に開ける。寂れた濡れ縁に腰掛けた少女が膝に置いた月琴を静かにかき鳴らしていた。雪瀬はひとつ眸を瞬かせ、息をのむ。
 藍だった。
 夜風にさわさわと肩から流れた黒髪が揺れ、少女の手元に淡い残影を描く。長い睫毛は伏せられ、うっすら少女の目元に影を落としていた。その横顔にはどこか見覚えが、ある。
 ――桜。
 先日の柚葉の言が脳裏に蘇った。確かにこうして見ると、氷鏡藍と桜には相通じるものがあるようにも思う。桜という少女を見たとき、真っ先に目が行くのは緋色の眸のほうであったし、また、ふたりの年が違うせいで今まであまり意識したことはなかったのだが、こんな風に遠目に見ていると面影が重なる瞬間がある。容姿もそうだが、何よりも身にまとうた気配が似ているのだ。静かで、触れれば脆く崩れてしまいそうな、そんな透明な玻璃にも似た空気。
 これは単なる偶然の一致なのだろうか。
 雪瀬は眸を細め、藍を見つめた。






 一方こちらは西の館へ向かった暁である。
 一度奥から歩いてきた藤月邸の家人を茂みに隠れてやり過ごした暁は、あたりに誰もいないのを確認すると、さっと茂みを抜け出て館の濡れ縁へと上がりこむ。足音一つ立てない、さながら影のごとき動きであった。
 だが濡れ縁に上がりこんだとたん、ずきりと脇腹が痛んで暁は顔をしかめる。か細く喘ぎ声を漏らし、腹を手で押さえた。傷を負ってかれこれひと月ほど経つのだが、如何せんかなり深かったらしく、人形の生命力をもってしても未だ治りきらない。
 思い通りにならない身体が厭わしく、暁は苦しげに眉根を寄せる。何とか息を整え、とりあえず人目のつかないところへと移動しようと考えた。濡れ縁はどうにも視界が開けていていけない。今ひとに見つかってしまっては計画が破綻してしまう。
 考え、暁は衣擦れの音を立てぬよう気を配しながら腰を上げようとする。
 ひんやりとした風の気配が首筋を掠めた。
 暁は表情を強張らせる。八代に長く仕えてきた暁だ、間違えようもない。これは、――風術師の気配。

「おやおや。まぁまぁ。こんなところでなぁーにしてんの。葛ヶ原の狗が」
「――……真砂さま…」
 
 背中に印を組んだ手が押し付けられているのがわかる。戦うまでもなく、暁の命はすでに真砂に握られたも同然だった。呪が唱えられた瞬間、風が暁の四肢を切り裂くだろう。唇を噛み、暁は視線だけを背後へとずらす。

「あなたさまこそかような場所で何をしておられるのです?」
「何をして、ねぇ。教える必要、ある?」
「私には聞く義務がございます。――何故なら、」

 声をひそめ、暁はそっと真砂の耳元へと唇を寄せる。囁いた言葉に青年は濃茶の眸をひとつ瞬かせ、ほどなくそれをぞっと冷えいるような色へと変えた。